minority resistance

pcfx復活ブログ

テーブルトークRPG

2011年02月28日 | げーむ
妙な者たちが密室に集まり、やおらバッグから巾着を取り出してその中からたくさんの
見慣れないサイコロをテーブルにぶちまける。博打でも始めるのだろうか?しかし彼らは
サイコロをそのままに紙とペンをバッグから取り出し、なにやら書き始める。その紙には
線が引いてあったり、いくつかの四角で囲ったところがあったりする。試験でも始める
のだろうか。

その内にメンバーの一人がなにやら指示を出し、それに従って皆はその紙に次々と何か
書きこんでゆく。サイコロをたまに振って、出た目を見ながら一喜一憂を繰り返す。
メンバーの代表らしき者が「職業を決めろ」などと言い出した。就職試験なのか。
だとしたらサイコロばかり振っているので運任せの酷い試験だ。

皆が書き込みを終えると、代表者がなにやら説明をはじめる。皆はそれを黙って聞いて
いるが、中には用紙のマスになにやら人物らしき絵を描き始める者もいる。
落書きなのか。不真面目な生徒である。
代表者は他のメンバーとの間についたてのようなボードを立て、秘密主義を体現するか
のような壁を構築する。

代表者が状況説明らしきものを語り終えると、皆は相談をはじめる。ミーティングタイム
らしい。口々に「どうする?」「こうじゃないか」「こうするべきだ」と語り、意見が
一致すると代表者に伝える。すると代表者はそれに答える前にサイコロを振る。人の話を
聞いている態度にはみえない。サイコロなどいつでも振れるではないか。

しばらく同じようなやりとりが続き、ある場面で皆が真剣な顔をしてサイコロを振る
ようになった。サイコロの出目を見て「うわー」とか「ぎゃー」とか「よっしゃ」などと
感情をあらわにする。その何らかの行為が佳境に入ったようだ。

何時間も妙な者たちが密室に篭もり、そのような行為を繰り返す。やっていることと
いえばサイコロを振り、用紙に何か書き込んだり消しゴムで消したり、相談したり
説明したり宣言したり、叫んだり怒ったりニヤニヤしたり。とても正常な行動には
見えない。その内に時間が来たのだろうか、代表者が何らかの数字を発表し、皆は
それを用紙に書きこんでから片付け始める。サイコロを巾着にしまい、筆記用具と共に
バッグに入れる。最後まで金銭の授受は行われなかったので賭博ではないようだ。




これが日本におけるテーブルトークRPGの一般的なプレイ風景であり、それが何なのか
知らないものにとっては、ただの怪しい集団である。

pcfxが若い頃、「D&D」というTRPGが流行し始めた。一冊¥5000ほどする高価な本を
買うことによって、当面のゲームのルールを知ることができるようになる。しかし
一緒に遊ぶメンバーがいないとゲームが出来ない。さらにその中の一人は「マスター」
と呼ばれるホスト役をこなさなければならない。なので二人だけでは「プレイヤー」が
一人だけになってしまい、寂しい事この上ない状況になってしまう。最低三人いないと
格好がつかないシステムになっている。また、プレイには相応の時間が必要であり、
忙しい者や門限のある者には厳しい。

高価な本を買う経済力があり、友人が多く、時間の余裕が取れる者というハードルを
クリアしなければゲームを始めることすらできない、選ばれた物だけが到達できる
ゲームが「D&D」だった。それだけではない。西洋ファンタジー世界の知識を一定以上
知っていないと認識を共有できないのだ。ある意味エリートだ。

知識も本も所持し時間もあるという者でも、自分の周囲にTRPGに興味がある人物が
いないとゲームを始められない。そういう境遇のファンタジーエリートはたくさんいた。
それらの者を救済するために「TRPGコンベンション」なる会合が度々開かれた。
公共の会議室などを予約して借り、ホビー系の雑誌などに開催日などを告知する。
それを見たファンタジーエリートたちは、大抵は遠くから電車を乗り継いで会場に
到着し、有料の会場を借りて主催している者にいくらかの入場料を払うのだ。

会場内はいくつかのブースに別れ、机が寄せられている。TRPGは「D&D」だけではない
ので、自分がルールを熟知しているゲームのブースを選んで参加申し込みをする。
ブースにはそれぞれ、主催者側が用意した「マスター」が鎮座している。

しかしここには大きな罠が待ち受けており、何も知らない初参加のプレイヤーは、その
マスターがどのようなプレイスタイルを持っているのかわからない。マスターを選べない
のだ。TRPGはマスターがシナリオを用意するので、そのシナリオライターである
マスターの個性が、大きくゲーム内容に関わるのである。地味に淡々とゲームを進める者
や、どうしてもお笑いやシモネタに走る者、物凄いパワープレイを信条としており、
超高レベルキャラしか受け付けない者、話が下手で何を言ってるのか状況がつかめない
者、アンフェアな判断を下す者などなど、マスターによってその日一日が楽しいものに
なるのか、はたまた絶望的な時間を過ごす拷問に変わるのかわからない。

プレイヤーにも罠がある。同席するプレイヤーが完全な人格である保証などどこにも
ない。日本の「ファンタジーエリート」には変わり者が多く、また大抵が「オタク」で
あるので、異常な言動の者や「テーブルトーク」なのに発言が稀な者、用意してきた
キャラクター用紙に凶悪なマジックアイテムをサラっと書きこんである者、妙にムカ
つく言動を繰り返して他のプレイヤーやマスターとケンカになる者など、困った人に
ことかかない。

それでもなんとか、常識的なマスターの元にほどほどの個性を持ったプレイヤーが
揃って、比較的マトモなプレイを楽しめることもある。悲観はよくない。


pcfxは何度もこういったコンベンションに参加したが、おかしなマスターや変わった
プレイヤーとの同席も、それはそれで楽しんだものだ。2~3度プレイ中にプレイヤー
キャラが死亡した事について怒鳴りあいのケンカはあったが、それはそれで面白い
イベントとして眺めて過ごした。
こういったコンベンションならではの雰囲気や、「ファンタジーエリート」たちの
饗宴は実に興味深く、またエキサイティングなものだ。同人誌即売会などでも同じような
「エリート」がエキセントリックな活躍を見せることがある。しかし大半は常識的な
人々であり大事には至らない。この手の集まりはだいたい同じだ。


高校生くらいの頃に始めて、その頃に出会った友人たちと、中年になった今でも年に
数回ほどのペースで「D&D」をプレイしている。マスターはガンヲタの友人だ。
「そろそろやりたいな」と思った頃に電話で呼びかけ、プレイヤーの一人の友人宅に
週末などに集まり、同居している家族に恐らく奇異の目で見られながらプレイする。
いい中年の男達が、深夜に麻雀や飲み会ならともかく、ジュースや菓子を持って
サイコロを振り、キャラクターシートに嬉々としてアニメ絵調の女の子の絵を描き
込んでいる。変態と言わざるをえない。
何十年も繰り返しマスターに「もっといいマジックアイテムをよこせ」と請求し、
マスターはその代わりに萌え設定なNPCの女の子を登場させて注意を反らす。
家人に何と思われようが、楽しいものは楽しいのだから仕方がない。


昔「D&D」を出版していたTSR社はもうなく、日本の代理店だった「親和」ももうない。
今は別の会社から、ルールを改訂された「D&D」が発売されている。
昔ゲームに使っていた「メタルフィギュア」も、いまではプラスチック製塗装済みの
製品になって数体セットで販売されている。さすがに四半世紀も過ぎると時代は変わる
ようだが、我々は四半世紀前から相変わらずであり、社会が期待するような大人に
なるのは来世に期待することにした。人間は高校生くらいの時の情緒のまま老いていく
ものだし、今の若い人たちも同じように中年になっていくのだから、大人に過剰な期待を
してはいけない。

「男」とはオッサンの皮を被った高校生の事をいうのだ。

名古屋あじ

2011年02月28日 | たべもの のみもの
「名古屋めしはマズい」ともっぱらの評判だ。味覚などはおおかた相対的な物なので、
「絶対味覚」を信望する気にはなれない。視覚と比較すれば味覚などはセンサーの量が
少なすぎ、また度々嗅覚と未分化に語られ、多分に主観的過ぎて議論に値しない。
感想や信望として味覚を語るのは楽しいが、自身の感覚を絶対値と盲信した拒絶と嫌悪の
味覚の表明をする事からは何ら得る情報がない。しかしそれは誰しも表明したくなる
普遍的な心情であり、「あれはマズい、これはマズい」と語りたくなるのが人情だ。
人情の否定は大局を見誤る原因となるので、「名古屋めしはマズい」と堂々と言うべき
だとpcfxは考える。


pcfxは博多生まれの名古屋暮らしなので生粋の名古屋人ではない。しかし名古屋に住んで
もう長いので準名古屋人と言えるかもしれない。
博多から名古屋に移り住んだ頃、名古屋の料理はひと通り食べた。意外においしかった
のは「味噌かつ」「味噌やっこ」「味噌煮込みうどん」などの味噌料理。味噌煮込み
うどんの麺の固さには多少戸惑った。名古屋では当たり前とされる「赤だし」という
赤味噌の味噌汁もすぐ好きになったが、「ひつまぶし」や「きしめん」は特においしい
とは感じなかった。うな重やうどんとの大きな違いを感じない。「あんかけスパゲティ」
は今では大好物だが、初めて食べた時は「ミートソース」と色味が似ていたため、その
つもりで食べてギャップに苦しんだ。名古屋の喫茶店などで「ミートソーススパゲティ」
を注文すると、ステーキなどのように鉄板の上に乗った状態で提供される場合がある。
スパゲティの下に卵が敷いてあり、麺は油で炒めてある。「洋食」というカテゴリに
入れられているのだろうか。

