唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

涇原 劉文喜の乱

2023-01-04 08:02:48 | Weblog
宰相楊炎は対吐蕃防衛の為、原州に築城し、涇原節度軍[涇州]を原州に移そうとしました。本来涇原軍は安史の乱に際して西域の北庭や安西から派遣された行營軍が流浪して邠州に定住し、さらに僻地の涇州に遷されて成立しています。
楊炎の策を諮問された涇原節度使段秀實は「また兵備は整わず、今はその時期ではありません」と反対しましたが、節度使を罷免され、閑職の司農卿に飛ばされました。

建中元年2月
邠寧節度使李懷光に四鎮北庭行營涇原節度使を兼任させ、軍を原州に移し、実権を持つ留後劉文喜を別駕に飛ばしました。
移鎭を聞いて將士は[やっと安住できるかと思ったらまた僻地にやられるのかと]憤激しました。
また涇原の將達は、邠寧で懷光が従わない將達を誅殺したことを知り懼れていました。

文喜達は涇州に籠もり「帥に段秀實を復するか、朱泚にしてくれ」と要求しました。泚は寛厚で人望がありました。

そこで朝廷は鳳翔節度使朱泚に涇原兼任を代えました。

建中元年4月
しかし文喜達は自立を策し、吐蕃に来援を求めました。

朱泚・李懷光・神策軍使張巨濟に征討が命ぜられました。

建中元年5月
征討軍は涇原軍に同情的で成果があがりません。

文喜は將劉海賓に入奏させ、節度を求めました。海賓は太子時代の德宗に仕えた前歴がありました。德宗は要求を峻拒するとともに將士に賜与は変わりなく与えました。

吐蕃は当時唐との関係が改善傾向にあったため文喜を支援することを拒否しました。

海賓は德宗の意志が変わらないことを將士に説き、文喜を殺して降りました。

そして原州築城は中止され、涇原軍の移鎭もなくなりました。

劉海賓は樂平郡王に封ぜられました。

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