唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

盧龍軍節度幽州觀察處置押奚契丹両蕃使と軍乱 Ⅱ-1

2014-09-07 21:55:22 | Weblog
方鎭の特徴
安禄山の本拠地であった幽州は、帰服後も最も独立性の強い方鎭である。その経済的背景は奚・契丹・渤海など諸蕃との交易にある。独立性は強いが必ずしも反朝廷ではない。まず領域が順地と直接接触していないため危機感が低いこと。対外政策では朝廷の権威を利用する必要があることである。
節度使の継承に関しては、常に蕃族との戦闘を意識して無能な者、幼君による継承を容認できないことから、軍乱による交替が主流であった。継承が成立するわずかな場合は継承者が成人で有り有能なものに限られる。安史の乱後の初代は史朝義を陥れて帰順した李懷仙に始まる。幽州では節度使はあくまで諸将の中の第一人者でしかなく、主君ではなかった。

①.大暦3年6月[768]軍乱
幽州兵馬使朱希彩・經略副使朱・弟滔達は。横暴となった節度使李懷仙を殺し,希彩を立てた。
成李寶臣による追討は敗北し、朝廷は宰相王縉を赴任させたが、統制することはできず、7月これを追認した。

②.大暦7年[772]7月軍乱
節度使朱希彩が専権化したため、孔目官李懷瑗に殺された。經略副使朱と弟滔は牙兵を率いで自立し、10月朝廷は追認した。

③.建中3年[782]2月~興元元年[784]9月   朱滔の乱
朱は入朝し防秋にあたり、弟朱滔が留後として幽州を統治していた。成李惟岳の征討には活躍し、恩賞として遠隔地の徳棣二州を与えられたが、隣接地の深州を望んだ。そして恒冀王武俊や魏博田、淄青李納・淮西李希烈とともに反した。一時は回紇の支援も得て河北を併呑する勢いであったが、それを怖れた武俊・らが朝廷に帰順し、昭義李抱眞や河東馬燧に反撃された。興元元年5月經城に大敗し、9月には謝罪し、失意のうちに貞元元年6月に卒した。

④.貞元8年[792]11月 劉澭の乱
節度使劉濟の弟瀛州刺史澭は継承の不満から朝廷に直接所属しようとした。濟はこれを攻撃し、10年正月圧迫された澭は所部・家族を率いて京師に逃げて帰順した。朝廷はこれを秦州に置き吐蕃に当たらせた。

⑤.貞元16年[800]7月 劉源の乱
節度使劉濟の弟涿州刺史源が命令に従わないので伐ち、捕らえて朝廷に送った。

⑥.元和5年[810]7月 劉濟毒殺
節度使劉濟は朝廷の成征討に従い功績をあげ、侍中・中書令という高位を得た。その子瀛州刺史總は兄副大使緄と継承を争い、父と兄を殺して自立した。

⑦.長慶元年[821]7月~2年2月 朱克融の乱
朝廷に協力していた節度使劉總は、殺害した父や兄の亡霊に苦しんで仏教に耽溺し、元和15年には成が帰服し、河北三鎭も幽州を残すのみとなった形勢をみて歸順を申し出た。朝廷は總を天平節度使に移し[總は赴任途次で出家し死亡]、幽州を二分し、幽州[元宰相張弘靖]と瀛莫[盧士玫]の文官コンビを赴任させた。これにより唐朝が全国を統治するようになった。
しかし憲宗皇帝の暗殺と、無能な穆宗皇帝や、同じく政略のない宰相連は姑息な治策を行うのみであり、節度使弘靖もまた、節度使が同僚の第一人者でしかないという性格を理解せずに、権威主義的な方針で統治した。待遇に不満な滔の孫朱克融達は蜂起し、幕僚を殺し弘靖を幽閉し自立した。瀛莫もまた回収され士玫も幽閉された。同時に成軍でも軍乱が起き、朝廷はこれを追認するしかなかった。反乱が幽閉ですんだのは、成節度使田弘正と違って文官であったためであろう。

⑧.寶暦2年[826]5月 軍乱
節度使朱克融とその子延齡が殺され、少子延嗣を主軍務として嗣がせた。反朝廷姿勢による緊張と失政が原因である。

⑨.寶暦2年[826]8月 李載義自立
幼少の節度使朱延嗣は乱後の統制ができず、都知兵馬使李載義と弟載寧によりその家三百餘人と共に殺された。前代と違い載義は朝廷に協調的であった。

⑩.太和5年[831]正月 楊志誠自立
節度使李載義は朝廷と協調し、横海李同捷や成王廷湊を圧迫していた。副兵馬使楊志誠はそれに不満で、載義を京師に逐った。そして反朝廷姿勢をとった。朝廷は入京した載義を厚遇し山西・河東節度使に任じた。
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