唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河東節度使 その2

2012-01-22 12:40:25 | Weblog
河東・朔方・幽州・河西・隴右・劍南・安西・北庭・平盧等安史の乱以前に
建鎭された諸藩については安史の乱以降を「2」として記載する。
以前の「1」部分は後日まとめて記述する予定です。
・河東節度使は北邊の抑えであり。唐朝の建国の地であると共に鉄製品(武器)の主要な産地という側面
も持っていた。領域は太原遼嵐石汾代忻朔蔚雲九州と広いが山間の地が多く貧寒である。
・天寶10年[751年]より河東節度使は安禄山が幽州・平盧とともに兼任していたが常駐はしていなかった。
・天寶14年[755年]11月禄山が叛し、配下に太原尹楊光翽を襲撃させて殺させた。
・至徳元年[756年]朔方節度使郭子儀は副使李光弼を推薦し河東節度使として太原を守らせた。
禄山は史思明を派遣し攻撃を重ねたが、光弼は守りきり、反って河北へ進入し禄山を脅かした。
・至徳二年[757年]光弼は賊將蔡希を大破して河東への侵攻をあきらめさせた。
・乾元二年[759年]3月光弼は軍紀が厳しく滏水で官軍が潰滅した時も光弼軍は崩れずに撤退を完了した。
・7月敗戦した郭子儀に代わり李光弼が征討副元帥となった。關内潞沁節度使王思禮が河東に転任した。
・王思禮もまた軍紀を統制したために河東軍はよく整備されていたが。上元二年思禮が卒し、
管崇嗣が嗣ぐと急速に緩んだ。
・唐朝は引き締めのために景山(文官)を派遣したが厳酷なだけで軍士は強い不満を抱いた。
・元年[761年]5月絳州で都統李國貞が乱殺されると、河東軍も乱して景山を殺し征討軍は崩壊する危機を招いた。