フィリピンりぱぶりっく狂笑国

フィリピンらしく
フィリピンでも
フィリピンだから

フィリピン国旗の歴史14

2024-06-27 | フィリピンの歴史

アメリカ時代

File:Emilio Aguinaldo at a pre-Christmas feast.jpg - Wikimedia Commons

1904年、マニラでのクリスマス前の宴会に出席したアギナルド(前列左から2番目)。

アメリカ統治時代、アギナルドは公の場からほとんど引退したが、即時独立を主張し、退役軍人を支援する団体を支援し続けた。

彼は会員の年金を確保するために革命退役軍人協会を組織し、会員が政府から分割払いで土地を購入できるように手配した。

フィリピン国旗の掲揚は1907年の扇動法によって違法とされたが、1919年10月30日に改正された。

その後、アギナルドはカウィットにある自宅を国旗、革命、独立宣言の記念碑に変えた。

アギナルドの死後、政府は1964年6月にこの邸宅を国指定史跡として宣言した。

Emilio Aguinaldo Museum, Kawit, Cavite, PH | abelc_y | Flickr

カビーテカウィットにある自宅 

Aguinaldo Shrine :: Behance

アギナルド

歴史が築いた家

フィリピン独立宣言が初めて読み上げられた場所というだけでなく、このカビテ州カウィットの邸宅は、歴史上のユニークな

時代を反映している。秘密の通路、隠し部屋、カモフラージュされた棚など、その構造は、世紀末のフィリピンの家庭の

快適さと神聖さにさえ革命熱が浸透していたことを示している。

1898年6月12日に歴史的なフィリピン独立宣言が行われたカビテ州カウィットのアギナルド邸は、エミリオ・アギナルド将軍

の死後まもなく、1964年6月に国指定史跡に指定された。

将軍は亡くなる1年前に、この家と敷地の一部をフィリピン政府に寄贈しており、祖国の歴史において極めて重要な役割を

果たした将軍にふさわしい最後の行為であり、壮大なフィナーレであったようだ。

この家は1845年に木と茅葺きで建てられた。1869年3月22日、エミリオ・アギナルドがそこで生まれた。1849年に改築され、

1920年代初頭に再び改築された。

家の主要部分はピラミッドのような構造で、最上部には尖塔がある。階から最上階まで登るには、5段の階段とはしごが必要だ。

一階は博物館になっており、かつての建築様式のように壁がない。おそらくこのエリアは穀物の貯蔵に使われていたのだろう。

カウィットカビテ遺産ツアー

2階は将軍の寝室、大広間、ダイニング・キッチン、会議室、展望台で構成されている。

次の階には中二階の書斎があり、そこからアルコーブやバルコニーのように大広間を見下ろすことができる。

廊下は、将軍の娘たちが家族と住んでいた邸宅の東棟へと続いている。

さらに階段を上ると、将軍の娘婿であった故ホセ・メレンシオ大使が書斎として使っていた「大公室」がある。

次の階段は、将軍が晩年使っていたと言われるもうひとつの寝室に通じている。

真鍮のベッドと巨大なロールトップ・エスクリトワール(後者は、その大きさゆえに狭い階段を通って運ぶことが

できなかったので、不可解な現象である)が、この部屋の特徴である。

タイル張りのテラスからは、マニラ湾とカビテの海岸線が一望できる。

現在は幅1フィート(約1.5メートル)の、ほとんど梯子のような狭い階段が、将軍のお気に入りの場所だったと言われる

塔へと続いている。

邸宅の内装はコレクター垂涎の的だ。4つポスターの天蓋付きベッド、鎧戸、象牙が象嵌されたラブソファー、

ウィーンのロッキングチェア、チャイナキャビネット。

これらのほとんどはニスを塗ったフィリピン産の広葉樹で、今の時代には希少価値がある、高価すぎる種類のものだ。

家具はもちろん、柱や出入り口にもロココ調、バロック調、ゴシック調などさまざまな様式で華麗な彫刻が施されている。

作品の中には、ある種の楽しい驚きをもたらすものもある。

