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”卒業50周年記念誌”
学校には規制らしい規制は一切なかった。
多少のことは多めに見ていたし、先生も生徒を暴走しないと信頼していた。
60年「安保反対」のデモを県下で初めてやった高校でもある。
当時のことを読み返すと、「樺美智子さんの死を悼む」「静かな勉強の場を与えて下さい」。「・・」。
先生たちの配慮て゛「安保反対」は出さず。政治色を強く出さない配慮がギリギリされていたことなどが分かる。
そんななか唯一「安保賛成」を公然と主張した、造り酒屋の倅。今は息子に家業を譲り、元気な彼が、当時の思いをつづっている。彼もまた大したものである。
修学旅行の京都で、先生が300円くれて初めてパチンコをやった話。 コンパに先生が酒の差し入れをしてくれた話。
向かいの女子高(カミサンの母校)のブロンズの女性裸像に、ブラジャーをつけに行ったのは、私とされているが、断じて私ではない、と今もって潔白を主張する人。
世界を股にかけて飛び歩いた人、秀才のまま教授になった人。皆が古希を迎える。
12歳の同窓会と、18歳の卒業記念誌。 思い出の心の振れ幅は大きい。
今じゃ夢のまた夢。女子高のブラ・・・アハハ
私は途中で高校が変わっているから、いまいち印象が薄いのだけど
七里ヶ浜にある高校はどちらかというと、なんていうか石原裕次郎張りの
奴らが活躍してたね。カッコよくてね、女の子を追いかけまわしていたな。
小さくて田舎もんの私は全く目立たなかったな。
政治談議なんて全くなかったんじゃないかなぁ、気が付かなかっただけかも知れないけど。
それにしても小学校と高校で古希祝の記念誌とはすごいな。
皆さんはるかに早熟でした。
村が市になって市との統合中学で町場の子の洗礼を受け、
市から盆地の盛り場に出てまた町場の洗礼を受け。
その遅れは古希になっても続いているみたい。
生徒会で、かんかんがくがく議論していましたが、私はポーとしていた方。
記念誌は高校だけですよ。
小学校と高校。どちらも人生の節目だったんだな。