今では全国に名の広まった「マウンテン」という喫茶店があり、昔から「罰ゲーム」や
「怖いもの見たさ」や「過食者御用達」的な使われ方をしてきた店だ。基本的に量が
多く、普通の店の倍量がこの店の「並」だ。大盛りを注文する際は「それはいいけど
残すなよ」という念押しがある。また「甘口イチゴスパ」に代表される珍奇な味付けと、
食後の皿に残る大量の油が客を食の臨界点に誘う。だからといって大勢で一皿という
行儀の悪い注文は受け付けておらず、一人一品が掟である。では飲み物だけ、とコーヒー
フロートなど注文しようものなら、ビールジョッキにガムシロ入りアイスコーヒーが
満タンであり、その上にてんこ盛られたバニラアイスがいつまで食べてもなくならず、
コーヒーを飲むまでに相当の発掘作業が義務付けられる。
これは「名古屋めし」ではないし「名物」でもないただの「変わった店」だが、この店を
目的に遠方から来客がくる。話のネタには最適の店だ。


名古屋人はなんでも味噌をかけるというが、それは正解でもあり間違いともいえる。
毎食何にでも味噌をかけるのではなく、「たまに味噌カツなどを食べたくなる」のだ。
その一方で、「つけてみそかけてみそ」という調味料商品がスーパーで売っており、
家庭料理で「一味足りないな」と感じた時に味噌をかけるのだ。毎食ではない。
名古屋人だってソースのかかったカツを食べたくなる時はあるし、目玉焼きには
ソースか醤油がマヨネーズかオーロラソースかでモメごとに発展することはある。つまり
「味噌」は調味料の選択の一つであり、味の幅が拡がっているだけなのだ。もちろん
問答無用で味噌味が突き出される事もあるが、それはそれとして試しに食べてみては
どうか。

味噌の好みは愛知県でも東部の三河地方に強く、尾張ではそれほどでもない。三河に
行くとそこかしこに「五平餅」の看板を見かける。尾張は「みたらしだんご」が優勢だ。
五平餅はワリバシのような木の棒に餅米を小判状にとりつけ、味噌をつけた食べ物だ。
三河はどこへ行っても五平餅五平餅で、「五平餅しかないんかい!」とツッコミを
いれたくなるほどの五平餅空間だ。甘くて赤い豆味噌から身を守る術はない。

ちなみにpcfxは、目玉焼きに何をかけるかは固定されていない。醤油もソースもマヨも
オーロラも味噌も気分次第で、たまに塩だけ、塩コショウだけという選択もある。
焼き加減にもこだわりはなく、レアもミディアムレアもウェルダンもアリだし、片面も
両面も思いのままだ。シングルでもダブルでもいい。そんなことは焼き始めてから
考えればよく、食べる直前に決定すればよいのだ。卵料理はもっと自由なものだった
筈だ。いっそ焼かずにフライでも茹でてもいい。日本なら生という選択肢すらある。
そこまで言うなら鶏の卵でなくともよい。手に入るのなら鴨でもアヒルでもダチョウでも
構わないし、爬虫類も鳥とさほど変わりはない。実際海外で何度も食べたし、どれも
うまかった。



名古屋には九州出身者が多くおり、その九州人の好みが名古屋の食文化に影響を与えて
いるケースも多い。名古屋と九州の繋がりは古く、信長の死後、織田に仕えていた家臣
の一部はそのまま秀吉に仕え、文禄の役(俗に朝鮮出兵)の際に九州まで連れてこられた
兵や九州に領地を与えられた武将が、そのまま九州に住み着いた。そのせいで今でも
名古屋に親戚を持つ九州人が多いのだ。pcfxもそのような家系であり、博多と名古屋や
岐阜に縁者がいる。名古屋に引っ越したのもその縁あってのことだ。

また、新しいところでは戦後に集団就職で名古屋に出てきてそのまま住み着いた人や、
最近ではトヨタの工場などに就職を求めた九州人も多い。中間の大阪をすっ飛ばして
名古屋にくるのも昔からの地縁があるからだ。一方、ここ最近の不況になるまで名古屋で
東北人を見ることは稀で、東北の影響を受けることはほとんどない。彼らは皆東京で
止まってしまう。多くの名古屋人にとって東北は縁のない地域であり、生の東北なまり
を聞くこともない。pcfxも東京で電車に乗った際に聞こえてくる東北訛りや、旅行会社の
車内広告に「東北の旅」という言葉を見ると、遠い所に来たんだな、という感慨がある。
「東北の旅」は名古屋の日常では目にしない。

名古屋で一番有名なラーメンチェーンに「すがきや」がある。スーパーなどのテナント
で入ってる店が多く価格も安いので、名古屋人の子供はこのラーメンを食べて育つ。
この「すがきや」のラーメンのスープは「和風とんこつ」と言われており、豚骨をベース
に魚介のうまみを織り込んでいる。また「すがきや」以外にも昔から豚骨ラーメン店が
多く、醤油ラーメン専門店を探す方が苦労する。いかに九州の味が浸透しているかが
わかる。「手羽先」は九州でいうところの「かしわ」であり、あまり身がない部位で
安いことから庶民に親しまれたものだ。九州は煮込み、名古屋では揚げるのが一般的だ。
アメリカの黒人がフライドチキンを食べる心情に似ている哀愁の料理だ。



一方、名古屋名物といわれている「きしめん」は絶滅が危惧されているほど食べられて
いない。きしめん文化を保存しようとする人たちが活動するほど、名古屋人のきしめん
離れが加速している。まあうどんと似たようなもので単に麺が平べったいだけだし、
うどんの麺のような食べ応えに欠けるのだから、あえて食べようとする人が少なくなる
のも仕方がない。大抵の人が飲食店のメニューにあってもスルーしてしまう悲しい郷土
料理だ。

最後に「エビフリャー」だが、これが名古屋名物だという理屈もわからなければ、名古屋
人が好きな理由もよくわからない。「特にエビフライが好き」という名古屋人に会った
事がない。また本気で「エビフリャー」と呼んでる人も見たことがない。名古屋人は
冗談で半ば自虐的に「エビフリャー」と呼ぶが、元々そうは発音しない。


「名古屋叩き」の起源は「タモリ」が昔ラジオで名古屋の悪口を散々に吹聴した事から
始まっており、「巨大な田舎」「飯がまずい」「なんでも味噌」「エビフリャー」など
は全てはタモリの軽口によるものだ。名古屋は特に特徴のない地方都市で情報が薄い
ため、他地域の人の名古屋のイメージはタモリの言葉で固まったようだ。

しかしタモリが言っていることはウソばかりではない。博多から移り住んだpcfxも同感
に思う事がたくさんある。名古屋という町の「人情」が割と「特殊」なのは紛れも
ない事実であり、他地域の人から見れば受け入れがたいものはたくさんある。そして
現在もpcfxは名古屋が特に好きだったり愛着があったりはない。先祖の因縁でたまたま
住んでいるだけの地方都市であり、名古屋で事足りたので東京に出てないだけといった
理由だけで住んでいる。だから名古屋や愛知県を叩かれても全くの他人ごとに聞こえ
るし、「ああ、まったくその通りだよなあ」と同意してしまう事がままある。

でもまあ、悪いことばかりではない。東京にも大阪にもすぐ行けるし、街もまあそこそこ
の規模なので不便もないし、物価もそれなりだし、住宅事情も悪くない。景気も他所に
比べればマシなほうだ。派手な観光名所はないが歴史的におもしろい立地だから色々
飽きない。そんな普通の生活ができる特徴の少ない都市が名古屋だ。そして「特殊な
人情」も信長の時代から歴史が作ってきたもので、決して「人がいい」とは言えないが、
それにも歴史的な意味合いがある事を考えると感慨深いものがある。

「名古屋めし叩き」や「名古屋人叩き」は正当な評価だと思うが、まあそう言わずに
とりあえずもう少し冷静に観察してみてはどうか。「名古屋がそうなった理由」を
pcfxはあえて詳しく書かないが、調べると「叩くより面白い事」が名古屋にはたくさん
埋まっているのだ。でもpcfxの「長続きしている親しい友人」は皆他の都道府県出身者
だったりする。意図して選んだわけではないが、真実はこの辺にあるのではないか。

PC-98と同級生

2011年02月28日 | げーむ
pcfxはずっとPC-98を良いマシンだと思えなかった。日電さんが嫌いだったわけでは
ないが、なんかOA用コンピュータで無理やり遊ぶというイメージがPC-80時代から
あったのと、マイナー好きの魂がトップシェアのパソコンをどこかで許せなかったのが
あったのだろう。もちろん偏見なのはわかっているし、マジョリティが羨ましくも
あった。

