minority resistance

pcfx復活ブログ

中年の幼児性

2011年06月27日 | そのた
年のせいか、数年前から涙もろくなった。そのような現象はよく聞く事だが、pcfxの場合に起こる
現象は、「感動がこみ上げてきて臨界を迎え、ホロリと涙する」というものではなく、まるで
「赤ん坊が泣き出すようなグズり」というべき感情が発露する。例えば歩き始めた赤ん坊が小走り
して転び、顔を上げた瞬間に「エヘッ、エヘッ、エヘッ・・・エ~~~~ン」と冒頭を小刻みに
2~3回刻むように泣くことがある。pcfxが涙もろくなる時は、まさにこのリズムで感情が臨界を
迎え、顔を歪ませながら「グズり」が起こる寸前までいくのだ。そしてそこに理性の抑止命令
ルーチンがソートされるので、人前では微かに顔を引つらせる程度で誤魔化すこともできる。
だが、自宅で一人映画を観るようなシチュでは抑止命令ルーチンがさほど強力には起動しない
ので、声までは出ないが表情がかなり歪む段階まで進行する。

で、さきほどの赤ん坊の泣きパターンである「エヘッ、エヘッ、エヘッ・・・エ~~~~ン」
だが、これにも感情抑止命令プログラムがソートされていることに最近気がついた。冒頭の
2~3回繰り返す「エヘッ」または「アヘッ」の刻みは、「泣きたい→我慢だ→泣きたい→我慢
だ→泣きたい→我慢・・・しきれんわボケェ~~~」というプログラムが走っているように
感ずる。
つまり赤ん坊は薄ら薄らでも「泣いてはいけないのだ」という規則を知っており、それは他者から
の停止命令ではなく「泣くよりも他にするべき事があるだろう→なぜ転んだのか検証しよう」と
いう行動補正プログラムの干渉なのだが、脳がまだうまく最適化されていないため考証が感情に
負け、ついに泣き出してしまい「転んじまったよ~母ちゃんヘルプミ~」と泣き叫ぶ結果になる
ようだ。

赤ん坊によっては「エヘッ」の刻みが3回以上続いてから泣き出す事もあるようだが、その回数は
行動補正プログラムの干渉リトライ回数に等しいのではないか。それは遺伝的に生まれ持った理性
回路の頑強さの証であり、もしかしたらその回数の個体平均を取れば、理性の差を数値的に表す
事ができるのではないだろうか。また、多くの赤ん坊が2~3回の刻みな事から、人類の理性干渉
(及び行動補正)プログラム介入回数平均は約2.5kzm(キザミー)なのではないか。これが多けれ
ばより理性的な人間に成長する可能性が高く、反対に少ないと感情的になるのやもしれない。男児
よりも女児のほうが回数が少なく、女児平均は2.0kzmであることから女性は感情的になっていく
のやもしれない。


などと妄想している隙にまた本筋から大幅に逸脱しており、まるで精度の低いナビ画面のように
海上を車で爆走している様相を呈している。

とにかく涙もろくなっているのは確かで、逆に怒りや固執などの感情は薄らいでいるように
感じる。人にはライフサイクル(生涯発達心理)というのがあるみたいで、年齢によって精神や
行動の傾向が変わるという説もあるようだ。それによると中年というのは自我のせめぎ合いから
緩やかに自我の統合へ向かいつつ、嫌悪感や絶望感が醸成されていく世代とされている。



涙もろくなる瞬間には多くの場合感情の葛藤がある。例えば

「か弱い子猫が母猫とはぐれ、カラスに啄かれながら母猫を探す」

というシーンがあったとすると、

「子猫=自分ではないから他人事であり弱いものが淘汰されるのは食物連鎖的に当然である」

  という強者の論理の理性的な見解と、

「ああ子猫ちゃんかわいそ、かわいそね」

  という母性本能による保護意識的憐憫と、

「子猫=弱い自分という投影に対する感傷」

  が綯い交ぜになって自我が葛藤する事になる。



しかしそれは意識の裏では、全ては等価で等質なものであり、母猫・子猫・カラスの3つの立場を
相対的に俯瞰する理性で統合されている。さらにはその理性や価値相対主義に到達した事に何の
意味があるのかという論理的な行き詰まりを自覚し、自己の理性やその集合体である社会を嫌悪
し、閉塞感に負けて絶望してしまうという顛末だ。



pcfxの「中年グズり」の反応は、カラスのように生きてきた事への母猫に対する罪悪感と、自分が
子猫を啄んできた事の後悔と、しかしそれは生きるために仕方なかったんや~という自己弁護と、
省みることのなかった子猫への憐憫という、それぞれのルーチンが相互矛盾を引き起こして
プログラムが暴走し、システムダウンを起こした際に救済起動したセーフモードであり、シンプル
なシステムが代行しているので、それは感情面を簡略化した幼児退行モードによるものかも知れ
ないのだ。

今のところ幼児退行モードを早期に通常モードに切り替える自己修復ルーチンが機能しているが、
年をとって行くに連れてこの機能は衰えていく気がする。また価値相対化が進むことにより、
恒常的に通常モードでいなければならない理由を証明できない事に気が付き、「もしかして
幼児的でもいんじゃね?」という妥協と緩みが老化を促進させ、人は老いを迎えるのではないか。

幼児的という概念をデフォルトと言い換えれば、そこに人間本来が元々もっていた野生生物の
基本を見つけることになり、それ以上の事は意識と知識を積み上げた1次キャッシュ上の儚い
データのように思えてくる。だからこのような小賢しい妄想的分析などは後回しにして
「エヘッ、エヘツ、エヘッ、・・・ウワ~~~~ン アオオ~~~ン ボゲ~~~~~~」と、
赤ん坊の泣き声を真似て泣き叫ぶのを優先したほうがいろいろ捗るのかも知れない。
最寄りの赤ん坊に学ぼう。