唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宣武軍節度使 河南節度使 その6

2012-04-07 08:49:27 | Weblog
・河北や武寧については消極的であった唐朝も、漕運の要である宣武については回復に努め、
包囲攻撃を加えると共に、將士に人望が高かった韓弘の弟充を送り込んだ。
形勢が不利とみた李質を主とする牙軍は介*を殺して帰順した。
・充は長慶4年[824年]に卒し、その後は令狐楚・李逢吉・李程など宰相級の節度使が続き
牙軍はすっかりてなづけられていった。
・大中・咸通年間[847~73年]に入ると、短期間に交替する高級文官の赴任地として
定着していった。
・牙軍がすっかり弱体化した宣武は、王仙芝・黄巣の乱に際してはめだった活躍はできず、
乱により領域は荒廃していった。
・中和3年[883年]5月黄巣を裏切って帰順した朱全忠は恩賞として宣武軍節度使を与えられ、
7月にはわずかな部下と共に赴任したが、周囲はまだまだ黄巣の勢力が強く軍の再建に
努める他はなかった。
・中和4年[884年]黄巣との戦いに河東李克用[沙陀]の来援を得たが、その傲慢さに
立腹した全忠はこれを襲殺しようとしたが克用はわずかに逃れた。
これにより全忠-克用間は仇敵となっていった。