3月11日(木)夜、練馬区役所会議室で大日方(おびなた)純夫さん(早稲田大学文学部教授)の「ドラマ『坂の上の雲』と朝鮮半島」という講演会が開催された(主催:ねりま日朝女性の会)。ねりま日朝女性の会は韓国併合100年の歴史を3回シリーズで学ぶ学習会を企画し、これが1回目に当たる。
大日方さんは、司馬が書いたままに読むと朝鮮の歴史の何が見えなくなるか、このテレビドラマを見るとき何に留意すべきかを話された。なお大日方さんは、日本・中国・韓国三カ国の歴史学者が共同編集した「未来をひらく歴史」(高文研 2006年7月 第2版)の日本委員会の代表の一人である。
6時半スタートでわたしは遅れて参加したため、「はじめに」で語られた「併合」という言葉の意味や併合と国際法などの部分は残念ながら聞けなかった。
1 『坂の上の雲』のなかの朝鮮列島
(1)日清戦争
司馬遼太郎は、この戦争の原因を地政学に求める。清国が朝鮮を属国視しロシアも朝鮮をねらっていたが、朝鮮を他の強国に取られると日本の防衛は成立しない。「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ」というのが日本の言い分で、多年言い続けてきた。これが司馬の主張である。しかし地理的条件を持ち出すと人間が消えてしまう。民衆や庶民がみえなくなる。
また「朝鮮の自主性を言い続けた」のは事実だが、公式文書は戦争の正統性や大義名分を主張する文書なのである。1876年の日朝修好条規をみれば言い分が本当でないことがわかる。たしかに当時の人は政府の主張や言論人の主張をみて「正義の戦争」と考えていただろう。しかし、そのままドラマにして現在の視聴者が「当時の人々はそう考えていた」と理解すれば、100年前の認識に引き戻されることになる。当時の人々の認識としては「事実」だが、現在の視点を交錯させないと歴史の「真実」と逆になることもある。
次に司馬は、「韓国自身の意思の力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった」と、朝鮮の無能力を強調する。朝鮮の近代化、文明化を助けるために日本が清国と戦争をしたという歴史認識に陥ることになる。当時も今もあるこの歴史認識にいったん陥ると、日本の支配に対し朝鮮人の民衆の抵抗があったことが見えなくなる。
また、司馬は、この当時は他国の植民地になるか、帝国主義国に仲間入りするか、その二通りの道しかなかったと、「帝国主義時代の宿命」という考え方を強調する。しかしこれでは先の地政学を原因とする見方と矛盾する。
(2)日露戦争
司馬は、原因をロシアの日本への侵略性に求め、ロシアが日本を窮鼠にし猫を噛むしか方法がなかったと、日露戦争が祖国防衛戦争であることを強調する。
これについては、ソ連崩壊後帝政ロシアの文書を読めるようになり、ロシアにも穏健派と強硬派があったことが明らかになってきた。当時の日本人が主観的に「ロシアが攻めてくる」と思っていても、実際に攻めてくるかどうかという客観的な国際情勢とは区別すべきだ。主観的側面だけとらえると過剰防衛になりかねない。また日本にとっての防衛は朝鮮の人には支配・侵略となり、侵略が正統化される。その結果大韓帝国は見えなくなる。
そして「国民は一丸となって戦った」というが本当だろうか。原敬日記に「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり」(1904年2月11日)と書いている。幸徳秋水、堺利彦ら非戦派もいた。講和条約を結んだ1905年9月には日比谷焼打ち事件が起き国民の不満が爆発した。司馬は「日露戦争までは明るく上り詰める道だった」というが、けしてそんなことはない。
2 『坂の上の雲』が隠す朝鮮半島
(1)日清戦争と朝鮮半島
1871年日本と清国は、日清修好条規という対等条約を結んだ。朝鮮は中国と宗属関係があるので、日本からみると下ということになる。75年軍事力を背景に、不平等条約である日朝修好条規を結び、日清戦争後には清国にも不平等条約を結ばせた。一方、欧米各国とは幕末の不平等条約を対等条約へと改正し、1911年に条約改正は完成した。日本はこうした二面的外交を展開した。
