最後の三軍頑張れ
近鉄三軍の近藤投手、南海へトレード
トレード会議(十一月二十六日)で南海は四人の選手を指名した。そのなかに近鉄の近藤義之投手(左投げ左打ち)がいた。いまでこそすっかり忘れ去られた存在になったが、この近藤投手こそ近鉄が実験した第三軍のただ一人の生き残りである。四十二年夏、当時の芥田球団社長はかねてからの念願である第三軍を設立した野球の好きな少年を集め、そのなかから行く行くチームを背負って立つ選手を育て上げるのがねらいだった。三、四年先にメドを置き、十数人の第三軍は登録外とはいえ、芥田社長の情熱でバックアップされて意欲手に野球に取り組んだ。そのなかに中原中学三年生の近藤少年もいた。しかし第三軍構想はしょせん夢にすぎなかった。技術の伴わぬ彼らは一人抜け、二人去り四年目のことしまで残ったのは原野と近藤の二人だけ。その原野も八月には競輪選手に転向した。昼は練習、夜は定時制の高校に通学しながら、がんばったただ一人の近藤は来春卒業するが、卒業を待たずして南海へのトレードが決まったのである。最後の近藤が去って第三軍は完全に消滅した。しかし南海という新天地で生まれ変わった近藤がどんな働きをするか。「精神的にもろい欠点」(江田前コーチ)を克服するかどうかにかかっている。頑張れ最後の第三軍-。
近鉄三軍の近藤投手、南海へトレード
トレード会議(十一月二十六日)で南海は四人の選手を指名した。そのなかに近鉄の近藤義之投手(左投げ左打ち)がいた。いまでこそすっかり忘れ去られた存在になったが、この近藤投手こそ近鉄が実験した第三軍のただ一人の生き残りである。四十二年夏、当時の芥田球団社長はかねてからの念願である第三軍を設立した野球の好きな少年を集め、そのなかから行く行くチームを背負って立つ選手を育て上げるのがねらいだった。三、四年先にメドを置き、十数人の第三軍は登録外とはいえ、芥田社長の情熱でバックアップされて意欲手に野球に取り組んだ。そのなかに中原中学三年生の近藤少年もいた。しかし第三軍構想はしょせん夢にすぎなかった。技術の伴わぬ彼らは一人抜け、二人去り四年目のことしまで残ったのは原野と近藤の二人だけ。その原野も八月には競輪選手に転向した。昼は練習、夜は定時制の高校に通学しながら、がんばったただ一人の近藤は来春卒業するが、卒業を待たずして南海へのトレードが決まったのである。最後の近藤が去って第三軍は完全に消滅した。しかし南海という新天地で生まれ変わった近藤がどんな働きをするか。「精神的にもろい欠点」(江田前コーチ)を克服するかどうかにかかっている。頑張れ最後の第三軍-。
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