唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮西 李希烈の乱 1

2022-12-25 08:50:57 | Weblog
淮西左廂都虞候李希烈は淮西節度使同平章事李忠臣の族子でした。忠臣は平盧軍の出身で汴宋李靈耀征討などで大功があり汴州刺史として淮西を支配してきましたが、貪殘好色で將士の妻女に手を出し、軍政は妹婿節度副使張惠光に一任し、惠光は専権横暴でした。そのため將士に不満がつのってきました・。

大暦14年3月
希烈は將丁暠等と惠光を殺し、忠臣を逐いました。忠臣は単騎で京師に逃れ、旧功を評価され検校司空平章事として宰相格で待遇されました。そして希烈は留後となりましたが、漕運の要地汴州は取り上げられ、蔡州刺史に遷されました。

大暦14年閏5月
希烈は節度使となりました。淮西軍としては収入の多い汴州を失ったことは痛手でしたが、希烈にとっては継承を認めてもらうことが先決でした。

その後、建中2年までは希烈は一応唐朝に協力的でした。

建中2年5/6月
淮寧軍節度使李希烈は漢南北諸道都知兵馬招撫處置等使封南平王として山東梁崇義を征討することになります。宰相楊炎は希烈を信用せず反対しますが、德宗皇帝と盧杞は押し進めます。

建中2年7月
任命された希烈は逗留し崇義を討ちません。盧杞は楊炎が問題だとして宰相を罷免させました。

建中2年8月
希烈は崇義を猛攻し、たちまち襄陽を陥し、崇義は自尽しました。

建中2年9月
希烈は山東節度を併合するつもりでしたが、朝廷は希烈に同平章事を加えたのみで、山東節度には李承を赴任させました。得るところがなく希烈は極めて不満でした。

建中3年7月
希烈は兼平盧淄青兗鄆登萊齊州節度使として自立した李納を討つよう命ぜられました。淮西と淄青は旧平盧軍系の同根です。希烈はまた実利もなく便利使いされるのかと憤懣を抱きました。

建中3年11/12月
希烈は許州で天下都元帥太尉建興王を自称し、朱滔・李納・田悅・王武俊など四鎭と盟約しました。
淄青を討つため汴州を経由すると宣言しましたが、永平節度李勉は汴州の防禦を固め入れませんでした。

建中4年正月
希烈は汝州を陥し、知州事李元平を捕ら、さらに尉氏を陥し、鄭州を囲みました。元平は希烈に附きました。

龍武大將軍哥舒曜[翰の子]が東都畿汝節度使となり、鳳翔・邠寧・涇原軍を率いて希烈を討つことになりました。

德宗皇帝は盧杞の提言により太子大師顔眞卿を派遣し希烈を説得させようとしましたが。幽囚されるだけでした。

希烈將封有麟が鄧州を抑え、貢獻南路を不通にさせました。

建中4年月
哥舒曜は汝州を回復し、將擒周晃を捕らえました。

建中4年3月
嗣曹王皋に將陳質・韓霜露が敗れ蘄・黄二州を失いました。

荊南節度使張伯儀は希烈に安州で大敗しました。

都虞侯周曾、鎮遏兵馬使王玢、押牙姚憺、韋清等が李勉に通じて希烈を除こうとしましたが発覚し、淸以外は殺されました。
尉氏、鄭州の軍は撤退しました。


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