幕末に日本で欧米への反発が強まったように、1882年壬午軍乱という反日暴動が起こった。いったん収まったが、国内で急進派と穏健派の対立が深まる。急進派は日本と結びつきクーデターを起こすが失敗する。これが日清戦争の10年前のことである。大きな構図でみれば、清国中心の秩序を日本が新しい国際関係に編成替えしようとしていたのである。
日清戦争の直接のきっかけは1894年の甲午農民戦争に日清両国が出兵したことだった。農民軍は全州和約を結んだので両国の出兵の理由はなくなったが、日本軍は94年7月23日に王宮を占領して日本寄りの政権をつくり「朝鮮政府からの依頼」というかたちで、7月25日に日清戦争が始まった。
戦争の前半のおもな戦場は朝鮮国内だったので、10月に農民軍が再蜂起した。しかし日本軍の皆殺し作戦で、戦闘や虐殺による死者は20万とも30万ともいわれる。
日清戦争で日本が勝利し、清国と朝鮮の関係は切れ、朝鮮と日本が結びついた。
建前上、朝鮮は独立自主の国だったので、井上馨公使は第二次金弘集内閣に改革を進めさせた。しかし朝鮮では閔妃を中心に親露派の勢力が強まり井上の構想は挫折した。次の公使・陸軍中将三浦梧楼は王妃殺害をもくろみ、95年10月8日日本公使館員や壮士が宮殿に侵入し、閔妃を斬殺し遺体を焼きすてた。異常な事態である。朝鮮の民衆の反日反開化感情が高まり、国王がロシア公使館に逃げ込む事件が起こった。その結果朝鮮をめぐる対立は日清から日露に変化する。
(2)日露戦争と朝鮮半島
1904年2月日本はロシアに対し宣戦布告した。宣戦の詔勅に「帝国ノ重ヲ韓国ノ保全ニ置ク」と日本にとっての朝鮮半島の重要性を指摘し「若シ満洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス」と、平和のための戦争であることを強調する。「平和」は開戦のための常套句である。2か月前の12月「いかなる場合も実力で韓国を日本の権力下に置く」ことを閣議決定し、開戦2週間後の日韓議定書で、ロシアが韓国を侵害したとき日本はどこでも軍事上必要な地点を収容できることを認めさせた。次に04年8月第一次日韓協約を結び、財政顧問、外交顧問を置き顧問政治を始めた。日本はロシアと戦争しながら朝鮮半島の支配を拡大していった。戦争末期の05年7月から9月にかけてアメリカ、イギリス、ロシアに日本の支配権を認めさせた。国際世論の反対が起こらないこの時期をチャンスに、日露戦後の11月軍事力を背景に第二次日韓協約を結んだ。日本は外交権を掌握し、韓国統監府を置き保護国化した。この協約が合法かどうか日韓政府の間で議論がある。
この過程で、韓国では激しい義兵闘争が起こった。07年7月にはハーグ密使事件が発覚し、これを機会に日本は内政権も掌握し韓国の軍隊を解散させた。日本が韓国併合を目ざし牙をむいたかたちである。
09年7月には「帝国百年の長計」として韓国併合方針を閣議決定し、翌年8月22日「日本の恩恵」により韓国を併合し植民地とした。日本の国民の目から義兵闘争は隠された。
3 “雲”の向こうの真実を見るために
小説は読者がいないと成り立たない。読者を得るには共感を引き出すことが必要となる。秋山兄弟や正岡子規といった主人公になりきり、彼らの言葉をもって語る。同時に、語る言葉が時代と共鳴する必要がある。司馬が執筆したのは、日本が高度成長時代での上っていく時代で、上昇気流に乗り人びとは明るい未来を期待した。
司馬が膨大な資料に基づいて書いたことは事実だが、小説家に挙証責任はいらない。主人公の言葉で自分の思いを語る。一方、歴史は残された文書は読めるが、当時語った言葉は復元できない。小説は歴史的事実とイコールである必要はない。二つの違い、区別を押さえる必要がある。
またどういう視点でみているか、確認する必要がある。軍人や政治家、英雄の目でみるか、庶民の目でみるかで違ってくる。一面の事実は巨大なウソになることもある。民衆の目、女性の目、子どもの目、いろんな目で見るとどうなるか、思考実験をしてみる必要がある。
