唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

浙西都団練観察使 鎭海軍節度使その2

2012-04-15 10:50:24 | Weblog
・建中四年[783年]の大乱に際して滉は淮南陳少游のように動揺することなく唐朝を支援し、
貢納を欠かさなかった。興元元年[784年]少游が卒し淮南の牙軍が自立を図ったときもそれを
圧して唐朝を支援した。
・貞元元年[785年]江淮の財賦を統括し、貞元二年[786年]には入朝し国政を担おうとしたが、
貞元三年[787年]一月卒した。
・滉の死後、浙西・浙東・宣歙に三分され、鎭海軍節度も廃された。
・以降貞元年間を通じて財務官僚が赴任し諸道鹽鐵転運使を兼ね、唐朝の財政を支えた。
・貞元15年[799年]李國貞の子が赴任し宗皇帝の姑息さ乗じて専権を振るうようになった。
・永貞元年[805年]順宗・憲宗皇帝が即位すると方鎭に対して強硬策をとるようになり、
まずの諸道鹽鐵転運使が削られた。
元和二年[807年]の不満をなだめるため鎭海軍節度使が復された。は情勢を読み違い辞表を
呈するとあっさりと左僕射に任ぜられ任を取り上げられた。
・10月は反したが、張奉國などの部下は従わず捕らえられ誅された。
・しばらくした元和4年[809年]都団練観察使に戻った。
・その後は淮西・河北討伐のための財源として財務官僚の赴任が続いた・
・長慶二年[822年]には河北の反乱に乗じた將王國清が乱しようとしたがただちに誅された。
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