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(新月に寄せて)最終回 惑星の理解「月」(180614MI)

2018-06-22 | 覚書

マドモアゼル愛オフィシャルブログさんより

2018-06-14 

(新月に寄せて)最終回 惑星の理解「月」

 月について二回にわたりお話ししてまいりましたが、今回は最終版としてまとめてみたいと思います。今回の内容は占星術に詳しくない一般の方でもつかめる内容ですので、不思議世界を広める意味でもお読みいただけたら幸いです。

 

月を理解することは、生きる上での潜在的な障害を取り除くことになります。また、月を理解することで日々の生活がかなり楽になる人も多いと思います。

 

私たちは月を第一フィルターとして世界を眺めますので、子供時代から続くそうした態度はやがて強固な習慣となり、月を通して世界を眺めていることが当たり前で、その影響に気づきにくくなります。

 

人間関係の悩みや精神の悩みや疾患が月と密接に関連しているのはその通りで、月の影響をルナティックと言いますが、それは狂気という意味です。

 

月は7歳頃までの私たちが眺めた世界の印象で、最初の世界観は月によって作られます。7歳未満と言えばまだ子供ですので、それが見た外界の印象は、単純で幼稚で物語性に富み、現実離れしています。

 

私たちは子供時代を思い出してみたとき、時折、なつかしさと同時にどうにもならない郷愁や、時には思い出すのがつらいような気持ちになる場合があります。「三丁目の夕日」という映画が流行しましたが、あの映画にも昔の東京に生きた人たちが元気よく登場する一方で、不思議な郷愁とやるせない気持ちが混じった気持ちを起こさせます。

 

幼少期の思い出は月を通して眺めているので、無力でありながら感受性が豊かだった、受け身の思い出なのです。人にはきっとそれぞれの「三丁目の夕日」があるはずです。懐かしく同時に思い出すのが切なく苦しいような三丁目、、、

 

セピア色のそうした思い出は、月が受けたものです。私たちは、そこから人生をスタートさせていきます。以降、いくつになっても、外界に接する私たちの感受性の窓は、まずはじめは月なのです。

 

月が作った最初の外界のイメージは、完全に受け身です。どんな理不尽もどんな逆境も、ただ黙ってそれを見つめているよりほかなかった子供時代の思いが、月の郷愁であり、思い出からくる印象の残酷さでもあります。

 

人は他に目を向けるものが何もないとき、いつでもこのスタート地点の印象に戻ることができますし、また、戻ってしまいます。他になにもないとは、月以外の衝動によって物事を意識することのない状況で、通常は太陽のことを言います。太陽は自分のしっかりした意識ですから、完全受け身だった月の印象とは違い、目的もあるしそこには目的に向かうエネルギーもあります。

 

太陽の意識にしたがって行ったことは、やがて成功していき、私たちの自信につながりますが、月のイメージに従った行動はそのほとんどが失敗に終わります。

 

月は現実にエネルギーを注ぐ星ではなく、受け身の幻影なのですが、人は生まれて来た以上、なんらかの方法で外界を理解する必要があります。

家から一歩外に出た子は、家に戻らねば死んでしまいますので、家と外というわかりやすい世界観がまず必要になってきます。

 

外に出れば、色々なものと出会いますので、出会ったものが自分を害するか、良くしてくれるかの選択も重要になります。

 

月の世界観とは、まだ子供だった私たちが、外界に出た際に必要とする、外の世界の理解を急いで作る時代にできたものなのです。それがあるから色々な場所にも行けますし、色々な人とも話したりすることができるようになっていくわけです。

 

7歳未満の子供だった私が見た世界、、、その印象が月です。そして私たちは、その月の印象を死ぬまで、外界を認識するフィルターとして使い続けることになるのです。

 

7歳までの子供が作った世界観は幼稚で矛盾に満ち、完全に受け身です。しかし、その印象を私たちは以降もずっと持ち続け、常に外界に触れる際には、それを第一フィルターとして機能させ続けるのです。

 

なので、月を理解しないと、私たちは、7歳の子供の世界観から抜けることができず、受け身で防衛的にしかこの世に接することができなくなります。

 

それでは成長もなく、生きて来た意味が持てなくなりますので、次に太陽意識の獲得によって、自分自身の生き方や個性を輝かせる時代がもたらされることになります。ただ太陽意識は月意識が完全受け身で培われたのと違い、自身で獲得しなければもてないものなのです。

 

月が私たちにもたらす意識は無意識として絶対的ですが、太陽の意識は個や自分自身を強く意識したものとなります。本当に好きなことや本当のやりがいは、ですから太陽意識からしか訪れません。

 

しかし、月の強固な習慣性は、あたかも月のイメージが自分の個性や真の人間性であるかのように振る舞うのです。ガレージから出た車はどこに行くのも最初は自分の家の前の道を通るしかないように、人生で何をするにも、私たちは月を通してまず世界を見るところから始める以外ありません。

 

太陽意識は強烈なので自身の個性といずれはつながりますが、月の個性もあたかも本当の自分のように感じられるように働きます。月は無意識化しやすいので、その影響は太陽よりも強くはなりませんが、潜在的に働き続けます。

 

前にも触れましたが、月は幻影であり、完全受け身の時代に見た外界の様子をこどもの目で捉えたもので、それは実態とはかけ離れたものとなっています。子供時代にイメージした自分自身のイメージは、月のサインに現れます。月のサインが示すものは、本当の自分の姿ではなく、自分が自分に抱いたイメージでしかないのですが、そのイメージは強固に習慣化されているため、自分は月のような人間であると感じるようになっていきます。

 