また当時の人の目で見て共感することは不可欠だがそれで終わってはいけない。当時の人には見えなかったことが、100年後のいまなら見えることがある。たとえば国際関係だ。
坂の上の“雲”に隠れた向こう側の真実を見抜く目が必要である。
☆「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長は「私が『自由主義史観』を構想する上でも司馬作品は大きな位置を占めた(略)決定的な分岐点は、日露戦争を扱った『坂の上の雲』との出会いであった。この作品は私の中にあった『東京裁判=コミンテルン史観』を根底から揺るがすのっぴきならない問いをつきつけるものであった」とこの作品への強い共感を告白している(「司馬史観」の説得力 96年6月)。そしてロシアが領土を次々に拡張したので、朝鮮半島がロシアの銃剣の役割を果たしたため、日本が先制攻撃を仕掛けて始めたのが「祖国防衛戦争」である日露戦争だと、まったく司馬と同じ論調を展開する(戦略論から見た日本の近現代史と歴史教育 96年6月)。ここから97年1月、会を設立して扶桑社版歴史教科書を作成し、2001年全国での採択戦に参入するまで一直線の道をたどった。そして彼らはいま「外国人地方参政権付与法案」反対運動など排外主義的な活動を全国的に展開している。
☆4世の子どもを東京朝鮮中高級学校に通わせている3世のお母さんから、子どもたちが集めている署名について、緊急アピールがあった。
3世ともなると、民族の誇りや自尊心を家庭で教えるには限界がある。自分が祖父母から受けた教育を民族学校にお願いすることになる。自分のころは、インターハイなどには参加できず、大学進学は大検での資格取得が必要だった。いまはインターハイ、合唱コンクールなど日本人の高校生が出るたいていの大会で参加できるようになった。大学も国立でも私立でもストレートに受験できる。ただ1条項でないので、助成については事情が異なる。民主党政権に変わり、法案の段階ではインターナショナルスクールや中華学校と同じように助成が適用されるということだったので、うれしかった。しかし朝鮮学校だけ除外されると聞き、ショックは二重三重の大きさに感じる。どうか、日本の心ある方々の力添えをいただきたい。
大日方さんは、司馬が書いたままに読むと朝鮮の歴史の何が見えなくなるか、このテレビドラマを見るとき何に留意すべきかを話された。なお大日方さんは、日本・中国・韓国三カ国の歴史学者が共同編集した「未来をひらく歴史」(高文研 2006年7月 第2版)の日本委員会の代表の一人である。
6時半スタートでわたしは遅れて参加したため、「はじめに」で語られた「併合」という言葉の意味や併合と国際法などの部分は残念ながら聞けなかった。
1 『坂の上の雲』のなかの朝鮮列島
(1)日清戦争
司馬遼太郎は、この戦争の原因を地政学に求める。清国が朝鮮を属国視しロシアも朝鮮をねらっていたが、朝鮮を他の強国に取られると日本の防衛は成立しない。「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ」というのが日本の言い分で、多年言い続けてきた。これが司馬の主張である。しかし地理的条件を持ち出すと人間が消えてしまう。民衆や庶民がみえなくなる。
また「朝鮮の自主性を言い続けた」のは事実だが、公式文書は戦争の正統性や大義名分を主張する文書なのである。1876年の日朝修好条規をみれば言い分が本当でないことがわかる。たしかに当時の人は政府の主張や言論人の主張をみて「正義の戦争」と考えていただろう。しかし、そのままドラマにして現在の視聴者が「当時の人々はそう考えていた」と理解すれば、100年前の認識に引き戻されることになる。当時の人々の認識としては「事実」だが、現在の視点を交錯させないと歴史の「真実」と逆になることもある。
次に司馬は、「韓国自身の意思の力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった」と、朝鮮の無能力を強調する。朝鮮の近代化、文明化を助けるために日本が清国と戦争をしたという歴史認識に陥ることになる。当時も今もあるこの歴史認識にいったん陥ると、日本の支配に対し朝鮮人の民衆の抵抗があったことが見えなくなる。