職場のバイト君が学校を卒業して引っ越す際に、荷物になるのでほとんど使って
なかったPC-98RSを買ってくれないかと頼んできた。その時代DTMはマックの独壇場
だったがPC-98にもプロ用環境が揃いつつあった。音楽知人の皆はマックユーザー
ばかりで、電話で話せばマックを買え、会って話せばマックを買えと連呼し、自宅に
来てpcfxのアミーガを見てはプアマンズマックと罵った。自分がいかにマックに金を
つぎ込んでいるかを語り、メモリをどれだけ買い足しているかを延々と語り出す。
もうそれがウザくて仕方がなく、まるであの宗教みたいに感じていたので、マックは
買うまいと心に決めていたのだった。高くて買えなかったし。

しかしMSXのDTMはとっくに時代遅れとなっており、アミーガではデータの互換性や
製作環境が国内と違いすぎる点などで限界を感じていた。そこにこの話である。悪くは
ないな、とpcfxはバイト君のパソコンを買い取る事にした。

98を買ったらソフトを買わねばならない。大須(名古屋のアキバ)に向かい、何本かの
DTMソフトと大戦略4を購入した。そして、マイナー機ばかり使ってきたpcfxが、98を
欲しかったもう一つの理由、「エロゲー」を買いに、ソレ系統のショップに初めて
足を踏み入れた。88からのユーザーにはメーカーや傾向などがわかるのだろうが、pcfxは
何を買っていいやらわからず、結局買わずに帰宅したのだった。
それでもエロゲーはやりたい。そこで何を選ぶべきか友人に相談すると、どうやらエルフ
というソフト会社のゲームが人気があるらしい。最新流行は「同級生」というタイトル
だそうな。
その情報を元に、また大須のエロゲショップに繰り出したpcfxは、「同級生」の
パッケージを見つけ出して、多少抵抗はあったもののレジに持っていった。


その結果、DTMソフトはロクに使わず、また大戦略もロクにやらないまま、猿のように
「同級生」をやりまくる事になってしまった。あまりに面白く、「これ別にエロじゃ
なくてもよくね?」というほどシナリオが秀逸だった。もちろんエロがなければ物足り
ないのだが、破天荒な主人公が一日中街をフラフラして色んな女にちょっかいを出して
回るという、そのゲームシステムにすっかり脳を持って行かれたのだった。

当時の98はHDDが標準搭載ではなく、またHDDは非常に高価なものだった。なので皆は
フロッピーディスクを入れ替え入れ替えしながらゲームの中断に耐え忍ぶのが普通
だった。「同級生」も10枚くらいあるフロッピーを入れ替えながら遊ぶものだった。
なにしろ頻繁な入れ替えなものだから、左手の指によく使うディスクを4枚はさみ、
右手でキーボードを操作するという涙ぐましいスタイルを余儀なくされる。また5インチ
のフロッピーディスクは非常にかさばる上傷つきやすく、扱いにも苦労した。

pcfxは同級生のキャラの中では「美沙」がお気に入りであり、他のキャラを攻略中でも
ついつい美沙ルートに入り込んで、結局美沙ENDばかり迎えてしまう毎日を送って
いた。pcfxのガンヲタの友人が「キミキス」をプレイする際に、毎回猿のように
「まお姉ちゃん」ばかり攻略していた気持ちもわからなくはない。男とはそういうもの
である。


同級生はその後、色数が改善されたDOS/V版が発売されたので買い、HDDインスコ
バージョンが出たのでHDDとセットで買い、CD-ROMバージョンが出ればやはり買った。
他のエロゲは一回やったらそれまでなのだが、同級生は何度やっても面白い。
未だに時折やっている。

同級生には続編もある。「同級生2」だ。ゲームシステムは継承しているがキャラは
大きく入れ替わった。「同級生」は夏休みの話だったが、「同級生2」は冬休みの
話になっている。だから「同級生」はカラッとした雰囲気の夏の開放感に満ちているが、
「同級生2」は冬の憂鬱さがにじみ出ている。それがまた特別な情緒となり脳に刻み
込まれる事になってしまう。

「同級生2」はPC-FXにも移植された。PC-FX版はなんとフルボイスである。これだけを
やりたいがためにPC-FXを購入してしまった人も大勢いることだろう。「同級生2」が
好きな方なら是非フルボイスのPC-FX版をプレイするべきであり、今すぐネットや
中古ショップを探しまわってPC-FX本体と「同級生2」を同時購入するべきである。
そこには至高の喜びが待っており、必ずや「買ってよかったPC-FX」と歓喜に打ち震える
事になる。心配しなくてもPC-FX版は18禁仕様だ。
え?SFC版?SS版?PS版?エロ省略ですよ。いいんですかそれで。

現実的な現在のソフト入手方法で合理的なのはエルフHPのダウンロード販売で購入
する方法だろう。価格もまあ安いし、支払い方法も豊富で買いやすい。どうしても
今この場で欲しい人はクレカやSUICAやEdyを用意してググろう。

ともかく「唯」の「お兄ちゃん!」を肉声で聞くことがこのゲームのコア部分にあたる
のは間違いないと思われる。それだけはどうしても外せない。

しかしそれぞれのバージョンには独自の特別キャラが登場したり、特別シナリオが
追加されたりしているので、ファンなら全部プレイしたほうがいい。いやするべきだ。
いやしなくてはならない。「今更・・・」などという他人を意識した時系列が重要
だろうか?大事なのは自分が「やったか、やらなかったか」のみだ。主体的に生きよう。

但しスーファミ版はニンテンドーパワー書き換えなので、現在購入は絶望的だ。しかし
データの残っているSFメモリがオークションに出ているかもしれない。他に入手する
方法はあるがここでは書けない。アレをアレすれば遊べる。

pcfxは「同級生2」では洋子がお気に入りであり、何度もアレされる事になった。


「同級生3」はまだ発売されていない。いろいろとエルフの中の人の大人の都合により、
「作品」はあるようなのだが「発売」はされていない。その内に大人の都合がついて
発売されるかもしれないので、大人になりきれていない中年の我々は体育座りなどして
待つのが吉だといえる。まあ世の中お金だよね。やっぱ。なんだかんだいっても。


「下級生」とか「下級生2」というシリーズもあるが、上記の大人の都合によって
同級生の続編が作れなくなったので出たソフトだという噂の可能性が高いかもしれない
っぽい的な感じの複雑なものだ。
ゲームシステムなどがいろいろと違うように作られたので、同級生の続編とは言い難い。
しかし細部には同級生テイストが散見されるので、雰囲気は似ている。独特の面白さも
あるがここでは紹介しない。


pcfxは「同級生」の音楽が非常に気に入っている。特に忘れられないのはやはりマップ
移動中のBGMだ。あの「南国ハッピー」な感じの曲。それぞれのハードや時代が違うと
イメージも違うので表現し辛いが、一般的な構成と時代背景である「PC-98に廉価な
FM音源ボード搭載でPSG混在」のイメージで思い起こしてもらうと都合が良い。
ブラス系楽器のメロディーで、マップを走りまわる際に流れるBGMだ。移動の際、
プレイヤーキャラは両手を激しく振って走りまわるので、pcfxの仲間内ではこの曲を
聞くと皆、示し合わせたかのように両手をバタバタさせる。そして近くの民家の
ドアホンを鳴らしたくなる衝動を抑える。押したところで出てくるのはどうせオバサン
で、通報されるのが関の山だからやらない。


なんにしろ、「同級生」は夏の躁と冬の鬱が織り成す甘酸っぱい青春のゲームであり、
エロゲと一括りにするにはあまりに切ない恋の物語だ。国産マシン文化の産物であり、
エルフとテクノロジーとオタの幻想によって紡ぎだされた日本固有の文学がそこに
あった。

モノポリーとか

2011年02月28日 | げーむ
モノポリーの面白さは「詐欺」にある。他のプレイヤーを騙す演技力や交渉力が勝敗の
ほぼ全てを決する。もちろん運もあるが、他人の運を横取りするのが醍醐味のゲームとも
いえる。例えゲームにでも「騙し」に罪悪感を感じる人や、交渉がヘタな人はモノポリー
を好まない。だから真っ正直でシャイな人には向いてないゲームである。ということは、
モノポリーが好きな人というのは「わるいやつ」だと言えよう。

もちろん、単なる悪人もダメだ。見かけ上は「紳士」でなくてはならず、良い人に見え
れば見えるほど「詐欺」成功の可能性が増大する。モノポリーの上級者はもれなく
良い人を演じ、「もしかしたらこっちが騙せるんじゃないか」という隙を見せている。

モノポリーをプレイして面白い人というのは、交渉を拒絶せずにやんわりと断ったり、
他の提案でケムに巻く事ができる人、また土地を専有する前と後で性格が180度変わる
ような演技力を持った人だ。だからモノポリーのベストプレイヤーとは、「性格の悪い
役者」だと言える。
またモノポリーをプレイする人で厄介なのは、一切の交渉を断固として受け付けない人、
交渉に応じないと不貞腐れる人、自分が負ける事を楽しめない人だ。


モノポリーは資本主義のゲームであり、先に専有する優位を認めるゲームだ。本来、土地
は誰のものでもない。「ここは俺が最初に見つけたから俺のだ」と強引に所有権を宣言
するという不条理を認めた上で、そいつをだまくらかして土地を巻き上げるという、
盗賊と詐欺師の騙し合いのゲームだ。

