ぴろたまごの雑記帳

小さな庭の見える窓辺でつらつら書いてます
草花の写真もアップしていきます

懐かしい白黒写真

2022-07-21 19:46:21 | 日記




古いアルバムが押入れから出てきた。

昭和33年頃だろうか。
初々しい母とハンサムな若い父の新婚旅行の写真。

母の実家での顔合わせに、若きおじさんおばさんたちも勢揃い。
小さかったいとこの兄貴たちもついてきて、着物や洋服といい、
髪型といい、昔の映画を見ているみたいだ。

ニコンのカメラで撮った小さめの白黒写真は精度がよくて、
時を重ねても、くっきりハッキリ映っている。
若いじいちゃんとばあちゃんも、懐かしい笑顔で元気そうだ😊

小さい頃、よく泊りに行った田舎の家の縁側や土間や台所、
五右衛門風呂に、庭や畑の様子がよみがえってくる。

秋には大きな柿の木の下で、庭の菊の花を使ってままごとをしたものだ。
白菊のごはんに黄菊のふりかけ、葉っぱを刻んでおかずにして・・

夏には近くの小川で水遊びしたり、メダカを捕まえたり、
あぜ道をたどって山へ行き、古い洞穴やトンネルを探検したな~

納屋には「ぽっちゃん便所」があって、
丸く穴を掘っただけのトイレは、落ちないかとひやひやした。

飼っていたニワトリを捕まえて絞めて料理してくれたけど、
芝生を逃げ回るニワトリの最後は見ていられなかった。

父方のじいちゃんは波平さんそっくりの明治生まれで、
紋付袴姿がばっちりキマッている。
羽織の着物姿で映ってるばあちゃんは、キリッと近寄りがたい。
ま、当時はピースで笑って映るなんてなかったけど。

小さい頃は、祖父母、叔父夫婦といとこの兄貴たちと3家族で、
市内の電車通りに面した細長い家で、11人で暮らしていた。

一緒に家業を営み、裏には木工所もあった。

じいちゃんはしつけも厳しかったけどよく可愛がってくれて、
一緒にお風呂に入ると、硬い洗濯石鹸で髪をごしごし洗われた。

初めての女の子で家族のアイドルだった私は、
日替わりでお風呂に入れてもらい、遊びに連れてってもらった。

3つの時に妹が生まれて、
私と違って目鼻立ちがはっきりした小顔の妹とツーショット。
ホント、姉妹なのに頭の形や顔のサイズが全然違う(笑)

妹は活発でおてんばで、じいちゃんのひざにいつも座ってて、
七五三の着物もすぐ脱いで、髪飾りだけの普段着の記念写真😊

古きよき時代。思い出いっぱいの時代。
 



 
幼稚園の時に下の妹が生まれ、ようやくカラー写真が登場した。
ちょうど10月で、運動会の親子ダンス、一緒に踊れず寂しかったな。

田舎の縁側で赤ん坊の妹を抱いている母と、
様子を見に来た私たちの写真もあった。

昭和43年にようやく郊外に家を建てて、一家で独立した。

今度は田舎をたたんできた母方の祖父母と一緒に暮らし始めたから、
下の妹は母方のじいちゃんに可愛がってもらうことになる。

庭には手入れが行き届いた築山や梅の木があり、畑で野菜も作っていた。

でもまさか、その数年後に母が病気で亡くなるなんて・・

あの4年間は、娘として最後の親孝行だったのかもしれない。


たった一人の大きな存在が消えてしまったことで、
その後の家族や周囲の人生は一変した。

翌年、父は新しい母とお見合いして再婚し、
祖父母は再び田舎へ帰って180度違う家族の歴史が始まった。

「大人の関係はいろいろ複雑だから、一緒には住めないよ」

祖父母との手紙のやり取り、今でも達筆な筆跡が残っている。
結婚が決まったと報告をしに、一人でバスを乗り継いでホームを訪ねたら、
タンスから財布を出して、お祝いをくれたっけ。
それが元気なばあちゃんと会った最後だった。

それも40年も前のことなのだから、人生は長いものだ。

いろんな葛藤もあったけど、今の母にはずいぶん助けてもらったし
弟も生まれて、家業を引き継ぎ、父も自宅療養していられる。
よく3人も娘がいるところへ来てくれたものだと感謝している。

生きている人のことを大事に思って感謝し、
亡くなった人のことを忘れないのが供養だと思う。

私もいまや二人の孫にも恵まれた。
人生って登場人物が入れ代わり立ち代わり続いていくものだ。

きょうは敬老の日。
じーさまの所へ顔を出して、実家に電話でもしよう。


                                                 2016年9月の過去日記より




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