今日、懸案項目を締め切りぎりぎりで仕上げた。
それは、比較的重要な項目であった。
ただし、中身は筋道が見えていて、終わるかどうかは、時間工数だけのものであった。
検討を重ねて、答えが見つかるかどうか、アプローチ案が出せるかどうか、という課題解決型ではなかった。
これを、ずっとほっといてきた。大方の人は、すぐに片付けるたぐいの物である。ほっておく人は、時折、愚図と呼ばれる。
果たしてそうか?
少し違う見方ができることに、今日、気づいた。
それは、この仕事を終えると、空っぽの自分になってしまうということが見えているので、あえてその仕事をやらない、ということ。空疎な状態がその先に見えている。その空疎を恐れて、その仕事をせず、あるいは出来ずに、やらないことでの緊張感で、心を満たしているのだ。
空疎は本当に恐ろしい。
価値観をすべて失うことに等しい。作り上げた意味が支えを失う。
やるべきことが無くなる。
過去、現在、未来の繋がりが、失せる。
もう一度歩き出すためのエネルギーを蓄えるための、その根拠が見当たらない。
これは、単に肉体が疲れている、ということではない。
そして、精神的に疲れている、ということでもない。
体も、精神も至って健全である。
その精神活動の対象とするべき物が、見当たらなくなったのだ。
世を疎んだり、世相を笑ったり、見かけの理不尽さに正義感を示したりすることに、飽きたのかもしれない。
真実はなんだ、という問いには、昔自分で答えた。真実とは問う物ではない。自分で見つけていくもの、自分で構築していくものだ。人に聞いても、それは、言葉の列にしかすぎない。
人生の意味はなんだ、という問いにも、答えをだした。意味はない。意味は作っていくのだ。
そう、全ては自発的に、この心の中に生じさせなければならない。
それが、動いていないとき、そこには、空疎がある。
石にも空疎があるのか?
遥か昔に、溶岩となり溶け出し、地中深くで巨大な圧力を受け、固く盤石になった。いつしか、地表に出て、雨風にさらされ、砕け、川の中で丸くなっていった。
そこらへんに、転がっている石である。人がいて初めて、その遥か人類以前の誕生からの歴史に思いをはせられるのか?それとも、まだ人類には未解明の、石の心のような物があり、石はそれを自覚しているのか。
石は答えてはくれない。科学者は、新参者の未熟な人類のくせに、まだわからないことが山のようにあるのに、石は物質だ、ですますだろう。芸術家や情感にあふれた人は、石も擬人化するであろう。
さて、石は物質か、人格か。いずれであっても、石はそこにいる。それを見ている自分がいる。
人が、石の空疎を問うのであれば、石の空疎も意味を持つ存在となるであろう。
その石の空疎と、我が心の空疎。
天秤にかければ、どちらに振れるか?
さて、どっちだ。
路傍に咲く百合の花から見れば、どちらも同じだね。
それは、比較的重要な項目であった。
ただし、中身は筋道が見えていて、終わるかどうかは、時間工数だけのものであった。
検討を重ねて、答えが見つかるかどうか、アプローチ案が出せるかどうか、という課題解決型ではなかった。
これを、ずっとほっといてきた。大方の人は、すぐに片付けるたぐいの物である。ほっておく人は、時折、愚図と呼ばれる。
果たしてそうか?
少し違う見方ができることに、今日、気づいた。
それは、この仕事を終えると、空っぽの自分になってしまうということが見えているので、あえてその仕事をやらない、ということ。空疎な状態がその先に見えている。その空疎を恐れて、その仕事をせず、あるいは出来ずに、やらないことでの緊張感で、心を満たしているのだ。
空疎は本当に恐ろしい。
価値観をすべて失うことに等しい。作り上げた意味が支えを失う。
やるべきことが無くなる。
過去、現在、未来の繋がりが、失せる。
もう一度歩き出すためのエネルギーを蓄えるための、その根拠が見当たらない。
これは、単に肉体が疲れている、ということではない。
そして、精神的に疲れている、ということでもない。
体も、精神も至って健全である。
その精神活動の対象とするべき物が、見当たらなくなったのだ。
世を疎んだり、世相を笑ったり、見かけの理不尽さに正義感を示したりすることに、飽きたのかもしれない。
真実はなんだ、という問いには、昔自分で答えた。真実とは問う物ではない。自分で見つけていくもの、自分で構築していくものだ。人に聞いても、それは、言葉の列にしかすぎない。
人生の意味はなんだ、という問いにも、答えをだした。意味はない。意味は作っていくのだ。
そう、全ては自発的に、この心の中に生じさせなければならない。
それが、動いていないとき、そこには、空疎がある。
石にも空疎があるのか?
遥か昔に、溶岩となり溶け出し、地中深くで巨大な圧力を受け、固く盤石になった。いつしか、地表に出て、雨風にさらされ、砕け、川の中で丸くなっていった。
そこらへんに、転がっている石である。人がいて初めて、その遥か人類以前の誕生からの歴史に思いをはせられるのか?それとも、まだ人類には未解明の、石の心のような物があり、石はそれを自覚しているのか。
石は答えてはくれない。科学者は、新参者の未熟な人類のくせに、まだわからないことが山のようにあるのに、石は物質だ、ですますだろう。芸術家や情感にあふれた人は、石も擬人化するであろう。
さて、石は物質か、人格か。いずれであっても、石はそこにいる。それを見ている自分がいる。
人が、石の空疎を問うのであれば、石の空疎も意味を持つ存在となるであろう。
その石の空疎と、我が心の空疎。
天秤にかければ、どちらに振れるか?
さて、どっちだ。
路傍に咲く百合の花から見れば、どちらも同じだね。