唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

建中三年 西暦782年 3

2020-03-09 10:04:12 | Weblog
五月辛卯,朔方軍節度使李懷光が神策軍主力を率いて田悅討伐に向かった。

六月、源休が回紇に使して、元年の張光晟の使者殺害の賠償の件を解決した。盧杞
は休を妬んで功績を認めず、休は怨望した。

六月恒冀觀察使王武俊が反し魏博・幽州と会同した。

六月辛巳,李懷光・馬燧・李芃・李抱真等唐朝軍が朱滔・王武俊・田悅軍に連篋山
で敗北した。
 河北三鎭の連合軍は強く、唐朝軍は大敗し包囲されたが、滔は追いつめなかった。

七月、李納は宋州を攻撃した。
淮寧節度使李希烈を兼平盧淄青節度使として李納を討たせた。
 希烈は、前回の山東平定でただ働きさせられたという思いが強く、命に従うつも
 りなどなかった。

九月丁亥,稅商錢、茶、漆、竹、木に課税した。
 唐朝の財政は軍事費により破綻しかけていた。

十月丙辰,關播を宰相とした。
 盧杞は扱いやすく温厚な儒者の播を推薦し専権した。

十月、淮西李希烈が反した。
 淄青と淮西が反したため江淮からの漕運は途絶えて、唐朝の財政破綻が迫った。

十一月、反乱軍が合同し、朱泚「冀王」王武俊「趙王」田悅「魏王」李納「齊王」
李希烈「建興王」を自称し政府を開いた。
 河北はうち続く戦乱により荒廃し、反乱側も困窮しているのは同じであり、
 積極的攻勢はできなかった。
 ただ朱滔と李希烈には多少の余裕があった。

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