唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成徳節度使 その4

2012-01-30 10:46:50 | Weblog
・王承宗が元和15年[820年]卒すると、牙軍は弟承元を擁立しようとした。しかし承元は唐朝に帰順して
義成節度使となり、魏博節度使田弘正が転任することになった。
・田弘正は魏博軍二千を引き連れて赴任したが、憲宗皇帝の死後を引き継いだ無能な穆宗皇帝と経略のない
宰相達は経費を惜しんで戻させた。
・長慶元年[821年]幽州で朱克融(滔の孫)軍乱が起こり節度使張弘靖が幽囚され、呼応して成徳でも
王廷湊が反し、弘正を殺し自立した。
・唐朝に従う牛元翼(深冀節度使に任命)は李寰や傅良弼とともに廷湊と戦うが、遊猟や建築を好む穆宗
皇帝には定見はなく、場当たりの討伐を命じるだけであり、反乱は成功し。
長慶二年[822年]廷湊は成徳節度使に任ぜられた。
・廷湊は強硬な反唐朝派であり、親唐朝派を徹底して攻撃し、元翼等は鎭をすてて奔った。
・太和2年[828年]廷湊は自立した横海李同捷を支援して反した。太和3年魏博將兀志沼を唆して反させ
たが鎮圧され、形勢不利と見て帰順した。
・その後も反抗的な姿勢を継続したが、太和8年[834年]卒して、子の元逵が嗣いだ。
このころ唐朝はすでに河北三鎭に関しては自立を認める方針であり問題はおきなかった。
・元逵は廷湊の方針を改め、唐朝とは親和策を講じていった。