唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

開元二十三~二十五年  西暦735~737年

2020-07-27 10:00:02 | Weblog
開元二十三年  西暦735年
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特記する事項がないのは、国家にとっても民衆にとっても良いことです。

開元二十四年  西暦736年
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三月乙丑,朔方河東節度使信安王禕貶衢州刺史
幽州張守珪、朔方信安王禕など対外軍事行動に功績をあげた諸将は、文官官僚から猜疑され、中央の要職登用されることがありません。またなにかと理由をつけては左遷される傾向がありました。

玄宗はなにかに脅えて東都から京師へ戻ろうとしますが、耀卿達から農事の妨げになると反対されます。林甫は玄宗に迎合し帰還することになります。

十一月壬寅,裴耀卿、張九齡罷。
李林甫兼中書令,朔方軍節度副大使牛仙客為工部尚書、同中書門下三品。
玄宗は政治に飽き、それでいて財政優先で皇帝権を制約する耀卿、九齡達が煙たくなります。それに乗じて林甫は先任宰相を逐い、有能ですが吏員出身の仙客を引き上げて独裁体制をひきます。宮廷のことがわからない仙客はただ追認するだけです。

開元二十五年  西暦737年
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三月辛卯,河西節度副大使崔希逸及吐蕃戰于青海,敗之。
この時期吐蕃とは和を結んでいて平和共存を保っていたのですが、玄宗の命を受けて希逸が吐蕃将乞力を奇襲して破ります。信頼関係が崩れ吐蕃との和約が破綻します。

四月辛酉,殺監察御史周子諒。

五月乙丑,廢皇太子瑛及鄂王瑤、光王琚為庶人,皆殺之。
武惠妃は、皇太子と二王が謀叛を企てていると誣告させます。宰相李林甫はまったく太子を弁護せず(德宗に対する李泌とは大違いです)、かえって煽り立て、老耄した玄宗は簡単にだまされて誅殺してしまいます。皇太子以下は玄宗の治政には倦んでいたかもしれませんが、謀叛を起こす気持ちも勢力もなかったようです。林甫は自分の地位を強化するため軽薄な玄宗を煽動し、何度も疑獄事件をでっちあげます。

十二月丙午,惠妃武氏薨,贈謚貞順皇后。
皇太子以下を粛清した当人の武惠妃が頓死します。大半の官僚や宮廷で嫌われていたので毒殺かも知れません。自分の子壽王を立太子する夢は消えます。玄宗は夢から醒めて自分が間違って皇太子以下を殺したことを悟ります。
コメント
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