唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使 その2

2012-01-14 09:50:49 | Weblog
・大暦8年[773年]~興元元年[784年]は陳少遊が長期に留任した。彼は宦官勢力と結びつき
利権を追い求め上納に努めて地位を保っていた。
・建中4年[783年]~の淮西李希烈の乱では、密かに内応し中央への貢納を制限したりしていたが、
乱が治まり摘発が始まると懼れて宦官に働きかけていた。興元元年その中で卒した。
・唐朝は希烈から財源たる淮南を防禦するため壽州に都団練観察使[領州壽濠盧]を置き、
張建封を任じて淮西・淮南間を遮断させた。
・陳少遊の没後、淮南の牙軍は自立を試みたが、隣鎭の浙江鎭海の韓滉の威嚇によりあきらめ
杜亞が赴任することができた。
・貞元四年[788年]宰相李泌は、淮南・浙江よりの貢納の輸送路を淄青李納より守るため、
壽州の張建封を徐州節度使に移した。壽盧州は淮南に帰属した。
・貞元5年[789年]より長期に杜佑が在任し、淮南節度使がその財力により中央に働きかける端緒を作っていった。
・貞元16年[800年]武寧張建封没後、子の愔が自立し、杜佑は征討を命じられたが失敗した。
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