私はぶっきような仏教徒である。
時々、キリスト教や仏教やイスラム教に関する本を読んだりする。
そして、シャンパンは抜かずに、焼酎片手に、キリストさんよ、なんであんたそんなこと始めたんだい?と語りかけてみたりする。
渋茶とお饅頭をそろえて、お釈迦様に、いろいろ宗教はあるけれど、本当はどれが一番と思ってる?と困らせたりする。
マッコリを、酒は禁じられているけれど、まあそういわずにといって、アラーの神に、酒もほどほどならいいよ、とすすめながら議論を吹っかけたりする。
私はぶっきような仏教徒である。
心が儀式やシキタリに優先すべきが、逆になるのを極度に憂えている。
プレゼントとは、上記お三方自身が我々に対するプレゼントとしか思えない。お三方がいない世界を考えてみる。愕然とする。
私はぶっきような仏教徒である。
とりあえず、仏教徒の父母に生まれたので、そうである。自分で選んでなった訳ではない。
それが、キリスト教であったとしても、イスラム教であったとしても、ゾロアスター教であったとしても、オウム真理教であったとしても、それが不都合でなければ、きっとそのままであろう。
私はぶっきような仏教徒である。
見かけ上、おそらく仏教徒に見える。クリスチャンやイスラム教徒には見えない。
たぶん宗教の違いに意味は無い。求める物は同じである。
なぜなら、大勢の人が、いろいろな宗教に各々のやり方で関わっている。あるいは関わっていない。
また、なぜなら、一つの宗教に収斂しておらず、他が淘汰もされていない。
どれでも良いのであろう。どれでなくてもよいのであろう。
私はぶっきような仏教徒である。
叩かれれば痛い、ということが自分以外の人間もそうである、ということを忘れないようにしている。
それで十分と思っている。
くりすますはかように、毎年、私をナーバスにする。
クリスマスプレゼントをもらうのは苦痛である。クリスマスの付かないプレゼントなら喜んでいただくが。
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