これが共産主義であれば、バンカーが突然ゲーム終了を宣言し、プレイヤーから全ての
資産を押収するという結末を迎える。またその時点でプレイヤー全員がバンカーの
役割を分担しながらプレイするという不可思議なゲームになる。これはこれで面白そう
だが、ルールがよくわからない。

また高度資本主義モノポリーになると、プレイヤーの最初の資本金がまちまちになり、
最後の所持金が次回プレイ時に世襲される事になる。その際に相続税を引かれる。
土地の価格は一定でなく、あるターンで流行が変わって土地価格が変動する。せっかく
ボードウォークを専有してホテルを建てていても、ターンが変わると地価が下落する。
ホテルを建てれば安泰というわけでもなく、経営が悪ければ不良物件になって大損する。
また区画整理でバンカーが土地を強引に買取る事もできる上、法律の改正で二束三文に
されてしまう場合もある。更に所有する建物に不良入居者が入り家賃収入が得られな
かったり焼失したりする。建築法の改正で建て替え費用を払わされる。

バンカーも油断できない。他のバンカーとの競争があり、地域で業績を上げないと
他のバンカーに銀行経営権を吸収されてしまう。プレイヤーへの融資も堅実に行い、
プレイヤーが適当なプレイで破産して不良債権化しないように経営に口を挟む必要が
生じる。海外プレイヤーのバンカーとの競争もあり、彼らがバンカー統合して競争力を
つけると、こちらも合併してメガバンクを形成し、国際金融の世界で日夜戦わなければ
ならない。ハゲタカファンドから資産を守るべく、地域バンカーの総元締めは為替にも
介入しなくてはならず、抜け駆けするバンカーを牽制しながら政治にも牽制する。

プレイヤーのやることが多岐にわたり過ぎ、一人ではプレイしきれなくなるので従業員を
雇う必要に迫られる。資産管理や経理・税務を任せるが従業員プレイヤーが失敗したり
バカだったり金を持ち逃げしたりしないように管理しなければならない。そのため
定期的に会議を開き、現状報告をさせたり成果報告をさせ、賃金を抑えつつ叱咤激励を
せねばならない。


そんな面倒くさいモノポリーなどやりたくはないが、実際に国や銀行や経営者はこの
ゲームに夢中であり、選りすぐられた「性格の悪い役者」たちが日夜プレイに没頭
しているのだ。物好きもいるものである。



ところでモノポリーはゲーム機でもプレイできる。ボードゲームはどうしてもバンカー
役が一人必要になりゲームから疎外されるが、ゲーム機ならコンピュータがやって
くれる。全員プレイヤーで遊べるわけだ。また相手がいないぼっちの人でも安心だ。
なんとプレイヤーまでコンピュータが参加してくれるのだ。

モノポリーは多くのゲーム機やパソコンのソフトが作られており、ネットで対戦できる
ものもある。色々をプレイしてきたが、その中でも特にオススメなのがスーパー
ファミコン版の「モノポリー2」だ。昔のソフトなので画質などは現在の物と比較には
ならないが、非常によくできたゲームに仕上がっており、今やっても楽しい。モノポリー
未経験の人でも細かなチュートリアルが充実しており、モノポリーの歴史なども
語られるので安心だ。むしろこれを最初にやるべきだとも言える。

モノポリー大会が開催されているリゾート地の専用ホテルが会場だ。そこには世界中から
プレイヤーが集合しており、レベルごとに部屋が別れている。ゲームに勝つとポイントが
与えられ、それに応じた相手と戦うことができるようになっている。コンピュータの
プレイヤーは数多くおり、それぞれに個性的なプレイスタイルがある。また多人数で
プレイする事もできる。ポイントが少なかったり足りなくなったらカジノで稼ぐ事も
可能で、いくつかのミニゲームを搭載している。

一人でプレイする場合、どうしても難易度順にプレイするという必要性から、ダイス目
はある程度操作されている。だから完全にフェアというわけではないが、人間だけで
プレイすればフェアなプレイとなる。また高難易度なキャラでも、相手の癖や性格を
知ると攻略しやすくなる。例えば鉄道を優先したがるキャラや、ダイスを振る前には
絶対に交渉に応じないキャラなどだ。非常に多彩で飽きさせない。

ルールもエディット可能であり、公式ルールにも対応している。


当時高価だったスーファミソフトも今では中古で安く売っているので、見つけたら購入
してプレイしてみてはいかがだろうか。モノポリー上級者にも、やったことがないが
興味はあったという人にも楽しめる名作だ。資本主義の犬となって存分に搾取を楽しむ
のも、ゲームの上なら迷惑にならない。


テクノ世代

2011年02月27日 | おんがく
テクノという音楽の定義は他人に任せるとして、pcfxはまぎれもなくテクノ世代を生きて
きた。現在でもテクノというジャンルは健在なのだろうが、それはもう終わったものだと
考える。懐古趣味のリバイバルを延々と続けているに過ぎない。また、現在のテクノ
っぽい音楽を無理やりテクノと呼んで、新たなジャンルを確立できていないあたりに
パワー不足を感じる。

子供の頃、テレビやラジオから聞いたこともない音が流れてきた。電子音を使った音楽
だ。そのSFチックな音に脳をどうにかされた子供たちは、こぞって「YMO」のレコードを
買い漁る事になる。その頃子供が聞いていた音楽といえば歌謡曲だ。歌謡曲にも電子音は
使われていたが、電子音をメインにして作られた歌のない曲という、当時の感覚では
奇天烈な音楽に魅せられてオカしくなった子供が大量発生する。

多くの人に最初に聞こえてきたテクノは「ライディーン」ではないだろうか。小学校の
給食時間にスピーカーからやおら聞こえきたライディーンに腰を抜かすほどの衝撃を
受けた人も多かろう。慌てて「あの曲なに?」と食いつき、当時流行り始めたラジカセで
録音して聞き惚れる。そしてYMOの名前を知るのだ。レコード屋に行くとライディーンの
シングルがあり、小遣いを捻出する。A面の「ライディーン」ばかり何度も聞き、やっと
B面の曲を聞いてみる。「コズミック・サーフィン」もイイ!!なんじゃこりゃあああ、
と座り小便を漏らす勢いで聞く。

多少の差はあれ、だいたいこんな感じの体験を多くの少年たちがしている中、次々と
レコードが発売されていく。それに伴い、他の音楽でも電子音が多用されるように
なっていく。YMOは知らなくても、イモ欽トリオのハイスクールララバイなら知っている
少女たちも、知らず知らずの内にテクノポップに侵食されていく。また、アニメの歌
にも使用され、その象徴が「うる星やつら」だ。このアニメがヒットした理由に、
オープニング・エンディング・作中効果音が電子音満載だった事が含まれると考える。

少年たちにニキビが出揃った頃、突如YMOは散開する。まだまだYMOの時代は続くと
思っていた少年たちはその突然のニュースに、世界の終わりを感じたほどショックを
受けた。いかに「君に胸キュン」でYMOを見限りそうになっていたとはいえ、それは
聞くべき音楽の喪失であり、教祖の死だった。
しかしその頃には「シンセサイザー」という機械は一般化してありふれたものになり
つつあり、新しいものに貪欲な少年たちがやっと手にする頃には、何か物足りない物に
感じるようになっていた。


通夜のような日々を送っていると、散開したYMOのメンバーがソロでレコードを出し
はじめた。恐る恐る買ってみる。と、そこには更なる新時代が待っていたのだ。
坂本龍一の「エスペラント」「未来派野郎」、細野晴臣の「S-F-X」など、サンプラーを
多用した音楽が、枯れ切った少年の心に再び水をたたえた。
今でこそサンプラーなどと改めて呼ばないほどに一般化したPCM音源だが、当時、圧倒的
なコラージュパワーを音楽に呼び込んだ革命的な楽器だった。これらコラージュ音も
電子音と同様に、少年の脳に直接電極を差し込んで電撃を食らわせるくらいのショックを
与えた。このサンプラーとデジタルシンセを組み合わせて音を作るタイプの新しい
シンセサイザーが普及し、この時から現在に至るまでシンセサイザーの仕組みは基本的に
変わっていない。電子音楽器の時代は止まったまま20年ほど経過し、そこに初音ミクが
現れた。

失われた20年の間、小室哲哉とかユーロビートとかヒップホップとかラップとかがあった
が、それらを他所にゲームミュージックが独自の進化を遂げていた。ゲーム基板や
パソコン、ゲーム機に搭載されていたシンセサイザーは普及版であり、最先端のシンセ
の音質には到底叶う物ではなかったが、ゲーム機コストの上限という意味では最先端
だった。常に技術と共にあるのがテクノだとpcfxは考える。だからこそYM2151チップが
愛おしいのだ。

「テクノ」の定義は他人に任せるが、pcfxの考える「テクノ」はその時々の最先端技術
が作る新しい楽器音を全面に押し出した音楽だ。その楽器が一般化された頃の物はもう
テクノではない。それには別の価値が生まれている。

