唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使 その5

2012-01-15 21:11:46 | Weblog
・最初は黃巢討伐を期待されていた高駢であるが、中和元年[881年]に都統に就任したにもかかわらずい
っこうに働かず、急速に老耄していった。
・中和二年[882年]唐朝はあきらめて王鐸に都統を変えて京師回復に動き出した。
・光啓二年[886年]駢は邠寧朱玫が擁立した偽帝の官爵を受けた。
・光啓三年[887年]將畢師鐸[元黃巢麾下]が反して駢を幽閉し、宣歙秦彦[これも元黃巢麾下]
を招いた。それに対して諸軍が反抗し、特に盧州を占拠する楊行密が楊州に攻撃を加え彦等を逐った。
・しかし文徳元年[888年]淮西秦宗權が孫儒[これも元黃巢麾下]を派遣し、大軍をもって来寇し
たため行密は盧州に奔った。
・孫儒達はただ掠奪するだけの勢力であったので、楊州は荒廃し混乱が続いた。
・龍紀元年[889年]行密は宣歙を制圧し、再び楊州に迫った。
・景福元年[892年]孫儒は荒廃した楊州を棄てて逃げたが、行密に捕らえられ殺された。
・行密は節度使として自立し、淮南の復興に努めた。

淮南節度使 その4

2012-01-15 12:11:20 | Weblog
・淮南はその後も宰相の回遊地となり、李紳-杜悰-李譲夷-崔鄲-李珏-崔鉉-令狐綯と続いた。
・大中9年[855年]杜悰は宣宗皇帝に荒政を指摘され左遷された。善良な宣宗皇帝は地方官人事に
配慮していたがその施策は下部には徹底しておらず、大中12年[858年]以降南方に軍乱が頻発した。
・大中12年の宣歙將康全泰が乱し観察使鄭薫を逐った。節度使崔鉉はその鎮定にあたった。
この時、江西・容管・湖南にもあいついで軍乱がおこったが、南方の諸鎭の牙軍は弱小な為大事にはいたらなかった。
・咸通9年[868年]令狐綯は徐州龐勗の乱の鎮定に出兵したが敗北し、北半は勗に侵略され、
将軍馬擧に変わることになった。
・その後李蔚-劉鄴と宰相関連に戻ったが、王仙芝-黃巢の乱が広がるとともに対処できず。
乾符6年[879年]歴戦の将軍高駢が諸道鹽鐵転運使を兼任して赴任してきた。

淮南節度使 その3

2012-01-15 11:52:36 | Weblog
・貞元18年[802年]長期在任した節度使杜佑は次ぎに宰相位を狙い、交代を求めた。それに応じて
刑部尚書王鍔は富裕な藩鎭に憧れて格下の行軍司馬として赴任し翌19年昇格した。佑は宰相となった。
・元和二年[807年]王鍔は叛した鎭海李の討伐を命ぜられたが行くまでもなく鎮定された。
・元和三年[808年]王鍔は入朝し、多額の献金をして宰相を求めたが認められなかった。
宰相李吉甫が現任のまま赴任した。これより淮南は宰相の回遊の地となった。
李鄘-李夷簡-裴度-王播-段文昌-牛僧孺-李裕と続く
・元和12年[817年]硬骨の李鄘は宰相に転任したが、宦官吐突承璀の推薦によると知ってすぐ辞任した。
・王播は諸道鹽鐵転運使として巨財を築き、献金を繰り返して宰相を求め続け、それを糾弾する
諌官達との争議が続いた。やがて太和元年[827年]に至り念願の宰相になった。