唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

建中四年 西暦783年 1

2020-03-10 10:00:44 | Weblog
正月丁亥,鳳翔節度使張鎰及吐蕃尚結贊盟于清水。
 吐蕃と和平を結んだ。河北・淮西の戦役に中央軍を転用するため背後を固めた。

正月庚寅,李希烈陷汝州,執刺史李元平。
 宰相關播が推薦した元平は、兵事に通じていると大言し、東都を防衛する拠点の
 知汝州事に任ぜられていたが、淮西軍の急襲にあってなすすべもなく捕らえられ、
 希烈に附いた。淮西軍はさらに尉氏県を陥し鄭州を包囲した。東都は危急に瀕した。

宰相盧杞はこの時点でも政略を止めず、目障りな老臣顔真卿を派遣し、希烈説得の
死地に赴かせた。当然意味はなく、真卿は殺されることになった。

希烈は鄧州を制圧し江淮との南路を塞いだ。為に貢献が通じず唐朝は困窮した。

正月戊戌,東都汝行營節度使哥舒曜討李希烈。二月丁卯,克汝州。
 東都防衛のため、翰[安史の乱時、元帥として潼関に敗北した]の子曜に鳳翔邠寧
 涇原軍を率いさせた。初戦、曜は善戦し淮西軍を破り、汝州を奪回した。

三月辛卯,李希烈寇鄂州,刺史李兼敗之。
 江西節度使曹王皋は蘄黄二州を陥した。また淮西軍の鄂州への侵攻も撃退され、
 東方への進出は阻止された。

三月、淮西將周曾・王玢等が希烈に反したが鎮圧された。

三月丁酉,荊南節度使張伯儀及李希烈戰于安州,敗績。
 希烈は汝州での敗戦と反乱で意気阻喪していたが、この勝利により再び攻勢
 を強めた。 

四月丙子,哥舒曜及李希烈戰於潁橋,敗之。
 曜は勢いに乗って侵攻したが、大水に遮られて停滞した。

五月乙未,劉洽為淄青兗鄆招討制置使。
淮西征討で手が回らないので、淄青李納は劉洽だけが担当することになった。

五月、朱滔が淸苑に唐朝軍[李晟.張孝忠]を大破した。

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