唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元十三~十五年 西暦797~99年

2020-03-27 10:06:20 | Weblog
三月、築方渠、合道、木波三城
鹽州城ができて吐蕃の不意の入寇はなくなったが、まだ京師は安全ではなかった。そのため德宗は三城を築城し確実な防衛線を構築しようとした。德宗は邠寧節度使楊朝晟に必要な軍は何万いるかを尋ねた。朝晟は自軍だけで十分と回答した。驚愕した德宗は「鹽州築城には七万を動員した。三城はさらに敵地に近いのだぞ」と問うた。朝晟は「吐蕃は前回に懲りて大軍を動員するはずです。動員している間に築城は完成します。城ができたら簡単には攻撃できません。三城の周囲には大軍を維持する草も水もありません。すぐにあきらめるでしょう」と回答した。言葉どうり朝晟は自軍だけで築城し、吐蕃は来襲したがどうすることもできず諦めた。以降、京師は安全になった。

九月己丑,宰相盧邁が疾により辞した。

貞元十四年 西暦798年
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七月壬申,趙宗儒から鄭餘慶に宰相が代わった。

九月、淮西呉少誠が壽州霍山を侵した。
自立後力をつけてきた少誠は、豊かな周辺部に勢力を広げようとした。ただ山東于頔は武略があり困難なので弱い淮南方面を攻めた。

貞元十五年 西暦799年
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二月丁丑,宣武節度使董晉薨。軍乱殺行軍司馬陸長源。宋州刺史劉全諒が自立。
董晉は横暴な牙軍に柔軟な姿勢で対処してきたが、後任の長源は厳正に取り締まろうとしたために軍乱が起きた。全諒[平盧節度使正臣の子]は乱をそそのかした黒幕である。

三月甲寅,呉少誠遣兵襲唐州。
八月乙未,少誠遣兵掠臨穎
九月丙午,少誠遂圍許州。
淮西軍は侵攻を開始し、特に節度使曲環が亡くなった後の陳許忠武軍を制圧しようとした。

九月庚戌,宣武節度使劉全諒薨。劉玄佐の甥都知兵馬使韓弘が自立。
全諒は淮西少誠と通じ、許州を得ようとしていたが、弘は同ぜず少誠を攻撃した。

十月、山東于頔、安黄伊慎、壽州王宗、陳許上官兌、宣武韓弘が淮西を征討ししばしば破った。
と正史には記載されているが、まともな勝利はない。戦費をかせぐために動いているようにみせかけているだけである。

十二月辛未,渾瑊が河中で卒した。
謹慎小心な瑊は常に德宗のご機嫌を伺い、猜疑を招かないようにしていた。

十二月乙未,諸軍自潰于小殷水,委棄器械、資糧,皆少誠所有。
主将もなくバラバラに征討していた唐朝軍は、淮西軍の反撃にあうと簡単に崩壊し逃走した。

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