唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天寶十四載  西暦755年

2020-08-03 10:00:57 | Weblog
天寶十四載  西暦755年
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三月壬午,安祿山及契丹戰于潢水,敗之。
反乱の背後を固める為に牽制として侵攻したのでしょう。

安禄山ほどの規模で反乱を起こすのですから、前兆現象は多くあったはずですが、唐朝がまともな対策をとった形跡はありません。楊國忠は無能でやはり平和ボケしていたのでしょう。

十一月,甲子,祿山發所部兵及同羅、奚、契丹、室韋凡十五萬衆,號二十萬,反于范陽。
陷河北諸郡。范陽將何千年殺河東節度使楊光翽[太原尹]。
中央政府に反乱を起こすという大事であるのに、幽州節度では大きな反対はありません。安禄山の権威がいかに高かったことがわかります。相当な人傑です。
河東節度は禄山ですから、光翽[國忠派]は太原尹で一応部下ですから簡単にだませます。ただこの時に河東節度を掌握しなかったのは失敗でした。そして平盧節度も禄山に従いませんでした。

十一月,壬申,伊西節度使封常清為范陽、平盧節度使,以討安祿山。
九原郡太守郭子儀為朔方軍節度,王承業為太原尹,張介然為河南節度採訪使,程千里為上党郡長史。
唐朝は慌てて防御態勢をつくります。

十一月,丁丑,榮王琬為東討元帥,高仙芝副之。
いつものように琬はお飾りで、仙芝が主将です。

十二月丁亥,安祿山陷靈昌[滑州]郡。陷陳留[汴州]郡,執太守郭納,張介然死之。陷滎陽[鄭州]郡,太守崔無詖死之。
幽州・平盧以外の河北内部にはなにひとつ兵備はなく、河北は安禄山軍が南下するとなんの抵抗もなく
従います。簡単に黄河を渡り河南へ侵攻します。河南節度となった介然が赴任して数日、素人同然の徴兵軍が、幽州軍に対抗できるはずもありません。


十二月丙申,封常清於甕子穀,敗績。丁酉,陷東京,死留守李憕。
常清もまともな軍を与えられていないのですから敗戦は当然です。

十二月己亥,恒山郡太守顏杲卿敗何千年,執之,克趙、钜鹿、廣平、清河、河間、景城、樂安、博平、博陵、上谷、文安、信都、魏、鄴十四郡。
さすがに一時の狼狽から立ち直った河北の太守達は唐朝に従おうとします。杲卿が旗頭です。しかし雑軍でしかありませんので、州城に拠るだけです。禄山軍は自由に動けます。

十二月癸卯,封常清、高仙芝伏誅。哥舒翰持節統領處置太子先鋒兵馬副元帥,守潼關。
状況が理解できず狼狽する玄宗・國忠は、宦官達の誣告を真に受けて、実戦経験豊富な常清、仙芝を殺してしまいます。翰は名将ですが病身で自軍を率いていませんでした。

甲辰,郭子儀及安祿山將高秀岩戰于河曲,敗之。
朔方軍を率いた子儀は祿山軍の河東からの侵入を阻止します。

是月,平原郡太守顏真卿、饒陽郡太守盧全誠、司馬李正以兵討安祿山。
「討」と勇ましいですが、「反抗」「蜂起」程度のものです。

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