唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劍南 崔旰/寧の乱

2023-01-02 08:01:31 | Weblog
崔旰[賜名されて崔寧]は河北衞州の儒家の生まれだが、兵学を好み劍南に流れてきて將となり、文官の節度使嚴武に重用され漢州刺史、西山都知兵馬使として対吐蕃戦に功績が大でした。

ところが永泰元年4月嚴武が卒すると、5月後任に朝廷から歴戦の將右僕射郭英乂が派遣されて来ました。
旰は大將王崇俊を推していましたがならず、英乂に崇俊は殺され、旰もまた解任されて召還されました。

永泰元年閏10月
旰が召還に従わないので、英乂は軍糧を絶ち、大軍で伐ちましたが、山岳戦に長けた旰に敗れ敗走しました。英乂は厳酷であったため士卒は附きません。

旰は所部を率いて成都を陥し、英乂は簡州に奔りましたが、途中普州刺史韓澄に殺されました。

邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔が蜂起し劍南は大騒動となりました。

永泰2年/大暦元年2月
朝廷は華州周智光の乱のため劍南どころではなかったのですが、劍南は唐朝には重要な地域ですので
宰相である黄門侍郎同平章事杜鴻漸を山西劍南東川等道副元帥充劍南西川節度使として征討にあたらせました。
鴻漸は文官ですので、実際の討伐は武官山西節度使張獻誠に劍南東川節度觀察使を兼任させてあたらせます。

邛州刺史柏茂林を邛南防御使,劍南西山兵馬使崔旰を茂州刺史充劍南西山防御使としてもいます。

永泰2年/大暦元年3月
ところが獻誠は旰に梓州で大敗し遁走しました。

弱体な唐朝にはもう討伐に派遣できる兵力はありません。それどころか華州周智光すらどうにもできないのです。

永泰2年/大暦元年8月
鴻漸はひたすら「私の顔を立てて成都へ入れてくれ、悪いようにはしないから」と旰を慰撫しました。旰もただの軍人上がりではないので鴻漸に賄賂を贈り朝廷へのとりなしを依頼しました。

鴻漸は茂州刺史崔旰為成都尹劍南西川節度行軍司馬とし、柏茂琳・楊子琳・李昌夔をそれぞれ本州刺史としました。つまり旰に実権は与えるので名目上朝廷に帰服せよという鴻漸の意向です。

成都に入った鴻漸は、旰の反をまったく責めず、ひたすら朝廷の要路への働きかけ方を教え、政務を委任しました。

大暦2年6月
鴻漸は旰を西川留後とし、莫大な蜀の財宝を携え入朝し宰相に復帰します。そして宦官や要路に財を撒き、旰の継承を承諾させました。もちろん自分も取り込んでいます。

大暦2年7月
劍南西川節度行軍司馬崔旰が劍南西川節度觀察等使となり、遂州刺史杜濟が劍南東川節度觀察等使となりました。
西川は半独立体制となりましたが、一応唐朝の支配下に留まりました。これが当時の唐朝の実力です。
それなりに有能な旰は吐蕃の侵攻をくい止めました。

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