唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元九~十年 西暦793~4年

2020-03-25 10:00:23 | Weblog
二月,鹽州城を再築。
二年鹽州城が落ち、城が破壊されて後、吐蕃は朔方と京師を分断し、深く侵入できる
ようになっていた。そこで兵三萬五千人を派遣して鹽州に城を築こうとした。当然吐
蕃も大軍を派して牽制する。唐朝は涇原、山西、劍南軍を吐蕃領域に侵攻させこちら
も牽制した。二十日間にして築城は成功し、杜彥光を駐屯させる事に成功し、吐蕃は
安易に侵攻できなくなった。

五月甲辰,董晉が免ぜられ、賈耽と盧邁が宰相となる。
趙憬は陸贄が専権を振るうのに嫌になり出仕しなくなった。耽と邁は凡才である。

七月、韋皐の誘いにより、劍南西部の蕃族西山八國が入朝し、雲南蠻も来附したため、
対吐蕃では劍南では唐朝が優勢となっていった。

八月庚戌,太尉李晟薨。

十二月丙辰,宣武軍將李萬榮逐其節度使劉士寧,自稱留後。
士寧は父玄佐とは違い淫亂殘忍で士卒の人気がなかった。狩猟に城外へ出た所を
萬榮に閉め出され京師に亡命するしかなかった。

貞元十年 西暦794年
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正月壬辰,南詔蠻敗吐蕃於神川,來獻捷。
終に雲南蠻は公然と吐蕃に反旗を翻し吐蕃を神川に大破した。

二月、橫海節度使程懷直入朝,厚賜遣歸。
河北三鎭と淄青は互いに攻伐、内戦を行い、対唐朝には向かわない状況であった。
弱小の滄景程懷直は抜け駆けに入朝し実利を得ることにした。

六月壬寅朔,昭義節度使李抱真薨。子緘が自立を図る。
唐朝は急遽、將士に人望がある将王虔休を後任に任命し、緘は成德王武俊の後援
を求めたが拒否され諦めた。しかし同僚の将元誼は不満で東部で自立を図り内戦
が続いた。唐朝は継承こそ阻止はしたが、内部昇格で諦めるしかなかった。

十二月壬戌,宰相陸贄罷為太子賓客。
姑息頑迷な德宗はことある毎に献策と諫争する贄が嫌になり罷免した。この後の
宰相達は德宗のいいなりであった。

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