唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大中四年~五年 西暦 850~51 

2020-02-24 10:02:55 | Weblog
四年六月戊申,宰相魏扶が卒し、崔龜從が宰相となった。

八月,幽州盧龍軍亂,逐其節度使張直方,衙將張允伸自稱留後。
 旧唐書・通鑑では三年十一月であり、立ったのは張允伸ではなく、周綝
 が嗣ぎ、綝が卒したのが四年九月で跡を継いだのが允伸である。

十月辛未,令狐綯が宰相となった。
 宣宗の信任が厚く昇進が早い、白敏中も既に穴を掘られる立場である。

十一月,黨項羌が邠寧を侵した。
 当時、神策軍人上がりの辺境の節度使達は、貪欲であり辺境の部族を収奪
 するものが多かった。親衛軍である神策軍は宦官達が食いものにして、京
 師の富裕層[商人達]から収賄して編成していたので形骸化し、ただ利得
 を求めたり、徴税を逃れる連中で構成され。出身の節度使達も贈賄により
 任命されるのが当たりまえだった。辺境民達は不満が蓄積していた。

五年三月,宰相白敏中為司空,招討南山平夏黨項行營兵馬都統。
 憲宗時代の裴度の淮西征討にならったが、所詮二度目は茶番である。
 令狐綯等が敏中を追いはらうために画策したものだろう。
 敏中は出征中に鄭顥に讒言されることを懼れて、宣宗に申し出た。宣宗
 は上奏箱を示した。そこには既に顥から敏中批判の文書が山積していた。

四月,赦平夏黨項羌。八月乙巳,赦南山黨項羌。
 本気で征討などしなくても、節度使達の不正な処置を止めることを約束
 するだけで、黨項達は歸順するのである。もちろんこの後もろくな節度
 使はおらず長く不安定は続いた。平定後も敏中の中央復帰は阻止され、
 十月西川に転出させられた。

十月,沙州人張義潮以瓜沙伊肅鄯甘河西蘭岷廓十一州歸唐朝。
 安史の乱で吐蕃に奪われた河西・安西節度使領域が帰順してきた。現地の
 豪族達の君主替えにすぎず、唐朝の治政が及んだわけではない。歸義軍節
 度使が沙州に置かれ義潮が任ぜられた。

十月,戊辰,魏暮が宰相となる。
 またまた唐初の魏徴の末裔である。宣宗は名家の末が好きである。ただや
 はり末は二流でしかないのが実情であった。

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