・州は唐初より重視され、太祖世民も行臺尚書令をつとめた要地である。
その後も州大都督府長史として高官が赴任していた。
・吐蕃の侵攻対策として開元2年[714年]に州長史が劔南道支度営田松當姚嶲州防禦処置兵馬経略使
を兼任したことが最初とされるが、状況を追認した形である。
・その後開元七年[719年]に節度使となり、彭蜀漢眉綿遂梓卭劔榮陵嘉普資嶲黎戎維茂簡龍雅瀘合
二十五州を領した。領州は多いが半分程度は蛮族の居住地である。
・天寶末、楊國忠は劍南を遥領し吐蕃対策にあたったが敗戦続きであった。
・天寶15年[756年]潼関の守りが破綻し、安禄山軍の京師侵攻が迫ると、宰相國忠はその子分の崔圓が
留後となっている劍南に朝廷を移すこととした。
・しかしずさんな移転であったため混乱が生じ國忠は殺され、皇太子である肅宗は朔方へ分離し、
玄宗皇帝と側近だけが圓に迎えられて州[成都]についた。
・圓は宰相となって去り、文官が節度使となったが、劍南では軍乱や民乱が相継ぎ、
京師回復の努力は朔方軍中心となった。
・至徳二年[757年]梓州に劍南東川節度使を置き、梓遂綿劔龍閬普陵瀘榮資簡十二州を分離した。
治安対策とみられる。
その後も州大都督府長史として高官が赴任していた。
・吐蕃の侵攻対策として開元2年[714年]に州長史が劔南道支度営田松當姚嶲州防禦処置兵馬経略使
を兼任したことが最初とされるが、状況を追認した形である。
・その後開元七年[719年]に節度使となり、彭蜀漢眉綿遂梓卭劔榮陵嘉普資嶲黎戎維茂簡龍雅瀘合
二十五州を領した。領州は多いが半分程度は蛮族の居住地である。
・天寶末、楊國忠は劍南を遥領し吐蕃対策にあたったが敗戦続きであった。
・天寶15年[756年]潼関の守りが破綻し、安禄山軍の京師侵攻が迫ると、宰相國忠はその子分の崔圓が
留後となっている劍南に朝廷を移すこととした。
・しかしずさんな移転であったため混乱が生じ國忠は殺され、皇太子である肅宗は朔方へ分離し、
玄宗皇帝と側近だけが圓に迎えられて州[成都]についた。
・圓は宰相となって去り、文官が節度使となったが、劍南では軍乱や民乱が相継ぎ、
京師回復の努力は朔方軍中心となった。
・至徳二年[757年]梓州に劍南東川節度使を置き、梓遂綿劔龍閬普陵瀘榮資簡十二州を分離した。
治安対策とみられる。