唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

景龍四年/唐隆元年/景雲元年六月 西暦710年

2020-07-13 10:00:08 | Weblog
景龍四年/唐隆元年/景雲元年六月 西暦710年
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当時の情勢
・周囲の蕃族達は、弱い敗戦続きの周/唐軍をなめきっています。突厥・突騎施・契丹・奚・吐蕃などは実質自立しています。

・韋后や安楽公主、上官氏達の女性権力に対して、少壮軍人達は強い不満を抱いています。彼らは男系の相王の息子達に期待しています。

・韋后の一族[韋溫等]や関係者が登用されていますが、あまり能力はありません。武氏も三思が殺されて以降は迫力がありません。

・相王の子達や取り巻きは、太子重俊の乱後、自分達への余波を警戒し、先手を打とうとしています。

・売官により官吏が濫造され、財政的困難が生じています。

・宰相達、高級官僚は中宗をなめきっていて、則天時代の方が良かったという感覚です。

六月、韋后・安楽公主は中宗を毒殺すると、宰相を招集し、諸府五万人を韋氏一族に分担させ警戒を強めました。安楽公主を皇太女とし即位を狙っていました。

・裴談、張錫を宰相にし、張嘉福、岑羲、崔湜を要所に配置しました。

・相王の娘太平公主と、中宗の妾上官昭容[則天の有能な側近でした]は、安楽公主の即位を阻止するため、中宗の遺制を偽作し、温王重茂為皇太子,皇后知政事,相王旦參謀政事としました。上官氏は相王系にすりよろうとしていました。

先手をうたれた韋后は宗楚客を使って相王を外させましたが、公主の即位は諦めざるえませんでした。

・甲申,集百官,發喪,韋皇后臨朝攝政,赦天下。韋温總知内外守捉吏馬事。
韋后は実権を得て、一族の溫に軍事を総覧させました。

・丁亥,殤帝[溫王重茂]即位,時年十六。尊韋皇后為皇太后;立妃陸氏為皇后。
傀儡を擁立、重茂は韋后の子ではありません。

・韋后派は一応軍事を抑えたようにみえますが、実戦部隊である羽林などの軍人には不満が高まっていました。そして相王の子臨淄王隆基[後の玄宗]や兄弟達、太平公主達は彼らとつながり金銭を援助し、蜂起を指嗾していました。また少壮官僚や處士達もまたこれについていました。

・庚子,隆基は羽林・萬騎を率いて、韋后・安楽公主・韋溫・武延秀・宗楚客等を斬り、韋氏一族を族滅しました。上官氏も斬られました。韋氏政権は宰相等幹部だけの党派で実働部隊を持たず、蜂起に対して諸軍はまったく動きませんでした。

・癸卯,太平公主は少帝に命じて、相王に帝位を譲らせ、睿宗が即位しました。
相王の子隆基、成器、成義、隆範、隆業達が軍事を分担し防衛に当たりました。

羽林の將士に厚賞を与え、既存宰相達の大半を解任しました。
李日知や鐘紹京をいきなり宰相に補任しました。しかし行政的には無能でした。

・丁未,立平王[臨淄王]隆基為太子。
睿宗の長男は宋王成器でしたが、功績のある三男の隆基が太子となりました。相王の子達はめずらしく仲が良く[共通して則天・韋后の迫害に耐えていたからかも]、相続争いは起きませんでした。

・追削武三思、武崇訓爵謚,斫棺暴屍,平其墳墓。
・越州長史宋之問,饒州刺史冉祖雍,坐諂附韋、武,皆流嶺表。
やっと武氏の影響を遮断する決断を下しました[相王系も武氏なのですが]

・旧宰相姚元之・韋嗣立・蕭至忠・趙彥昭・崔湜を宰相に戻しました。
成り上がりの鍾紹京だけでは行政が回っていかなかったので再任しました。

・相王の娘太平公主は男子同様に活躍し、成器・隆基など弟達を指導し事に当たらせていた。その勢力は強くなり、その政治力・決断力を評価して官僚達が周囲に集まり、三子がすべて郡王になり、皇族に準ぜられるようになりました。
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