唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劍南節度使 西川節度使 その3

2012-04-20 10:11:32 | Weblog
・その後も短期間に文官が交替したが、上元二年[761年]東川で梓州刺史段子璋が反し西川に影響が
及び節度使崔光遠はこれを討伐したが、寶應元年[762年]には西川で將徐知道が反し、廣徳元年[763年]
には吐蕃が来寇し松維保の三州を陥したが節度使高適は対処できなかった。
・そのため廣徳2年[764年]には東川を統合し、嚴武が節度使となったがまもなく卒し、
永泰元年[765年]歴戦の武将郭英乂が赴任した。ところが現地の武将崔旰[後賜名されて寧]と対立して
攻撃したが反って敗死し西川は大乱なった。
・大暦元年[766年]宰相杜鴻漸が副元帥として征討にむかったが、先鋒の張獻誠は寧に敗北した。
そこで鴻漸は寧を慰撫する方針に変え成都に入り、寧を行軍司馬として後継者に遇した。寧もまたそれに従った。
・大暦2年[767年]鴻漸は京師に戻り、寧を節度使として推薦した。大暦3年[768年]には寧が入朝したが、
その留守に濾州刺史楊子琳が成都を奪取した。唐朝はあわてて寧を帰還させたが、
寧の妾任氏や弟の活躍で成都は回復され、子琳は東川へ奔った。
・その後寧は西川を安定させ、大暦10・11・12年[775-777年]と吐蕃を西山に大破してその侵攻を防いだ。
・大暦14年[779年]宗皇帝が即位すると使相とされ入朝し、郭子儀の後任として京畿・朔方を任せられる
形で留められた。
・その留守に吐蕃・南詔は侵攻してきたが、唐朝は寧を戻さず朱・李晟に神策軍をつけて派遣しこれを大破した。