また、司馬は、この当時は他国の植民地になるか、帝国主義国に仲間入りするか、その二通りの道しかなかったと、「帝国主義時代の宿命」という考え方を強調する。しかしこれでは先の地政学を原因とする見方と矛盾する。
(2)日露戦争
司馬は、原因をロシアの日本への侵略性に求め、ロシアが日本を窮鼠にし猫を噛むしか方法がなかったと、日露戦争が祖国防衛戦争であることを強調する。
これについては、ソ連崩壊後帝政ロシアの文書を読めるようになり、ロシアにも穏健派と強硬派があったことが明らかになってきた。当時の日本人が主観的に「ロシアが攻めてくる」と思っていても、実際に攻めてくるかどうかという客観的な国際情勢とは区別すべきだ。主観的側面だけとらえると過剰防衛になりかねない。また日本にとっての防衛は朝鮮の人には支配・侵略となり、侵略が正統化される。その結果大韓帝国は見えなくなる。
そして「国民は一丸となって戦った」というが本当だろうか。原敬日記に「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり」(1904年2月11日)と書いている。幸徳秋水、堺利彦ら非戦派もいた。講和条約を結んだ1905年9月には日比谷焼打ち事件が起き国民の不満が爆発した。司馬は「日露戦争までは明るく上り詰める道だった」というが、けしてそんなことはない。
2 『坂の上の雲』が隠す朝鮮半島
(1)日清戦争と朝鮮半島
1871年日本と清国は、日清修好条規という対等条約を結んだ。朝鮮は中国と宗属関係があるので、日本からみると下ということになる。75年軍事力を背景に、不平等条約である日朝修好条規を結び、日清戦争後には清国にも不平等条約を結ばせた。一方、欧米各国とは幕末の不平等条約を対等条約へと改正し、1911年に条約改正は完成した。日本はこうした二面的外交を展開した。
幕末に日本で欧米への反発が強まったように、1882年壬午軍乱という反日暴動が起こった。いったん収まったが、国内で急進派と穏健派の対立が深まる。急進派は日本と結びつきクーデターを起こすが失敗する。これが日清戦争の10年前のことである。大きな構図でみれば、清国中心の秩序を日本が新しい国際関係に編成替えしようとしていたのである。
日清戦争の直接のきっかけは1894年の甲午農民戦争に日清両国が出兵したことだった。農民軍は全州和約を結んだので両国の出兵の理由はなくなったが、日本軍は94年7月23日に王宮を占領して日本寄りの政権をつくり「朝鮮政府からの依頼」というかたちで、7月25日に日清戦争が始まった。
戦争の前半のおもな戦場は朝鮮国内だったので、10月に農民軍が再蜂起した。しかし日本軍の皆殺し作戦で、戦闘や虐殺による死者は20万とも30万ともいわれる。
日清戦争で日本が勝利し、清国と朝鮮の関係は切れ、朝鮮と日本が結びついた。
建前上、朝鮮は独立自主の国だったので、井上馨公使は第二次金弘集内閣に改革を進めさせた。しかし朝鮮では閔妃を中心に親露派の勢力が強まり井上の構想は挫折した。次の公使・陸軍中将三浦梧楼は王妃殺害をもくろみ、95年10月8日日本公使館員や壮士が宮殿に侵入し、閔妃を斬殺し遺体を焼きすてた。異常な事態である。朝鮮の民衆の反日反開化感情が高まり、国王がロシア公使館に逃げ込む事件が起こった。その結果朝鮮をめぐる対立は日清から日露に変化する。
(2)日露戦争と朝鮮半島
1904年2月日本はロシアに対し宣戦布告した。宣戦の詔勅に「帝国ノ重ヲ韓国ノ保全ニ置ク」と日本にとっての朝鮮半島の重要性を指摘し「若シ満洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス」と、平和のための戦争であることを強調する。「平和」は開戦のための常套句である。2か月前の12月「いかなる場合も実力で韓国を日本の権力下に置く」ことを閣議決定し、開戦2週間後の日韓議定書で、ロシアが韓国を侵害したとき日本はどこでも軍事上必要な地点を収容できることを認めさせた。次に04年8月第一次日韓協約を結び、財政顧問、外交顧問を置き顧問政治を始めた。日本はロシアと戦争しながら朝鮮半島の支配を拡大していった。戦争末期の05年7月から9月にかけてアメリカ、イギリス、ロシアに日本の支配権を認めさせた。国際世論の反対が起こらないこの時期をチャンスに、日露戦後の11月軍事力を背景に第二次日韓協約を結んだ。日本は外交権を掌握し、韓国統監府を置き保護国化した。この協約が合法かどうか日韓政府の間で議論がある。
