・黄巣は誅されたが、後継の秦宗權の圧倒的な攻勢がが始まり、陳州と宣武はその主な対象となった。
光啓元年[885年]全忠は蔡州西北面行營都統となったが雙丘で敗北し、汴州は包囲された。
全忠は天平朱瑄・泰寧朱瑾らの来援を得てこれに対抗した。
・光啓2年[886年]全忠は隣鎭の義成で軍乱がおき、節度使安師儒が逐われたことに乗じてこれを
乗っ取り、配下の胡真を留後として送り込んだ。
・光啓3年[887年]募兵に成功した全忠等は、4月宗權を孝村で大破し、
宗權は東都以下の占領地を放棄して逃げ帰った。
・全忠は優位に立つと宗權征討のみならず、天平・泰寧や武寧時溥の領域を蚕食しはじめた。
・文徳元年[888年]全忠は蔡州四面行營兵馬都統となり宗權征討の主導権を握った。
・その後「後梁」建国までの道筋は宣武藩鎭に留まるものではないので省略するが、
全忠の勢力拡大には経済的な要地である汴州の支配が大きな要因となった。
光啓元年[885年]全忠は蔡州西北面行營都統となったが雙丘で敗北し、汴州は包囲された。
全忠は天平朱瑄・泰寧朱瑾らの来援を得てこれに対抗した。
・光啓2年[886年]全忠は隣鎭の義成で軍乱がおき、節度使安師儒が逐われたことに乗じてこれを
乗っ取り、配下の胡真を留後として送り込んだ。
・光啓3年[887年]募兵に成功した全忠等は、4月宗權を孝村で大破し、
宗權は東都以下の占領地を放棄して逃げ帰った。
・全忠は優位に立つと宗權征討のみならず、天平・泰寧や武寧時溥の領域を蚕食しはじめた。
・文徳元年[888年]全忠は蔡州四面行營兵馬都統となり宗權征討の主導権を握った。
・その後「後梁」建国までの道筋は宣武藩鎭に留まるものではないので省略するが、
全忠の勢力拡大には経済的な要地である汴州の支配が大きな要因となった。