現在pcfxが「テクノ」と認識するものは「初音ミク」をはじめとするボーカロイドだ。
ゲーム機の音源と同じく、「コストの上限」という制限の中で作られ、ネットの力を
借りて、他人同士の作品が混ざり合いながら拡散していく。この仕組そのものが
「テクノ」であり、今の時代の少年たちが腰を抜かして座り小便をジョジョジョと
漏らすべき変革なのだ。そして中年になったpcfxも若いフリをして一緒にジョジョジョと
漏らしたい。老人になるころに登場する変革には、自然に失禁できるだろう。

○本の住人4巻

2011年02月26日 | マンガとかアニメとかほんとか
午後に佐川のおじさんが○本の住人4巻を持ってきた。学研のおばさんを待つように
「まだかなまだかな」と待っていたpcfxに佐川のおじさんは、

「えっと、今回もアマゾンからです」

と「も」を付けて渡してくれた。余計なお世話である。ていうか佐川はいつになったら
時間帯指定できるようになるのか。それとなぜいつもトイレに入っている時とか風呂に
入ってる時とかちょっとコンビニ行ってる時にくるのだろう。狙ってるのか。

だいぶ前、まだアマゾン通販が始まって間もない頃だったが、以前配達担当だった
おばさんが、

「なんか最近アマゾンから荷物がよくあるんだけど、衛生とか大丈夫なの?」

と真顔で言われた事があった。最初は何を言ってるのかわからなかったが、どうやら
アマゾン川流域のどこからからワニ革とか未開民族の民芸品か何かを買う人が増えたと
思っていたらしい。それができるにはもうちょっと時間がかかりそうだ。



さて○本の住人4巻だ。kashmir氏の本は表紙から油断がならないので外して広げる。
ナオコサン3巻の表紙に共通しているのか、なにやら音楽チックだ。ガスコンロに
接続されたヘッドフォンで何かを聞いているのりこ。このガスコンロには電源ボタンや
やたらレンジの幅が広いボリュームのツマミなどが並んでいる。調理用シーケンサー
なのだろうか。一体どんな音が聞こえるのか気になってしょうがない。
ランドセルからはみ出すオタマと半分見えるガスコンロでのりこの立場を表しながら、
折り返しをめくると音楽機器にしか見えなくなる。


ちーちゃんがなんだか太い。太く見えるだけなのだろうか。頭にレコードプレイヤーを
乗せている。レコードのジャケットには謎の動物。ちーちゃんのスニーカーの靴紐が、
「ああ、ちーちゃんも女の子の自覚あるんだな」と安心させる。

折り返しでさなえがウエイトレスの服を着ているが、スカートの柄が眠気を誘う。斬新な
デザインだ。kashmir氏以外に考えつきそうもない。


もう表紙を眺めただけで¥819が安すぎると思えてくる。作者も凄いが装丁の人も
すごい。さすがよつばのひとだ。

巻頭カラーのイラストもいい。最近kashmir氏は「水没画」ばかり描いているように
思える。また写真との合成にも、何かを悟ったように凝っているようだ。
背景画について、リアルであればいいというものでなく、リアルに描くなら写真で
いいじゃんという正論と、せっかく絵を描くならばリアルそのままを描いても仕方が
ないじゃんという脚色が綯い交ぜになり、またデジタル作画をするのなら既存の表現
方法にこだわる必要はなくね?という挑戦であり、でもやっぱ温故知新じゃね?という
回帰が全部そこにあるような気がしてならない。

巻頭カラーはサービス満点である。コミックス3巻連続発売で大変だったように思うが、
kashmir氏のサービスは留まるところを知らない。細かく書き込み、ネタも満載だ。
もうここで大爆笑であり、本編を読む前に深い満足感に浸れる。


例によって話の中身については書かない。kashmir氏のマンガは買って読むべきであり、
その価値は十分にあるどころか、安すぎると感じる事になるだろう。
面白かった部分を、ネタバレにならない程度に羅列するに留める。


怒られてから・・・

弊社まで取りに来ていただいた方には・・・

Huカードのタイトル

デニスホッパー とあと二つ

トムとベッキー 1年後

ララララ毛ガニー ブシャア

クモヒトデとテヅルモヅル

千葉県一周

金髪 よし!

わしの子じゃないな!

外資系企業をたおす!!

一部の多脚多関節好き

「トレーダー分岐点」

「ナニィ」

ガンジャより効く薬を!!!

400%

犯罪ゼロ社会の

ブルー!貴様まさか副収入が!?

あと一発で即死する人!!!




ラストの話でちょっとみかが好きになった。

以前から気になっていた事がある。pcfxに百合星人ナオコサンを勧めてくれたのは
在日イギリス人のおっさんなのだが、他にも英語圏から来た在日外国人の知人に
kashmir氏のマンガが異常にウケがいい。マンガの中にも随所に英語が使われ、この
○本の住人4巻にも英語教育の話がある。kashmir氏の経歴は知らないが、何か英語や
英語圏と特別な親和性があるのかも知れない。ちなみに、今インドにいる友人の話では、
なぜかチェンナイ市内の本屋に百合星人ナオコサン(日本版)があったらしい。店員に
聞くと、他の日本書入荷の際に「タイトルのミステイク」で入ってきたとのこと。
やはり作者名に関係するのだろうか。インドも英語圏ではある。

日本の差別

2011年02月25日 | そのた
ネットで日本文化が広がっているためか、ここのところ日本語が達者な外人が増えてきて
いるようだ。そして日本に憧れてやってくる外人も増えつつあるようだ。

この「外人」という言葉は、当然ながら「外国人」の呼称として使われているが、主に
白人に向けられている。アジア人や黒人も外人だが、その場合は「国名+人」と呼ぶ。
白人だけひとまとめに「外人」と呼んでも違和感がない。だから「白人=外人」となる。

また日本人が「外人」と呼ぶ場合、その対象は一時的に関わりを持つ「客人」として
扱われる。「仲間」ではなく「お客さん」だ。外から来て外へ帰っていく人だ。日本は
島国なので、陸続きでダラダラ気軽に出入りするのではなく、飛行機や船に乗るイベント
を介して特別な出入りをする。そこが大きな線引きになっている。

大航海時代や産業革命が白人の国で先に起こった為、先行者の優位性として白人有利な
世界になっているが、日本においても白人は優位なのか、日本を訪れた白人はそれを
体験する事になる。

人間というものは、自然状態で奔放に育てるとサルと変わらない行動をとる。知的な
社会生活を行う為に矯正されて「人間」になっている。この矯正の仕方が各国で違う。

日本人の社会規範は長い歴史と共に磨かれ、国際比較しても優秀な位置にある。その厳格
な社会規範を維持し、そのために矯正されたのが「日本人」だ。この矯正に失敗した者は
疎外され、「馬鹿」「無礼者」「ヤクザ」「不良」「軟弱者」「池沼」などのレッテルを
貼られて、「差別されて当然の者」として「いじめ」という差別を受けることになる。

日本式の矯正をされていない外人もこの疎外を受ける。但しそこには「日本に慣れてない
から仕方がない」という猶予が含まれる。日本に生まれ、長年日本で暮らしていながら
日本式矯正に失敗した者には厳しいが、来日して間がない外国人には「外人」という
身分を与えて処分を保留する。

「日本式の矯正でなくてもいいじゃないか、母国でキチンと躾は受けている」というのが
「外人」の反応だろう。しかしレベルを理解していない。日本の矯正は他国よりも
あまりにレベルが高いのだ。日本人でさえちょっと油断した家庭だと脱落するくらいだ。
キリスト教圏であれば、全員が修道士のような矯正を受けているようなレベルだ。

日本に定住する外国人は自然にこれを理解し、特に障害がない限りは、言語の習得と
共に矯正を受けていく。障害があるとすればそれは反日思想だが、日本が嫌いなのに
日本に定住するというのもおかしな話だ。それは極限られた国の人だけであり、日本
定住は法律で義務付けられていない。いつでも出ていけるのだ。いつでも出ていけるのに
出て行かず、住みにくい嫌いだ差別だと喚く人々は、日本人の価値観からすれば最低の
人間である。だからあの国の人々は嫌われ、馬鹿にされるのだ。


歴史的に優位な人種である白人は、自分が差別する側であることはあっても、「白人」
だからといって自分が差別される経験はない。例え大航海も産業革命も無縁だった
ような国の白人であっても、白人であるだけで世界的にステータスが保護される。
ところが日本ではそのステータスは通用しないばかりか、「ああ外人ね」の一言で
客人扱いされ、社会的な扱いの「処分を保留」されるという立場に陥る。これは
未開民族の集落にうっかり迷い込んで捕らえられ、半裸の原住民から珍しい動物を見る
ように扱われるのとは違う。明らかに日本人に上から見られ、野蛮な民族として扱われて
いるのだ。そして日本人の上から目線に憤慨し反論するが、冷静に考えると日本人の
方が優れていると思えてくる。

なんにせよ日本式矯正を受けないといつまでたっても「外人」という保留された身分
から脱却できないことを悟る。白人としての初めての人種的敗北であり、自分を無条件に
優位的立場と認識していた事と、日本人から受けている自分の扱いを相対化して反論も
できなくなる。優位な人種が優先されるなら、それは日本人が優先になると認めて
しまう事になるのだ。
これは白人に限らず、自分の民族が優秀だと思い込んでいる全ての外人に当てはまる。


