唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

昭義 劉稹の乱 1

2022-11-20 08:51:04 | Weblog
昭義劉氏の自立は、淄青李師道を裏切った劉悟[正臣の孫]に始まります。裏切った恩賞として義成軍節度となり、昭義軍節度に移りました。いずれも淄青軍時代の親兵数千を引率して牙軍としています。

寶暦元年8月
劉悟の死後、子の從諫は自立を図り、宰相李逢吉、宦官王守澄に贈賄し継承に成功しました。

従諫は自らは忠臣をもって任じ、李同捷征討に参加し、入朝するなど親唐朝姿勢を示していました。

大和9年の甘露の変で、宦官達は李訓派のみならず、変に関係しない宰相全員を殺害し、専権を振るい、文宗皇帝や新任宰相李石・鄭覃もなすすべはありませんでした。

従諫は親しかった宰相王涯が殺害されたことを怒り、殺害された宰相達の罪状を公開することを要求しました。行き過ぎた行為をしていた宦官勢力は懼れておとなしくなり、李石達も少しは政務を行うことができるようになりました。

従諫はつどつど上奏し、宦官達の勢力を牽制しましたので、宦官達は深く憎んでいました。
また甘露の変で被害にあった宰相等の一族を庇護し潞州に亡命させていました。

開成5年、従諫を頼りにしていた文宗皇帝が崩御し、宦官仇士良などが擁立した武宗皇帝が即位しました。武宗は牛李の党のうち李党の李德裕を信任しました。李党は藩鎭抑制政策をとっています。

會昌3年4月
昭義節度使劉從諫が卒し、從諫姪の稹[弟従素の子]が自立し継承を求めました。

唐朝は朝議を開き劉稹を征討すべきかどうかを審議しました。宰相の大半は穏便を主張しましたが、李德裕は宦官勢力と結託し討伐を主唱し、武宗皇帝もまたそれに同調しました。

德裕は河北三鎮が昭義と結託しないように、成德王元逵、魏博何弘敬、幽州張仲武に遣使し、唐朝は河北三鎮に手を出すことはないと保証し、協力を求めました。三鎮も了承しました。

忠武節度使王茂元[栖曜の子]を河陽節度使とし、邠寧節度使王宰[智興の子]を忠武節度使とし征討体制を作りました。

會昌3年5月
劉從諫・稹の官爵を削りました。

成德軍節度使王元逵を北面招討澤潞使,魏博節度使何弘敬を東面招討澤潞使とし、河中節度使陳夷行、河陽節度使王茂元、河東節度使劉沔を劉稹征討軍とし、武寧軍節度使李彥佐を晉絳行營諸軍節度招討使として統率させました。

憲宗時代と違って中央の神策軍が入っていません。宦官達の収賄により親衛軍たる神策軍は腐敗堕落[豪商や貴族達の子弟の巣窟でパレードにしか使えません]していたのです。黄巣の乱がおこった時に京師を守る部隊がなかったのもこのためです。従諫にちょっと脅されると宦官達が震え上がったのも、この実情がわかっていたからでした。

使える部隊は、回紇と戦い北邊を守っていた河東軍、山棚の住民や淮西軍の残余からなる忠武軍、驕兵で無頼の武寧軍程度で、さして強くはない昭義軍討伐にも不十分な体制でした。

德裕は牛派の元宰相李宗閔が昭義に通じているとして左遷しました。

河陽節度使王茂元は萬善を守り、河東節度使劉沔は芒車關,遼州榆社に進み、成德節度使王元逵は洺州臨洺,邢州堯山を攻め、河中節度使陳夷行は絳州翼城,晉州冀氏に屯しました。

會昌3年6月
王茂元は天井關を攻めました。


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