唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

石雄伝

2019-02-17 20:43:44 | Weblog
會昌年間、李德裕に登用されて、回鶻・劉稹を討伐した将軍です。

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石雄伝
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徐州人、祖系も不明であった。

勇敢であり人望があったので徐泗濠武寧軍節度使の将となった。

長慶二年.王智興は節度使崔羣を逐って自立したが、まもなく唐朝に協力することでその地位を安定させようとしていた。

宝暦二年.横海李全略の子同捷が自立しようとすると、智興は率先してこれを伐ち、雄を右廂捉生兵馬使とした。
雄は勇戦し功績大であり、智興と違い寛大であったので兵の人気が高かった。

太和三年.智興は兵乱を怖れて唐朝に請願して、雄を壁州刺史に出し、その後与党を誅殺した。
そして唐朝に雄を殺すことを求めたが、勇将を求めていた文宗皇帝は牽制の意味もあり嶺南白州に流すに留めた。

そして陳州長史とし、紛争を起こしていた黨項との戦いに振武軍将[節度使劉沔]として活躍したが、智興との関係で文宗時代は昇進は遅かった。しかし李徳裕・李紳とは崔羣を通じて親しかった。

會昌二年.回鶻帝国が衰微して唐の北邊になだれ込むようになり、天德防禦副使兼朔州刺史として劉沔を輔佐し防衛にあたることになった。

そして三年.回鶻を殺胡山に大破して、大和公主[可汗の妻.穆宗皇帝の妹]を奪回するという大功を上げて、檢校左散騎常侍豐州刺史兼御史大夫天德都防御等使となった。
雄は寛厚軽財で、恩賜物を功績ある將士に惜しみなく分与したため人望は極めて高かった。

同じく三年.昭義軍節度使劉従諫が卒し、甥の稹が自立したため。武宗皇帝・宰相李徳裕はこれを伐とうとした。しかし招討使李彥佐[武寧軍節度使]は、当時の將軍の例で緩慢であり、ぐすぐずとして動こうとしなかった。
そこで徳裕は九月雄を招討使とし雄はただちに攻撃を開始し昭義管内に突入した。別将王宰[智興の子]も発憤し澤州を陥し、魏博・成德も邢洺磁州を陥すなど一気に戦況は動いた。

四年三月.檢校左僕射河中尹河中晉絳節度使となった。

八月.雄は昭義の中心である潞州に突入し、昭義将郭誼が裏切って降ったこともあり平定は成功し、検校司空に昇進した。

十二月.河陽節度使に移った。

會昌六年.鳳翔隴右節度使に転じた。

智興の事もあり、子である宰の一党とは犬猿であり、常に排斥しあっていた。

ところが宣宗が即位し、李徳裕が失脚すると、大中二年.左神武[龍武]統軍に左遷され、失意のうちに卒した。
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