・浙江西道は穀倉地帯であり唐朝の経済的基盤である。安史の乱の影響は直接には及ばず初期の
頃の状況は不明であるが、至徳二年[757年]治安維持のために江東防禦使等が杭州に設置された。
・戦況悪化とともに浙江西道節度使が昇州に設置され、昇潤宣歙饒江蘇常杭湖の十州を管轄した。
・乾元二年[759年]戦乱の影響なしと判断され都団練観察守捉使に格下げされた。
・上元元年[760年]肅宗皇帝の失敗から劉展が淮南・浙江に乱入し、観察使侯令儀は宣州に敗走
した。上元二年[761年]状況を糊塗するため宣州に移治することにした。
6月令儀は責任を押しつけられ流された。
・大暦元年[766年]蘇州に還治した。その後経済官僚が統治する所となった。
建中二年[781年]敏腕の韓滉が赴任すると、浙江東道も併せて鎭海軍節度使となり潤州に治した。
頃の状況は不明であるが、至徳二年[757年]治安維持のために江東防禦使等が杭州に設置された。
・戦況悪化とともに浙江西道節度使が昇州に設置され、昇潤宣歙饒江蘇常杭湖の十州を管轄した。
・乾元二年[759年]戦乱の影響なしと判断され都団練観察守捉使に格下げされた。
・上元元年[760年]肅宗皇帝の失敗から劉展が淮南・浙江に乱入し、観察使侯令儀は宣州に敗走
した。上元二年[761年]状況を糊塗するため宣州に移治することにした。
6月令儀は責任を押しつけられ流された。
・大暦元年[766年]蘇州に還治した。その後経済官僚が統治する所となった。
建中二年[781年]敏腕の韓滉が赴任すると、浙江東道も併せて鎭海軍節度使となり潤州に治した。