さてここまで読んで、「少々日本を過信しすぎでは」「日本が何でも正しいと思うな」
「差別を正当化するな」「何を根拠に優れていると?」「やっぱり日本が悪いニダ」
などの感想をお持ちの方も多いと思うが、実は上記の全ては、日本に長く住んでいる
イギリス人の友人の発言をまとめたものだ。彼も白人である。



日本は差別が少ないという人がおり、日本人は差別的だという人がいる。それはどちらも
間違っており、「人類の差別の頂点にいる」というのが正解なのではないだろうか。
しかしその差別は何か特別な対象を設定したものではなく、「客観的に優れたもの」と
「それ以外」を分ける差別だ。日本は昔から、優れた物や人を取り入れてきた。自分たち
のやり方が時流に合わないと思えば社会構造も変えてきた。

日本人に差別されたと思うなら、それは自身が「優れていない」と判断されたという事に
なる。ただでさえ自虐的で自信のない日本人に「あなたは優れてないです」と言わせる
のだから、よっぽどの人なのかもしれない。

pcfxも外国で差別を受けた経験は何度もあるが、その差別意識の根源は生活の不満か
無知によるものだ。日本にもそのような差別はあるし、優秀な人ばかりではない。
差別は人類が持つ本能であり、誰にでもある感情だ。あるものを無いと言い張っても
何も解決しない。その差別を有意義な物に変換した結果が「優れた物」と「それ以外」
に分けるという日本式矯正ではないのかと考える。

それが正しいか間違っているのかは現時点では誰も判断できまい。しかしそれ以上の
差別の取扱い方を知る人もいないのだ。対案があるなら主張すればよいだけの話だ。

あ、「人類は皆平等」とかのファンタジー話はラノベにでも書いてください。

ガンダムとか

2011年02月25日 | マンガとかアニメとかほんとか
pcfxの友人の一人がガンヲタだ。一緒にホビーショップに入ると、彼はガンプラのブース
で固まる。比喩でなく本当に「固まる」のだ。
この時に話しかけると「ちょっと今忙しい」などと言って見向きもしない。彼はもう
いい年の社会人であり、ガンプラの一つや二つ、躊躇なく買えるだけの経済力はある。
それなのにブツブツと独り言を言いながらガンプラの箱を取り出しては眺め、また棚に
戻す。それを1時間以上繰り返す。彼が一旦このようになると一切のコミュニケーション
が遮断されてしまうため、pcfxは他の売り場を眺めて回る事になる。

おそらく彼のこの行動は、子供の頃に少ない小遣いを握り締めてオモチャ屋に通った際に
固定化されたものだと思われる。よく考えて買わないと、次の小遣いの支給まで後悔する
事になる。だから慎重に慎重に選ぶのだ。これは彼の人生のスタイルとして定着し、
経済力がついても無意識にこの様式を踏襲する。ガンダム信仰の祭事であり、伝統行事
なのだ。


pcfxもガンダムは好きだ。Zまではちゃんと見ていたが、ZZがあまりにも酷かったので
それきりキチンと見ていない。友人の勧めで他のシリーズはいくらか見たが、入れ込む
程ではなかった。少年時代にプラモもいくつか作ったが、ガンダムよりも他に帝国海軍の
艦船やら宇宙戦艦ヤマトやらの方にプラモとしての魅力を感じていた。

ガンダムよりも「イデオン」や「ダグラム」の方が好きだった。ガンダムもそれなりに
面白かったが、より大人っぽい雰囲気のイデオンは、オープニング曲はともかくとして、
エンディング曲に感動した。ロボットのかっこよさに関してはあまり興味を持たず、
イデオンのストーリーや人物のドラマに関心があった。

pcfxと友人の違いは、そこで決定的に分かれる。あくまでロボットのかっこよさを追求
し、ガンダムで固着した友人と、より深い人間関係やストーリーにシフトしたpcfx。
どちらが正しいとかそういう話ではなく、追い求める鳥が違ったのだ。

イデオンといえば「ロボットがださい」というイメージがあるだろう。せっかくガンダム
でデザインの革命があったのに、イデオンそのものはまた超合金ロボのデザインに逆戻り
しており、敵のロボットに至ってはイカタコのようなフォルムである。しかしイデオン
はそこを見るのではない。登場人物の心の葛藤だけを追うのだ。

主人公とされるアフロヘアのコスモはともかく、ソロシップ船長のベスの心の動きが
実質的な主人公であり、異星人と恋仲になってストーリーが進行していく。劇場版の
後編である「発動篇」のラストシーンは衝撃的であり、哲学的な宇宙論を語る。また
股間のモザイクも少年少女に深い感銘を与えた。

イデオンに関しては一切の玩具を買わなかった。欲しくなる物がなかった。少年pcfx
にも、「イデオンはそういうものじゃない」という事がわかっていた。きっと子供には
わからない大人の事情でメカのデザインがあのようになったのだろうと想像できた。


イデオンは音楽も素晴らしい。「コスモスに君と」と「セーリング・フライ」は感動的
で、pcfxは今でもよく聞いている。共にすぎやまこういち氏の曲だ。




「ダグラム」も大好きだった。しかし地味な展開と子供には難解な政治的なストーリーが
災いしたのか、「ダグラムファン」という人に会ったことがない。ダグラムには美少女や
美女が(ほとんど)登場しない。ヒロインですら頬がこけており不健康そうな顔だ。

ロボットのデザインや運用は、いままでより現実的に扱われている。「ダグラム」も
完全無敵の無敵ロボなどではなく、むしろ欠点だらけだ。ガンダムよりも時代的に
身近なリアルさをもっており、兵器という存在感が強い。敵ロボットには名称と型番が
ついており、よりリアルさを増す。ここまでリアルなアニメは見たことなかった。



これらの点から、pcfxはロボットアニメを「ロボットアニメ」として見ていなかったと
いうことがわかった。ガンダムはシャアの復讐物語であり、イデオンはベスの愛と宇宙
の物語であり、ダグラムは政治と戦争の物語として見ていた。ロボットなどはついでで
あり、あってもなくてもよかったのかも知れない。

pcfxがイデオンやダグラムの話をすると、ガンヲタ友人は「へぇ~」と、明らかに関心が
ないという態度を込める。彼にとってはロボットのかっこよさが全てであり、超合金ロボ
の先祖帰りイデオンや、リアル過ぎる軍用兵器であるダグラムは「カッチョワルイ」もの
でしかないようだ。

しかしそんな彼も、ストーリーを全く見てないわけではない。「ガンダム世界」の中では
ちゃんと人物の葛藤も感じているし、政治的な流れも追っている。バカではないのだ。

それらを総合して考えると、ガンヲタな彼は「ガンダム教」の信者であり、ガンダム世界
の中だけを信じているのだ。他宗教であるイデオンやダグラムには冷淡で、異端という
偏見を向ける。一方pcfxは無宗教であり、「マイナー好き」という性向はあるものの、
ひとつの作品に主軸を置くことはない。

彼のように、「ガンダムに魂を縛られた人々」が大勢いるからこそ、ガンダム人気は
シリーズ化を通して今日まで続いているのだろうし、プラモも売れ続けている。しかし
玩具を売る奴隷としてガンダム宗教を推進した「わるいかいしゃ」が、多くの人々を
ブランドに縛り付けて他の面白い可能性を潰していることをpcfxは残念に思っている。

しかしガンヲタにとってそれは「余計なお世話」であり、「わるいかいしゃ」にして
みれば「商売にケチつけんな」といいたいだろう。競争に勝ったのはガンダムだと
わかっているが、もうシャアもアムロも出てこないアニメがガンダムであり続ける事に
疑問を感じる。

pcfxがガンダムシリーズで一番好きなのは∀ガンダムだ。何回見てもおもしろい。

マイナーまんが

2011年02月25日 | マンガとかアニメとかほんとか
pcfxが子供の頃、時代は宇宙戦艦ヤマトで銀河鉄道999だった。松本メーターが
かっこよさの全てであり、松本女キャラに「そのうちわかるわ、そのうちにね」などと
ミステリアスな事を言われてごまかされる毎日だった。

しかし一方で、まだ近所に貸本屋が一軒だけ残っていた。新しいマンガはほとんどなく、
60年代~70年代前半のマンガばかり置いてあった。読み古されてボロボロのマンガは
当時の子どもが見ても時代遅れであり、妙に暗い話が多かった気がする。当時pcfxが
住んでいた所は大学生が多かったので、貸本屋も細々と生き残っていたようだ。

貸本屋に置いてあったマンガの多くは、有名なマンガ家の絵を丸パクリしたような絵で、
例えば手塚治虫のキャラをそのまま真似して中途半端なストーリーを描いたようなものが
横行していた。少女漫画も多く、主人公が何の脈絡もなく突然バレエを習ったり、習わ
なくてもいきなり踊れたりするものばかりだった。

pcfxが「つげ義春」のマンガに出会ったのは、そういう貸本屋の片隅だった。最初に
読んだのは「紅い花」だったと思う。いろんなマンガを無断で寄せ集めて作ったような
本に載っており、印刷が酷く荒かった。おそらく雑誌をガリ版でコピーして作ったのだ
ろう。その本のタイトルも「マンガ」。適当過ぎる。

