マイ・ライフ・レッスン

母のがんのケアをするなかで感じたことなどを書いていた記録です。

旅立ちを祝い道中の無事を祈る会

2009-06-28 23:37:55 | 母との日々~がん患者の家族として~
ああ なんというタイトル。
1月に69歳で心筋梗塞で突然逝かれた、帯津三敬病院の帯津良一先生の奥様、
帯津稚子さんのお別れ会である。

先生は患者さんの訃報に接する際
口にこそ出さないが心の中で
この言葉を唱えているそうだ。
年下の妻に突然先立たれた男性というのは少々気の毒ではあるが、
流石帯津先生、である。
会はまず正面の遺影に参列者が献花をし、
次に縁の深い方々が挨拶を述べたあと
立食形式で会場に故人出演のNHKの気功番組映像を流しながら歓談、
最後に直弟子さん達が献花ならぬ「献」太極拳を披露して終了、
という流れで
当然のことながら全く湿っぽくなく進行し、
帯津先生は会場のあちこちで記念撮影や著書へのサインを求められていた。

私は母宛に通知が届いたので代理として列席させていただいたが
特に知り合いもなく、奥様との面識もないのにチビを人に預けてまでわざわざ出掛けたのは、
純粋にこのタイトルに心打たれたからに他ならない。
ホテルの入り口に堂々と掲げられた
「旅立ちを祝い道中の無事を祈る会」の題字を見ただけで
窮屈な身体を離れて虚空へと還って行く母の姿がおぼろげながらもイメージされ、
私の中の、母の供養への道が少し開かれたような気がした。


泣く資格

2009-06-18 23:24:34 | 母との日々~がん患者の家族として~
母はどこに行ってしまったのだろうと。

泣けて泣けて立ち直れないんじゃないかと思っていたのに
そんなこともなく。
何か確固たる宗教を信じていれば、亡くなって何日目にはこれこれで、とか
天国へ、などと、それぞれに言われた道筋があるのだろうけれども、
年を重ねるほどに私の宗教観は曖昧なものになりつつあり、
母の骨の前で線香をあげつつ
こんな行為も自分の心が満足するためだけのパフォーマンスに思えてしまって参っている。
仏前で手を合わせることのみならず、泣くという行為さえ「母のため」というより
「母がいなくなった自分のため」のような感覚があって
我ながらどうも嘘っぽいというか、
儀礼的なことをしようとすればするほどに、
かえって母に対して申し訳ない気持ちが湧き起こる。
泣くなら純粋に母のために泣かなくてはならないと思っているなんて我ながら変だと思うが、
今の自分にとっては悲しいということが妙に自己中心的に感じる。
だって母は死んでいて、私は生きてるんだもの。
「あなたはいいじゃないの。
私は、したかったことがもう何もできないのよ」と言われている気がしてしまう。

母は傍から見ても不思議なくらい前向きだった。
書き残した大量のメモや走り書きを見ても、
自分がこんなに早く死ぬなんてかけらも思ってなかったようだし
周囲にも死を予兆させるような言葉は最期まで口にしなかった。
お見舞いに来てくださっていたお友達が
「そんなに悪いなんて知らなかった!」と口々に言ったほどである。
痛かろうがだるかろうが、病院のベッドの中で
見舞い客と1時間でも2時間でもおしゃべりを楽しんだ母。
緩和ケア病棟の看護師さんもボランティアさんも大変親切で良い方ばかりであったが、
実は私はちょっと苦手だった。
彼らが、母のことを自分の死期が近いとわかってもそれを穏やかに受け入れている、
と勝手に思っている雰囲気があったからだ。
(少なくとも私にはそう感じられた)
母は近づく死を受け入れてなんかいなかった。
亡くなる前日には、私がマッサージして足が動かせるようになったことを心から喜んでいた。
最期まで生き続ける希望はまったく捨てていなかったのだ。
私が今、母の人生の中でもっとも尊敬しているところである。

病院から電話をもらって20分もしないで到着したと思う。
だが、私は母の死に間にあわなかった。
そして部屋に入ったとき、呼吸していない母の傍らには誰もいなかった。
もちろん数分前には当直の看護師がついていたのだろう。
名前を伺ったがもう忘れてしまった。
人手が充分とは言えない時間帯だっただろう。
しかし、それでも欲を言えば、せめて私が着くまでは誰かに母の側に座っていてもらいたかった。
それだけで、母の旅立ちが無事に行われたのかどうかという私の不安は軽減されたはずだ。
人はなんだって、最期を看取ることにこだわるのだろう。
母を看取れなかったことは私の心に癒えない傷を残した。
何故あの晩泊り込まなかったのか。
私は生きている母に、ありがとうと言いたかったのだ。
でも、今日も明日も生きているつもりの母に
締めくくりのような言葉をかけるチャンスがなかった。
ありがとうと言うのはいつも母の方で、
状況から見て私が母にありがとうと言うタイミングがあるとしたらそれは本当の終わりの時、母が旅立つ時だけだった。
私は自分に余裕を残しすぎた。
だから、やるべきことをやらないでしまったような罪悪感が
私を泣かせないようにしている。