唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和六年 西暦 811 和暦 弘仁2年 

2020-02-07 10:02:28 | Weblog
正月甲辰,呉少陽が淮西節度使となった。
 成德征討に失敗した唐朝は少陽の自立を追認するしかなかった。少陽は積極的な反
 抗はしなかったが、協力しようともしなかった。

正月庚申,淮南節度使李吉甫が宰相に復帰した。
 やはりいろいろと問題はあるが剛腕の宰相がひつようであった。吉甫は自派の人材
 を次々と登用し、財政再建と対藩鎭強硬策をねりなおそうとした。

二月壬申,宰相李藩が罷免された。
 吉甫と合わない藩が排除された。

十二月己丑,吉甫派の李絳が宰相となった。

閏十二月辛亥,皇太子寧が卒した。

元和七年 西暦 812 和暦 弘仁3年 

六月癸巳,宰相杜佑が老齢により辞めた。

七月乙亥,遂王宥を皇太子とした。
 後の無能な「穆宗」である。しかし生母は元老故郭子儀の孫という名門
 なので選ばれた。

八月戊戌,魏博節度使田季安が卒し、子の懷諫が自立した。
 本来は魏博征討のチャンスではあるが、唐朝にはまだその力がなく、まだ
 11才の懷諫の自立を追認しなければならない状況であった。

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