「紅い花」を読んだpcfxは、何か見てはいけないものを見たような、後ろめたい気持ちに
なったのだが、この作者がえらく気になって仕方がなかった。その後「つげ義春」という
作者名を見るたびに立ち読みし、小学3年生のpcfxは「深い・・・」などと気取りながら
感嘆し、本屋のオヤジの牽制に抗いながら読みふけった。

またこのころ、恐怖漫画ブームがあった。「楳図かずお」や「日野日出志」との
出会いだ。楳図かずおの「洗礼」を読んだpcfxは、あまりに怖かったのか、実母も
もしかしたら自分と脳を取り替える気では・・・などと妄想に明け暮れ、「ミイラ先生」
があまりに恐ろしかったため、近所の教会からシスターが出てくると一目散に逃げたり、
「へび少女」のあまりの恐怖に、ケガをしたヒザのカサブタがヘビの鱗になるのでは
ないかと震えていたりしていた。まことに微笑ましいガキである。それでも
「日野日出志」の「蔵六の奇病」を読んで、そのあまりのスプラッタな描写に吐き気を
覚えながら毎日読んだり、「つのだじろう」の「恐怖新聞」を読んで朝日新聞の配達員
の後をつけたりして楽しんでいたので、臆病なくせに怖い物が大好きだったのだろう。


80年代からマンガは「楽しいもの」「笑えるもの」ばかりになり、暗いマンガが
姿を消してしまった。pcfxも「コロコロ」から「ジャンプ」に移り、メジャーなマンガ
ばかり読むようになっていったが、以前のような満足感を得られることはなかった。
中学から高校生になるころ、また恐怖漫画ブームが来た。pcfxはそれで昔を思い出し、
またマイナーなマンガを読むようになった。「ガロ」や「アゲイン」などアングラな
雑誌を買い漁り、「蛭子能収」がお気に入りだった。その頃アングラの情報源といえば
「白夜書房」であり、マンガではないが「写真時代」のあまりのアングラさに毎月購読
していた。「吾妻ひでお」のロリマンガを読みふけり、「蛭児神建」の「プチパンドラ」
のアングラさに陶酔していた。

その後ゲームばかりしてマンガをあまり読まなくなり、バブルで賑わう街に繰り出して
ディスコに通ったり、エスニックブームで海外旅行に行ったりと、リア充生活を満喫
していた。そんな折、「根本敬」のマンガに出会う。それまでに「恐怖マンガ」
「アングラマンガ」という道を辿ったpcfxにとって、「根本敬」に行き着くのは予定調和
だった。根本敬の画風といえばキチガイでスプラッタで暴力だ。特にキチガイの部分に
シンパシーを感じ、「因果」世界に没頭していく。


こういう趣味はあまり理解されないので、話の合う人とリアルで出会った事がない。
pcfxに影響されて読んだ友人もいたが、彼らは耐性がないのか皆オカしくなって
去っていった。やはりこういう趣味は幼少の頃からの積み重ねで耐性ができていくもの
なのだろう。

30代後半から読むべきマンガと出会えず、もっぱらネットでそのような欲求を満たして
いた。そして久しぶりに読むべきマンガに出会った。それが「kashmir」の「百合星人
ナオコサン」だった。これについては別記したので詳細は割愛するが、そのマニアックな
ネタの数々は、pcfxのこのような歴史に一致するものが多く、特に「吾妻ひでお」の
作風に似た懐かしさを感じる。そして同時に「時代をブチ壊して切り開く人」のオーラが
感じられるのだ。是非こんな閉塞的な時代など作品でブチ壊してもらいたい。それだけの
パワーと衝動を持った人は稀だから、kashmir氏に期待するなというほうが無理だ。

ライトオタクやゆとりの時代であり、ビジネスとして考えるならば飽和状態のマンガ
だが、そこには本当に面白い物など残らない。糖尿病のように、ゆるやかに腐って
死んでいくのも一興だが、kashmir氏はそれに抗い、「本物」を描く可能性を持つ。



「ひろもりしのぶ」のイラストに、このようなセリフの魔女がいた。

「本当にいやらしいものを見たくはないか?」

そう、我々はいつも、本物を求めているのだ。

魔法少女

2011年02月24日 | マンガとかアニメとかほんとか
魔法少女アニメの定義とはなんだろうか。wikiに載っているが、それはそれとして、
pcfxの考えでは「ララベルまで」が魔法少女だということだ。

現実の物理法則をまだ詳しく学んでない年齢の子供が、大人が作った物理法則の常識外の
部分で楽しむのが「魔法」であり、その使用者が人類で最も科学的でない思考をする
「少女」である。魔法を使うにあたって、常識や科学的知識は違和感を産む。
だからこその「魔法少女」なのであり、「魔法少年」や「魔法熟女」では違和感がある
のだ。魔法は科学で論理的に説明できないかわりに、神秘や感情という彼岸の制御が
ある。体に神秘を宿し、感情原理主義で行動する少女にしか扱えないのが魔法だ。

魔法少女は少女が見る事を前提にしているが、おかしなことに男の子が喜ぶお色気シーン
がたびたび混入する。無論、領域を犯して魔法少女アニメを見る男の子へのサービス
なのだが、同時に「少女の体には神秘の価値が隠されている」という情報を少女に
与える。「女の子は人前で裸になってはいけない」と親から教えられ、なんとなく守って
きたが理由までは理解してなかった。しかし魔法少女がたびたび服が破れたりお風呂を
覗かれたりして「イヤーン」な時、それを見ている男どもはガン見して興奮している。
男の子が予定の行動を中断してまで凝視するほどの価値が、少女の裸体にあるらしい。

男の子の行動原理は全て科学的探求に帰着するものだが、それすらも中断させてしまうと
いうことは、男の価値観の最上位に位置するのが少女の裸だという結論に達する。そして
同じ少女である自分にもその機能があるのではないかと考える。そういえば男の子が
スカートめくりとかしてるな、という実在のケースが想起され、確信に変わる。

しかし同時にもう一つの恐ろしい現実にも気がつく。スカートめくりなどエッチな
いたずらは、「される子」と「されない子」の2種類いるのだ。明確な区分けは
わからないが、「されない子」はハッキリしている。「ブス」だ。ということは「ブス」
には「体の神秘」という価値はないし、魔法も使えない事になる。それどころか、
理不尽なことに人間としての価値すら「ブス」というレッテルによって認められなく
なる。これは少女にとって物凄い不安と恐怖になる。

この圧倒的な差別は理不尽であり、論理的に考えても対策は出ない。もし自分が「ブス」
側の人間だった場合を恐れ、「美」という物を貪欲に求めようとするようになる。
どうやったら美を手に入れられるのか。

魔法少女アニメに答えを求めると、なにやら呪文を唱えて「変身」している。なんとか
して自分も変身できないものか。魔法のアイテムは身の回りにないようだ。では
どうするか。「変身」後に魔法少女はキラキラした服を着ている。少し大人っぽく
なっているようだ。
こうして少女は、魔法少女になる代わりに、服と化粧という変身に偏執するように
なっていく。「ブス」の魔女裁判を避けるためだ。「服変えて化粧したくらいでは
変わらない」という冷静な意見に耳をふさぐため、論理を避けて現実を拒む。そんな
残酷な現実なんか嫌いだ。現実をねじ曲げてでも「ブス」を認めない。
感情原理主義者の誕生である。

少女にこのような葛藤を生じさせ、対策を示俊するのが正しい「魔法少女」であるが、
内面の教育も同時になければならない。ララベルまでは「教養」や「人情」なども
女性の魅力として重要であるというスタンスを保っている。

しかしミンキーモモからは、明らかに対象が子供だけに向けられたものでは無くなって
いる。変身後にいきなり成熟し大人になるという飛躍は、少女そのものの価値を認めない
事になってしまう。「早くビッチ化しろ」と言わんばかりの展開だ。教養も人情も
置いてきぼりであり、単なる「変身少女アニメ」になっていった。そこにもう魔法が
魔法である必要もなくなった。

ちょうどその頃、ロリコンブームが始まった。ミンキーモモもそのブームの象徴として
語られる事が多いが、それは全くの逆だ。時代に少女幻想を壊されたと感じた者たちが
起こした反乱がロリコンブームだった。日本から「少女の神秘」が失われるという予感
が反乱に火をつけ、「どうか神秘のままでいてください」という願いだったのだ。



魔法少女たちはもれなく魔女裁判にかけられ、判決は有罪。「魔法少女」は「変身少女」
に改造され、魔法も否定されていった。一般化された変身少女は、おもちゃを売るための
道具として存命し、悪徳企業の100年奴隷に成り下がった。もう魔法少女はいないのだ。

覇邪の封印

2011年02月24日 | げーむ
覇邪の封印はいろんなハードに移植されたので、それぞれのハードでの特色からBGMや
システムや画面のイメージも違う。

pcfxが使ったハードはセガのマスターシステムだったので、その路線で書くことになる。

マスターシステムだったので、覇邪の封印のBGMといえばFM音源サウンドだった。ドラム
パートもFM音源を使うため、スネア音が独特の軽い音になる。他の音源を使った場合、
ノイズ音のみ、ADPCMの曇ったサンプリング音、もっと本格的なサンプリング音などになる
のだが、FM音源に頼った場合だけ、この軽い音を使うことになる。だからゲーム音楽以外
で使われる事はないし、古すぎたり新しすぎたりするゲームにも使われることがない。
そういう時代背景独特な音なのだ。この音に昔を思い出す人も多かろう。