例えば、広々としたレセプション・ホールのすべての柱に飾られている貝のオブジェは、実際に壁から引き出して鍋敷きとして

使うことができる。

多くの椅子やキャビネットには秘密のコンパートメントがあり、昔は重要な書類や武器を隠すために使われていたのだろうと

想像できる。

カウィットカビテ遺産ツアー

秘密の通路もある。階の将軍の寝室に通じる通路は、階段の踊り場にある棚の壁でカモフラージュされている。もうひとつは、

キッチンから1階の地下にある空襲用シェルターに通じている。

こちらはダイニングテーブルとして使われていた木の板で隠されている。

カウィットカビテ遺産ツアー

上の部屋へと続く狭い階段の途中には、壁パネルを開けるとマットレスやほうきなどの収納スペースが現れる。

寝室にも同じように、キャビネットが巧妙に隠されている。

もちろん、一番の見どころは大広間だ。

ここで遥か昔の革命家たちが秘密の会議を開き、運命的な国家決定を下したに違いない。

この長方形の部屋の端には、歴史的な窓がある。

バルコニーが増築され、独立記念日の祝賀の際に将軍や州当局者がよく使っていた。

この部屋は、歴史と祖国に対する一人の男の思い入れを表現する重要な場所なのだ。

床は木製の台形のモザイクで、ワックスで磨き上げられたジグソーパズルのような国旗。ダイニングルームに向かう途中の柱にも、このモザイク模様の国旗が描かれている。

天井はギャラリーになっており、シンボルがそびえ立っている: 「イナン・ピリピナス」、8つの州の反乱を描いた8つの光線の太陽、そして翻る旗と鳩。後者は、国際連盟の一員としてフィリピンが承認されることを願った英雄のシンボルである。

ダイニング・エリアの天井にはフィリピンのレリーフ地図が飾られている。

邸宅の裏手には、1964年2月6日に冠状動脈血栓症で亡くなったエミリオ・アギナルド将軍の墓がある。

 

1935年フィリピン大統領選挙

1935年、フィリピンは連邦制となり、完全な独立に向けての10年間の移行期間の一環として大統領選挙が行われた。

アギナルドは公職に復帰し、国家社会党(ドイツナチ党とは無関係)の候補者として、非常に人気のあった

ナショナリスト党の候補者マヌエル・L・ケソンと共和党の候補者グレゴリオ・アグリパイに対抗して大統領選に出馬した。

しかし、1901年にアメリカ軍に捕らえられたことや、ボニファシオとルナの殺害に関する告発により、アギナルドは

フィリピン国民の間で不人気となり、得票率はわずか17.5%でケソンに大差で敗れた。

20 Philippine Peso (Manuel Luis Quezon) - Exchange yours for cash

しかし、決定的な敗北にもかかわらず、アギナルドは選挙結果が自分に不利に操作されたと信じて、受け入れることを拒否した。

アギナルドが勝利した唯一の州であるカビテでは、アギナルドの支持者たちがマニラでの集会を計画し、ケソンの就任式を妨害し、

さらにはケソンを暗殺しようとした 。

しかし、この計画されたイベントは実際には実行されなかった。

アギナルドはケソン大統領の任期中ずっとケソンを批判し続け、ホロコーストから逃げるユダヤ人を保護するというケソンの計画に

反対した際には反ユダヤ主義的な見解を表明した。

1939年、アギナルドはユダヤ人は「危険」で「利己的物質主義者」であるという偏屈な概念を繰り返して反ユダヤ主義を精力的に

表明した。

5 Philippine Peso (Emilio Aguinaldo) - Exchange yours for cash

ケソン州がフィリピン独立宣言を記念して国旗記念日を6月12日に変更した1941年、二人は正式に和解した。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1942年1月 | トップ | なんだこりゃ? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

フィリピンの歴史」カテゴリの最新記事