唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元七~八年 西暦791~2年

2020-03-24 10:00:33 | Weblog
二月戊戌,涇原節度使劉昌築平涼故城,朝谷堡。
涇原節度使が吐蕃の侵攻に耐えられるようになった。

二月癸未,易定節度使張孝忠薨。
記載されていないが子茂昭が自動的に継承。一貫して唐朝方だった孝忠への配慮。

四月,群蠻酋長杜英翰等起兵圍都護府,都護高正平以憂死。群蠻聞之皆降。
新唐書では「安南首領杜英翰反,伏誅」と書いてあるが、実際は正平の暴政に対
する蜂起で、正平の死で自然に収拾されたとみられる。

八月丙午,翰林學士陸贄為兵部侍郎,餘職皆解。
宰相竇參惡と翰林院を基盤とする贄との対立が激化し、参が贄を翰林追い出した
もの。このころから翰林院の地位が上昇し、次期宰相を出す場所となっていった。

九月回鶻遣使來獻俘。
吐蕃が靈州を攻めたが、回鶻[回紇の改称]が破った。唐-回鶻同盟の実があがってきた。

貞元八年 西暦792年
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三月丁丑,山南東道節度使曹成王皋薨。
留後李實は酷薄なため皋の没後軍乱が起こった[皋は麾下に信望があったため、
その家は掠奪されなかった]。都將徐誠がなんとか収拾した。

三月甲申,宣武軍節度使劉玄佐卒,子士寧が自立。
玄佐没後、唐朝は將士への対応を誤り、派遣した吳湊が入部できず、士寧の自立
を追認することになった。

四月,乙未,貶宰相竇參為郴州別駕。趙憬、陸贄が宰相に任用。
泌の死後、専権を振るった参を德宗は嫌って失脚させた。代わって翰林院派の
陸贄・趙憬が宰相に。陸贄が執政である。

五月癸酉,淄青平盧節度使李納薨。軍中推其子師古知留後。
唐朝は淄青に手を出すことはできず、ただ追認するのみ。

九月丁巳,韋皋及吐蕃戰於維州,敗之。
吐蕃と雲南蠻は不和となり、側面が安全となった韋皐は吐蕃を圧迫していった。

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