とくに太陽意識の獲得が遅れていると、成長した後も月が自分のイメージであると思いがちです。太陽意識が隠れている時とは、失意の時や、未来をあきらめた時であったり、親の影響、とくに母の磁力から抜け出せなくなっている時などです。その際には、月のイメージは拡大視され、私たちは7歳以下の子供時代と同じ意識で外界と自分を眺めるしかなくなります。

 

イメージの内容は月の12サインに従いますが、それが前に二回にわたるレポートで語った内容です。しかし大事なことは、月のイメージは現実ではない、、、という点です。そのため、月のイメージを自分の中で追求すると、必ずうまく行かなくなります。何事も失敗しますし、やがてはどうにもならなくなり、現実生活を送れないまでに混乱します。これがルナティックの正体です。

 

現実でない自分を実際の自分であると思いたいのが月ですが、それは嘘の自分ですので、それを追いかけるとどうにもならないストレスと消耗に追われてしまうわけです。

 

このことを知っていれば、月に惑わされることなく自身の道を見つけることができます。少なくとも楽になります。間違った自分のイメージで振り回されることが無くなるからです。

 

月はどうにもならない時だけ戻る一時的なラストリゾートとしては良いのですが、月のリゾートに何泊もした場合は、ルナティックの世界に足を運び入れることになるでしょう。

 

人生が終えようとしている時、月のリゾートは必要な場合もあります。現実世界にはもう親しい人もいない、、、親しかった人はみんな死んでしまっている、、、特にこの世でやり残したこともない、、、人はそんなときに人生の出発点であった月に戻り、最後の時を迎えることもあると思います。

 

月は幻想であり、事実に立脚したイメージは持ちません。子供時代に見た外界から受けた印象による自身と世界のイメージなのです。

 

人が死にゆくとき、最後の最後にすべてが幻であるとの思いを乗せてくれる船が月で、その際には確かに月は重要な役割を果たします。この世が幻想の世界であり、うつし世であるとの認識は、月の幻想性を理解した上では重要な働きとなるからです。

 

人は生れ出た時、どんな幻想でもよいので、この世にいるという認識のきっかけが必要になります。また戻る際にも、この世は確かに幻想であったとの確信を、月を通して知ることができるのです。

 

月はその意味で、あの世とこの世を結ぶわたり船としての働きを持ちます。月で生まれ、月で帰ることになる私たち。考えてみれば、月に限らず太陽を除くすべての惑星は太陽の光で輝くうつし世の星たちです。

 

その性格をもっとも大きく表出させている月。月はこの世が幻想であることを教える星であり、そのことを気づかせるために常に働き続けます。月を理解することは人生の意味を悟ることに直結する道です。

すべてが幻であるなら生まれてくる際に幻想からスタートすることは、何もおかしなことではありません。

 

月は幻想のこの世への渡し船であって、私たちが戻る世界は月ではない、太陽意識の世界です。この世が幻想で、戻る世界が実態であるという哲学は普遍です。私たちは太陽意識の獲得によってのみ、間違うことなくそのことが理解できるのです。そして戻る世界は死の月世界ではなく、太陽であると知ったその時はじめて、月の世界の意味も知ることができるようになるのです。

 

月は幻想の星であるゆえにこの世が幻想であることを教える有難い星。深い愛に根差していることは確かなのですが。母性というのも、自分の子がこの世で悟らずともいく世代かのちにつながる、母としての命の継続としての思いが月を通して出てきます。

 

なので月は連綿とつづくこの世の受け継ぎとして重要なのです。

 

ですので、やはり私たちは月に騙され続けてはいけません。月は月を卒業してくれることのために月であり続けています。

 

月を通して感じる自分は本当の自分ではありません。

月を通して見る世界は本当の世界ではありません。

月の影響で行うことはほとんんど形になりません。

 

月があなたを優しい人だと言ったら、それはやさしい自分だと思いたいことであって、本当に優しい自分というわけではないのです。なので、自分のイメージにこだわり続けているうちは、私たちはナイーブで傷つきやすく、自分に自信をもたません。

 

月の衝動によって何かをやろうとしても、それを実行し現実にするための能力は私たちにはありません。月には目的を実行する力がないので、試みは徒労に終えることになります。

 

月のイメージで自分の仕事を探しても、疲れて終えます。無理すればルナティックにかかります。

 

月は幻想であることを教えているのです。と言って、子供時代に培った月のイメージを捨て去ることはできません。月は変えられない自身のイメージであり、決して達成されない自身を示しているのです。月による感情の支配は生涯続きますが、それを事実だと思ったら苦しくなります。

 

変えられない月の与えた個性からは何も生まれないことを承知の上で、それをキャラとして受け入れ、それとは別に自身の人生を探していくとき、私たちの人間としての、また生きる幅が広がります。

 

こうした複層の思いをもって月を眺める時、私たちは真の個性化への道に入ることができます。

           

月は本当にはいない母を求めさせ、本当にはいない自分を求めさせ、本当にはない世界の住人であるかのように私たちを振る舞わせます。

 

真に受けたらルナティックと死が訪れることにもなりますが、月が幻想であることを知り、その要素を受け入れていけば、人生は味わい深いものとなるのです。

 

「愛している」と言う裏切りの恋人の言葉が嘘だとわかっても、嘘と知りつつ愛を深めることさえ人生の選択肢にはあります。

 

その時私たちは、「嘘つき」と発狂することもできますし、「うれしいよ」と嘘を受け入れることもできるのです。嘘を受け入れもして相手を肯定できる人生の凄さは、月なしでは考えられないものです。

 

月を月と知りつつこの世を味わう楽しさがなければ、この世に意味はありません。ただそれも、太陽あってのことなのです。太陽の人生の絶対肯定なくして、月を味わう余裕は私たちには訪れません。

 

太陽と月、、、今回は3回シリーズとなりましたが、主に月の側から語らせていただきました。



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