唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

高力士

2020-09-10 10:00:14 | Weblog
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高力士
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潘州[広東省茂名市]人,本姓は馮と言われます。
唐初の群雄で蕃族出身の高州[広東省茂名市]総管馮盎の子君衡が潘州刺史となりました。力士はその子と称していますが、なぜ刺史の子が宦官になるのか不明です。先祖を名門に託しただけでしょう。

宦官とされて献上され、同僚の金剛とセットで「力士」と命名されたようです。

聖歷元年より則天皇帝に仕えますが、罪があって解任されました。

また武三思配下の宦官高延福の養子となり、また禁中に入り司宮台につとめだしました。

長身で六尺五寸[197センチ]と言われていますが、大げさでしょう。

性は謹密で記憶力はよかったようです。宮闈[宮門警備担当]丞となります。

景龍中,臨淄郡王[玄宗]の知遇を得て奉仕するようになりました。

景雲中、玄宗が立太子→即位すると、朝散大夫[従五品下]內給事になりました。

先天二年七月、大平公主等を誅するのに功績があり、一躍、銀青光祿大夫[從三品]行內侍員外同正員に進みました。

開元初には右監門衛將軍知內侍省事[内侍監は虚位の時が多く、実質的な長官]となりました。

玄宗にそれとなく直言することもあり、宰相と皇帝との仲立ち役としても活躍しました。

玄宗の信任篤く、実情の確認に派遣されることも多々ありました。

開元十九年に宦官達の天敵であった玄宗の奴隷上がりの王毛仲[禁軍を掌握していて、宦官を蔑視していました]が排除されたあとは宮中に敵なしの状態となりました。

豪壮な邸宅を賜りましたがあまり帰る事はなく、宮中に宿営していました。

玄宗への上奏文はまず力士の元へ届けられ、小事は専決することが許されていました。

また呂玄晤の女を妻とし,玄晤は少卿[從四品],その子弟は王傅となりました。

しかし増長せず小心恭恪で玄宗の疑惑を招くことはありませんでした。

開元二十六年、玄宗が武惠妃等の誣告によって皇太子瑛達を殺害してしまいました。武惠妃の死後、玄宗は失敗に気がつき後悔しました。そして次の太子決定に悩みました。宰相李林甫は武惠妃の子壽王瑁を勧めますが若年であり、年長で仁孝恭謹好學の忠王璵[肅宗]と比較して決することができません。懊悩していましたが力士の勧めにより忠王に決しました。当然、林甫は後難を懼れて太子を陥れようと次々と疑獄を起こしますが、次の寵姫楊貴妃には子がなかったこともあり力士は太子を守り抜きました。

天寶三年頃
玄宗は老齢となり、東都への巡幸[關内の食糧難の解消のために必要でした]が辛くなり始めました。それをしった林甫は状況が改善したと言って巡幸不要と言い立てました。力士は地方の視察も重要だと指摘し、玄宗の不興をかってしまいました。失敗したと悟った力士は玄宗に迎合し、国政に口をださない事に決しました。

天寶五年頃
力士が推薦した楊貴妃が寵遇され、玄宗と貴妃の間を取り持つことで、林甫の攻勢を排除し、玄宗の信任を保つことが出来ました。

天寶七年四月、左監門大將軍、知内侍省事より加驃騎大將軍[從一品]。
力士の勢力は増大し、皇太子から兄と,諸王公からは翁と呼ばれます。李林甫、安祿山達も迎合し、巨財を築きます。しかし恭謙で驕らないため皇帝の親任はますます篤く、士大夫も悪く言いません。

天寶十一年四月
李林甫の配下である王鉷の弟銲が乱します。乱に参与していない鉷と禁軍を率いた力士が鎮圧しますが、楊国忠は鉷の責任を厳しく問い失脚させました。病がちとなった林甫の勢力が傾いていきます。

天寶十一年十二月
西の河西隴右節度哥舒翰と東の范陽平盧河東節度與安祿山、朔方節度安思順は互いに争いあい仲がよくありません。そこで玄宗は和解させ義兄弟を結ばせようとしました。冬に三人は入朝し、力士がとりもって宴会を催しましたが、祿山と翰はお互いに罵り合って和解しませんでした。
翰は突厥の名門であり、雑胡出身の禄山などと同格になるのは耐えられなかったのでしょう。

天寶12.3
力士は安禄山が帰国するのを送りました。
玄宗「禄山の様子はどうだったかな」と問うと
力士「宰相になれぬので鬱々として帰りました」と答えた
国忠「宰相人事を知っているのは張均兄弟だけなんですが、情報が漏れたのでしょうか」
この時宰相に任用していれば乱はなかったはずですが、権限を分割される国忠は認めませんでした。

天寶十三年六月
唐朝軍が雲南で潰滅しました。しかし楊國忠の権勢を怖れて誰も上奏しません。
玄宗は脳天気に「朕は老いた、政治は国忠に、軍事は諸将に任せている」
力士「大敗のことは聞いています。諸将は大軍を握って乱がおこるかもしれません。なにかあったらどうしょうもありませんが」
玄宗「言うな、朕はわかっているのだ」

天寶十三年
玄宗「いやな雨が続いているが、お前はなにも言わないのか」
力士「陛下は政治を宰相まかせてしまっているのに、私がなにをいうことがありますか」と返した。
玄宗は黙然としていました。力士は立場を弁え遠回しに諫言しますが、楊貴妃に溺れた老帝はうけつけようとしません。

天寶十五年七月
潼関で唐朝軍が敗れ、玄宗皇帝は劍南の成都へ逃亡しました。緊急のことで混乱し、地方官も逃亡したので、ろくな準備もなく、宿舎食事も整いません。もちろん内侍の力士は玄宗に近侍しています。
馬嵬驛に到った時、随行の將士達は糧食の供給もないのに憤怒して乱し、宰相楊國忠やその一族の責任を問うて殺しました。そして玄宗に楊貴妃の処分を迫りました。玄宗は「貴妃には罪がない」と躊躇しましたが、力士は「貴妃が生きている限り反乱した將士達は安心できません。このままでは帝の命も危ないのです」と強く諫めました。そして貴妃を絞殺し、屍体を將士に示しました。それにより一応乱は治まりました。

力士は玄宗に従い成都に入り、至德二年十二月、玄宗に従い入京しました。
功により、封齊國公。開府儀同三司となり實封五百戶[封***戸は虚名であり、實封だけが本当に給されるはずです]を与えられます。

上元元年頃
陳玄禮や力士等は、玄宗を囲んで趣味の世界を楽しんでいましたが、権力を握っていても経験と教養の差から輪に入れてもらえない李輔國は妬もます。そして玄宗が肅宗の地位を脅かそうとしていると吹き込みました。もともと正常な即位でなかった肅宗は皇太子時代の事を思い出し脅えました。輔國にとっても力士は自分を登用してくれた恩人でもあり扱いが難しかったのです。

上元元年七月
李輔國は肅宗の命令と称して武力で玄宗を幽閉しました。そして力士や玄禮を排除しました。力士は巫州[湖南省懐化市]に流されました。輔國が肅宗の希望を代行したのかもしれません。玄宗は鬱々として病となり肅宗と共になくなります。

寶應元年建巳月
力士は肅宗崩御の大赦にあって帰還し、再び玄宗に仕えることを期待して朗州[湖南省常徳市]に到りましたが、そこで玄宗の崩御を知り、絶望して卒しました。

七十九歳。贈揚州大都督,陪葬泰陵。

養子承悦は 渤海郡公.正議大夫將作少監。

[次回は 李輔國 です]