唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南西道節度使 その4

2012-01-04 12:50:00 | Weblog
・呉少誠は常に反唐朝の立場をとった。唐朝側は麾下の親唐朝分子を唆したが成功しなかった。
・貞元14年[798年]彰義軍と賜號されたが常に付近への侵略行動はやめなかった。
・貞元15年[799年]周辺の諸軍を動員して淮西を伐ったが統制がとれず、小溵河付近で潰滅した。
・貞元16年[800年]宦官竇文場が推す夏綏節度使韓全義が招討使となるが、將才なく威望もない
ため諸軍は従わず、7月廣利原で敗北、9月五樓でも敗北して逃げ戻ることになった。
・10月呉少誠も唐朝との戦闘に疲れ、現状維持で和を求めた。おのれの責任を問われることを
懼れた宦官竇文場は宗皇帝をだまし、呉少誠が歸順を求めた形にして敗戦をごまかした。
韓全義は入朝せず夏綏に逃げ戻った。
・その後呉少誠も老いて大きな侵攻はせず、元和4年[809年]卒した。
・將呉少陽[一族ではない]は少誠の子元慶を殺して自立した。