唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使史8

2020-10-14 10:00:44 | Weblog
景福元年[892年]
◎.2月 忠義節度使趙德諲が卒し、子の匡凝が自立した。

乾寧五年/光化元年[898年]
◎.7月 忠義節度使趙匡凝は朱全忠軍が清口で楊行密に大敗したことを聞き、陰で楊行密と通交した。怒った全忠は宿州刺史氏叔琮を派兵し、唐州・隨州を陥し、襄州兵を鄧城に破った。
◎.8月 全忠將康懷貞が鄧州を陥した。懼れた趙匡凝は朱全忠に帰服した。

光化二年[899年]
◎.11月 加忠義節度使趙匡凝兼中書令。

天復三年[903年]
◎.11月 5月成汭が淮南へ出兵した隙に、馬殷と雷彥威は荊南を襲撃し陥していた。山南東道節度使趙匡凝は荊南に派兵して雷彥威兵を逐い、弟匡明を荊南留後とした。
◎. 多くの諸道は唐朝に税を納めていなかったが、匡凝兄弟は常に納めていた。

天祐元年[904年]
◎.5月 忠義節度使趙匡凝は水軍で夔州を攻めたが、王建の知渝州王宗阮に撃退された。
◎.7月 当時朱全忠が制覇を目指し、李茂貞、楊崇本、李克用、劉仁恭、王建、楊行密、趙匡凝等は通謀して対抗しようとしていた。

天祐二年[905年]
◎.5月 忠義節度使趙匡凝は王建と通じた。
◎.8月 朱全忠は趙匡凝が楊行密・王建と通じたのを知り、武寧節度使楊師厚を先鋒とし、自らも大軍を率いて侵攻してきた。
◎. 楊師厚が唐、鄧、復、郢、隨、均、房七州を陥し、朱全忠軍は漢北に至った。
◎.9月 楊師厚は趙匡凝を漢濱に大破して襄州を陥し、匡凝は淮南へ逃亡した。
◎.9月 弟荊南節度使趙匡明も二萬を率いて西川へ奔った。
◎9月. 朱全忠は楊師厚を山南東道留後とし、間もなく山南東道節度使とした。そのまま後梁に至る。均房二州は馮行襲の戎昭軍節度の領域となった。

天祐三年[906年]
◎.5月 王建麾下となった金州戎昭軍節度を廃し、全忠麾下に残った均、房二州は忠義軍節度に属させた。
◎.6月 忠義軍節度号をやめ山南東道節度に復した。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山南東道節度使史7 | トップ | 邠寧節度使史1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事