唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使 その1

2012-01-13 22:21:47 | Weblog
・至徳元年[757年]12月安史の乱、唐朝の財源である淮南・浙江を防禦するために楊州に設置された。
楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔の十三州を領有するが治安維持を目的として文官の高適が節度使となった。
・上元元年[760年]無能で定見のない肅宗皇帝は河南の宋州付近に盤踞していた平盧軍出身の劉展を
淮南に移すという失策を犯した。しかも淮南節度使景山や都統李峘などには、展を排除する命令を下していた。
・赴任を拒まれて激怒した展はたちまち淮南・浙西・宣歙を制圧し、景山など文官出身の節度使は逃げ散った。
・そこで肅宗皇帝は展の兄貴分にあたる田神功を南下させて討伐させることにした。富裕な地の掠奪を期待して
神功は勇躍して侵攻し、たちまち展を敗死させた。このため安史の乱にあわなかった淮南は荒廃した。
・上元二年[761年]乱が治まると元宰相の崔圓が赴任して潰滅した統治機構の再建が行われた。
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山西節度使 その4

2012-01-13 22:02:24 | Weblog
・大順二年[891年]専横を極めた宦官楊復恭は失脚し、山西に奔って楊守亮に依った。
・景福元年[892年]鳳翔李茂貞・邠寧王行瑜・華州韓建などは唐朝に迫って山西を伐つことを求めた。
昭宗皇帝は単なる勢力拡張と判断して認めなかったが茂貞らは無視して強行した。
・8月茂貞は興元府を陥とし、復恭・守亮らは河東へ逃げたが途中韓建に捕斬された。
茂貞は子の繼密を留後とし勢力圏に入れた。
・天復二年[902年]朱全忠が鳳翔を攻囲し、茂貞の勢力圏を制圧するのに呼応して、
西川王建は山西を攻めて陥し、繼密を捕らえた。
・以降山西は王建[後蜀]の勢力圏となった。
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