牽制 [宦官達と昭義節度使劉従諫]
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李訓が宦官幹部を除こうとした甘露の変で、宦官仇士良達は事件の責任がない王涯等を含め宰相五人をすべて殺害した。
その後も麾下の禁軍を暴れ回らせ出動させ、文宗皇帝や官僚達を威嚇し専権を極めた。
新任の宰相李石・鄭覃らは武力をもたず制することができなかった。
開成元年三月、昭義軍節度使劉従諫は使者を送り文宗に問うた
「甘露の変に李訓等は責任があると聞いております。しかし王涯ら三相に罪ありとは聞いておりません。涯らがなぜ誅されたのか罪名をお伺いしたい」
従諫は王涯と親しく、恩義を感じていたため、その殺害に憤っていたのだ。
士良ら宦官達は日頃の威勢はどこへやら、まずいことになったと顔を見合わせていた。
「従諫は近隣の諸鎮とともに入朝して直接お伺いするつもりです」と使者
返答を翌日に延ばして宰相宦官達の会議がおこなわれた。
「従諫はどうやら本気のようだ」と士良。
「禁軍が京師を荒らし回っています。これではつけこまれても」と石
「禁軍は引き上げさせる、残党狩りもやめる」と士良
「政事も宰相府にもどすということでいいですね」と石が念を押した
従諫等が兵を率いて乗り込んでくれば、弛緩した神策軍では対抗できない、近隣の諸鎮は禁軍の横暴を妬みながらにがにがしく見ている。支援などしてくれない。
士良は憎々しげに石をにらんだがなにも言わなかった。
翌日、文宗より従諫に慰撫の詔があり、位階が進められた。
宦官達は表向きは遠慮するようになり、官僚達は息を吹き返した。
*******背景*******
宰相李訓等は文宗皇帝と組んで宦官達の軍權を奪おうとして失敗し、宦官達は関係のあるなしを無視して全宰相を殺し、神策軍を京師に放して掠奪をさせた。文宗は失敗に落ち込んで宦官のいいなりになり、李石や鄭覃などの新任宰相も制止することができなかった。
世襲の昭義節度使劉従諫は自ら忠義をもって任じ、入朝時には朝政の腐敗に慨嘆していた。また親しい宰相王涯が罪なく殺されたことに憤慨して上奏した。
宦官達も世評で批判され孤立しているとは感じており、従諫が本気で乗り込んでくれば大変なことになるので、憎い文宗皇帝に頼るしかなくなった。
宦官達の憎しみは、従諫没後の昭義節度使継承時に噴き出てくる。
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