唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

寶應二年/廣徳元年 西暦763年 2

2020-04-04 10:02:52 | Weblog
七月壬子,大赦,改元「廣德」
恒例の即位翌年の改元であるが、安史の乱終結の記念でもあった。

七月吐蕃陷蘭廓河鄯洮岷秦成渭等州,盡取河西隴右之地。。
吐蕃は唐朝が安史の乱に軍を転用した隙をついて河西隴右諸州を占有していった。

八月癸未,宦官駱奉仙至長安,奏僕固懷恩謀反
河東節度使辛雲京は懷恩と不仲であり、その不徹底な河北討伐に反対していた。また「狡兎死して走狗烹らる」を地で行く代宗や宦官勢力と結び、功績の大きい懷恩を除こうとした。
反意の無い懷恩はあわてて上書して弁解した。

九月壬戌,上遣裴遵慶詣懷恩諭旨,且察其去就。懷恩見遵慶,抱其足號泣拆冤。
代宗は宰相裴遵慶を派遣して懷恩の意を糺した。懷恩は必死で弁解したが入朝を促されるだけであった。懷恩は従おうとしたが來瑱の例をみた配下諸将は入朝しても宦官程元振などが讒言しているので見通しは暗いと止めた。

十月吐蕃寇涇州,刺史高暉以城降之,遂為之鄉導,引吐蕃深入;
辛未,寇奉天、武功,京師震駭。
吐蕃の入寇を失策を懼れて程元振は隠していたが、ついに京師近郊まで侵攻が及んだ。

十月、雍王适を關内元帥とし、郭子儀を副元帥として咸陽に防がせた。
代宗・程元振は、郭子儀を解任し冷遇していたが、吐蕃の侵攻に対処することができず、急遽登用した。しかし子儀は猜疑を避ける為に麾下の兵を解散していたために持兵がなかった。子儀は元振に邪魔されて謁見すらできなかった。

十月丙子,出幸陝州,官吏藏竄,六軍逃散。
代宗・元振は陝州へ逃亡し、朝廷・禁軍は崩壊した。

十月丁丑,車駕至華州,會魚朝恩將神策軍自陝來迎,上乃幸朝恩營。
代宗は華州まで逃げ、宦官魚朝恩の率いる神策軍に迎えられた。禁軍は崩壊したため、以降神策軍[本来は隴右節度使の一軍であったが、安史の乱に陝州に移駐していた]が禁軍となった。元振の権威は失墜したが、新たな宦官朝恩が現れ、代宗はこれに縋るわけである。
代宗の無能さに腹を立てた叔父豐王珙は弾劾したがかえって殺された。

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