私は私自身なので、自分のことを、「クワトロ郎はね、そういうやつじゃないんですよ。」なんて三人称で呼ばない。俺は俺である。苗字や名前は、人が人を区別・識別するために使用する便宜上のものであって、自分は自分を他人から区別して論ずる必要なないので、なんで、そんな人がいるのか分からない、、、、、、、、ので、ちょっと考えてみよう。
俺は、俺のことを裏も表も、真面目さも不真面目さも、少しの品行方正さと人に言えないような助平なところも、はっきりいって分かりすぎるほど分かっている。だから自分自身に相対する時、単純に正直にならざるを得ない。だって、わかってるじゃん。分かってるのに、知らないふりなんて出来ないよね。
ところが、自分を三人称で呼ぶ時、それは、たぶん、フィルターがかけられるのではないかな?他人のことは、自分のことよりは分からない。自分を「他人」のように呼ぶことで、中身の分からない「自分」という虚構を作り上げ、おどろおどろしい中身はフィルターで濾しとって、その良い部分、あるいは都合よく脚色された独りよがりの悪い部分だけに目を向ける儀式としている。
要は、真実と向かい合う度胸もくそもない、ということだ。と、言ったら言いすぎか。
「今日のクワトロ郎は冴えすぎて、少し爆走してるな、と思う今日この頃です。」
俺は、俺のことを裏も表も、真面目さも不真面目さも、少しの品行方正さと人に言えないような助平なところも、はっきりいって分かりすぎるほど分かっている。だから自分自身に相対する時、単純に正直にならざるを得ない。だって、わかってるじゃん。分かってるのに、知らないふりなんて出来ないよね。
ところが、自分を三人称で呼ぶ時、それは、たぶん、フィルターがかけられるのではないかな?他人のことは、自分のことよりは分からない。自分を「他人」のように呼ぶことで、中身の分からない「自分」という虚構を作り上げ、おどろおどろしい中身はフィルターで濾しとって、その良い部分、あるいは都合よく脚色された独りよがりの悪い部分だけに目を向ける儀式としている。
要は、真実と向かい合う度胸もくそもない、ということだ。と、言ったら言いすぎか。
「今日のクワトロ郎は冴えすぎて、少し爆走してるな、と思う今日この頃です。」