この過程で、韓国では激しい義兵闘争が起こった。07年7月にはハーグ密使事件が発覚し、これを機会に日本は内政権も掌握し韓国の軍隊を解散させた。日本が韓国併合を目ざし牙をむいたかたちである。
09年7月には「帝国百年の長計」として韓国併合方針を閣議決定し、翌年8月22日「日本の恩恵」により韓国を併合し植民地とした。日本の国民の目から義兵闘争は隠された。
3 “雲”の向こうの真実を見るために
小説は読者がいないと成り立たない。読者を得るには共感を引き出すことが必要となる。秋山兄弟や正岡子規といった主人公になりきり、彼らの言葉をもって語る。同時に、語る言葉が時代と共鳴する必要がある。司馬が執筆したのは、日本が高度成長時代での上っていく時代で、上昇気流に乗り人びとは明るい未来を期待した。
司馬が膨大な資料に基づいて書いたことは事実だが、小説家に挙証責任はいらない。主人公の言葉で自分の思いを語る。一方、歴史は残された文書は読めるが、当時語った言葉は復元できない。小説は歴史的事実とイコールである必要はない。二つの違い、区別を押さえる必要がある。
またどういう視点でみているか、確認する必要がある。軍人や政治家、英雄の目でみるか、庶民の目でみるかで違ってくる。一面の事実は巨大なウソになることもある。民衆の目、女性の目、子どもの目、いろんな目で見るとどうなるか、思考実験をしてみる必要がある。
また当時の人の目で見て共感することは不可欠だがそれで終わってはいけない。当時の人には見えなかったことが、100年後のいまなら見えることがある。たとえば国際関係だ。
坂の上の“雲”に隠れた向こう側の真実を見抜く目が必要である。
☆「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長は「私が『自由主義史観』を構想する上でも司馬作品は大きな位置を占めた(略)決定的な分岐点は、日露戦争を扱った『坂の上の雲』との出会いであった。この作品は私の中にあった『東京裁判=コミンテルン史観』を根底から揺るがすのっぴきならない問いをつきつけるものであった」とこの作品への強い共感を告白している(「司馬史観」の説得力 96年6月)。そしてロシアが領土を次々に拡張したので、朝鮮半島がロシアの銃剣の役割を果たしたため、日本が先制攻撃を仕掛けて始めたのが「祖国防衛戦争」である日露戦争だと、まったく司馬と同じ論調を展開する(戦略論から見た日本の近現代史と歴史教育 96年6月)。ここから97年1月、会を設立して扶桑社版歴史教科書を作成し、2001年全国での採択戦に参入するまで一直線の道をたどった。そして彼らはいま「外国人地方参政権付与法案」反対運動など排外主義的な活動を全国的に展開している。
☆4世の子どもを東京朝鮮中高級学校に通わせている3世のお母さんから、子どもたちが集めている署名について、緊急アピールがあった。
3世ともなると、民族の誇りや自尊心を家庭で教えるには限界がある。自分が祖父母から受けた教育を民族学校にお願いすることになる。自分のころは、インターハイなどには参加できず、大学進学は大検での資格取得が必要だった。いまはインターハイ、合唱コンクールなど日本人の高校生が出るたいていの大会で参加できるようになった。大学も国立でも私立でもストレートに受験できる。ただ1条項でないので、助成については事情が異なる。民主党政権に変わり、法案の段階ではインターナショナルスクールや中華学校と同じように助成が適用されるということだったので、うれしかった。しかし朝鮮学校だけ除外されると聞き、ショックは二重三重の大きさに感じる。どうか、日本の心ある方々の力添えをいただきたい。