覇邪の封印の曲ではブラス系の音が多く使われる。FM音源が得意とする音であり、手軽に
重厚感を演出できる便利な音だ。矩形波時代には表現できなかった音でもあるので、
FM音源が使えるとなるやいなや、ここぞとばかりに使いまくるクリエイターも多かった。
pcfxもその一人で、「今までPSGの寂しい音しか使えなかったんだから、もうブラスだよ
ストリングスだよ!ギターも使いたいし、あディストーションギターもいいよね!」と
ばかりに、曲全体の整合性などよりも「自分が使いたい音をたくさん使う」という、
足し算の感覚でFM音源を使い倒した。

また、まだFM音源を使い慣れておらず、うまくイメージ通りの音を作れなかった人も
多かった時代だ。それもそのはずで、理系脳じゃないとキャリアだかアルゴリズムだか
いう用語は難しく、一体どうやったら変調結果をイメージできるのか想像がつかない。
FM音源シンセを買ったものの使い方がわからず、仕方ないのでプリセット音だけ使うか、
という諸兄も多かろう。後にアナログシンセ的にエディットできるデバイスが登場
するまで、FM音源はフーリエ解析的理系脳にしか使えないシロモノだった。DX-7登場
当時は、マジでグラフ用紙に波形書いて計算してる人もたくさんいたのだった。


プレイヤーがゲームを始めると、城のBGMを聞くことになる。ハードなストーリーの
昔話を聞かされているような緊張感と懐古感を感じる。しかし重厚すぎず、リズムは
8ビートであり全体的にロックだ。

破邪の封印のフィールドBGMは、荒涼たる土地を旅する雰囲気に満ちている。マップで
見える表示は少なく、バンドルされた不織布マップにメタルフィギュアを置いて現在
位置の確認をしないと見失う。そんな迷子の不安感も見事に表現したBGMとして、
多くのプレイヤーの心をトラウマと共につかんだ名曲である。

フィールドを歩いていると敵に遭遇する。しかし敵だけではなく商人などの場合もある。
商人と戦うこともできるが、常に誰かに監視されているらしく自分の評判はガタ落ち
になってしまう。BGMはハードロックだ。

さんざん迷子になってやっと到着する町はパラダイスだ。エレキギターの音が楽園を
表し、続くブラスオブリガートが人々の賑わいを表す、単純な短い曲だ。pcfxは
この短い曲が大好きであり、あまりに好きすぎて着メロに使い続けているくらいだ。
自分自身、なんでこの曲がこれほど好きなのか長年疑問だったが、先日古い友人と
話していた折にふと思い出した。pcfxは覇邪の封印を長時間ずっと連続でプレイして
いた。徹夜でやってた日も珍しくなかった。フィールドでは緊張しているのだが町に
入ると気が抜けるので眠気に負けてしまう。その結果、数時間ずっと町のBGMを聞き
ながら寝ているのだ。

そう、覇邪の封印の町のBGMはpcfxの子守唄として作用していたのだ。それを思い出して
少なからず衝撃だったが、好きなことには変りない。




ゲームはその後も淡々と進んでいくのだが、途中で鍛冶屋を雇って冒険に連れ出す事が
できるようになる。この鍛冶屋がまた凄い印象的な人物だ。なにしろ、

「12000ゴルダくれるんなら かみさんとわかれて あんたについていくよ」

と言い放つのだ。

このセリフ、普通に考えれば「12000ゴルダくれるんなら あんたについていくよ」で
何事もなく済む話だ。そこに「かみさんとわかれて」などという裏事情を差し挟む
事によって、この鍛冶屋の人物像や性格や性癖が、にわかに厚みをもって迫ってくる。

元々夫婦仲は良好ではなかったのだろう。そうでなければ簡単にそう言えないはずだ。
鍛冶屋が家の炉や鉄床を捨てて旅に出るのだから、強い意志で言っていると思われる。
プレイヤー一行を見て自分も冒険に出たくなったのか、はたまたどうしても大金が
必要だったのかはわからない。もしかするとプレイヤーに男惚れし、長年秘めていた
性癖が開花したのかも知れない。腐女子なら「あんたについていくよ」の一言で妄想
が広がり、同人誌の一冊でも作れそうなシーンである。



このゲームに登場するモンスターの名前にはひと癖あり、異次元獣と地元獣では名前
の雰囲気が全く違う。マスターシステム版には漢字表記がないので、「ホウテンゲキ」
のようにカタカナで表示される。どうも東洋くさい響きだ。
気になって辞典で調べると、地元獣の多くはどうやら中国の古典や物語から取った名前
のようだった。対して異次元獣はクトゥルフ神話などから取ったようだ。



操作性の悪さなど、非常に忍耐力が必要なゲームであり、クリアには相当の苦労が
つきまとうゲームだが、非常にオリジナリティに溢れている。町で居眠りし、FM音源を
子守唄にイホウンデーやホウテンゲキに襲われる夢を見ながら、江戸っ子な鍛冶屋に
「あんたについていくよ・・・」と囁かれる、魅惑で禁断のゲームだが、もう一度
やってみてはいかがか。


ちょっかい衝動

2011年02月23日 | そのた
道端でネコに出会うと、口から妙な音をさせながら手をひらひらさせてしまう。これは
人類に共通した衝動らしく、どこの国へ行っても同様の行動を取る人間がいる。
ネコや動物が嫌いな人はしないだろうが、それは嫌悪や恐怖によって行動が抑圧されて
いるだけだ。ネコが嫌いではないが、さほど気にならない人もいる。関心の優先順位の
上位に動物が登録されてないタイプだ。関心の上位に登録されているものが辺りにない時
には、このタイプもネコに興味を持つ。

野良猫は猜疑心が強いので簡単には寄ってこない。それは常識なので皆わかっている。
それでも「ちっ、ちっ、ちっ」などど謎の音を出してネコの注意を引き、指先を波打たせ
るように突き出す。目線をできるだけネコの高さに近づけながら、ゆっくり寄っていく。

このような人間の行動を、ネコがどう思っているのかはわからない。最初は警戒している
ネコでも、辛抱強く同じ行動を繰り返していると、そのうちに近くに寄ってくる。

この行動から、人間が呼んでいるのは理解しているようだ。そして行動は意味不明だが、
少なくとも危害を加える様子はないと判断している。しかしそれだけでは寄っていく理由
にならない。何かを期待できない限り、ネコが自分から寄っていく行動を取る必要は
ない。食べ物を持っている匂いはしないし、それを自分に与える理由を思いつかない。
顔見知りでもない人間がどんな理由で呼んでいるのか、論理的な結論には至らない。

論理や状況判断に迷ったネコは本能メモリにアクセスする。すると、遺伝子プリセット
メモリの奥底に、先祖が人間と暮らしていた事、人間はたぶん仲間だということ、なぜか
自分たちと遊びたがり、なぜかエサをくれる存在だというデータが引き出される。

野良猫が長い逡巡の後に寄ってくるのは、このような心的処理が行われた末であり、
人間に擦り寄ると「なにかいい事が起こる可能性が高い」という判断に至ったと考える
ことができる。

で、人間に近づいてみると、頭や顎や背中をなでてくる。もうやたらになでまくるのだ。
この「撫でる」という行為は、猿系以外の動物には難しい。大抵の動物の愛情表現は
「舐める」だ。だからいきなり「撫でる」という行為をしてくる人間の行動は、理解
しにくいので戸惑う。しかし痛いわけでもなく、どちらかというと心地よい感覚なので、
しばらく身を任せて様子を見てみる。

ネコ自身、興味をひく小さい動物にちょっかいを出すことは珍しくない。その際、手を
出して突っついてみたり、転がしてみたりする。そのような経験から、この大きな二足
歩行動物も、自分に興味を持ってつつき回すつもりなのだなと思う一方、それは遊ぼう
という誘惑なのだと理解する。観察してみると、この大きな動物は意外にどんくさい。
俊敏さは自分にはるかに劣るようだ。もし調子にのって危害を加えようとするなら、
いくらでも反撃できるという確信を持つ。さあ、やれるならやってみろ。

そういう心理状態なのかどうかは想像だが、初対面時のネコは大抵同じような反応だ。
哺乳類共通のプロコトルがあるように思える。



人間がちょっかいを出したくなるのは、犬・ハムスター・ウサギなどにも共通する。
しかし犬は人に慣れすぎ、寄ってくる可能性が高すぎて手懐ける達成感が少ない。
ハムスターは小さすぎ、行動パターンが単純すぎる。ウサギもかわいいがどうしても
「おいしそう」という感情が芽生えてくる。これらの動物には「自我」が足りない。
「自分の都合」で生きているという知能に乏しく、その主体性のなさが物足りない。

そこへいくとネコは自己都合で生きており、人間側がいろんな交渉を仕掛ける余地が
ある。つまり交渉が上手ければネコを攻略できる醍醐味や達成感があるのだ。



そのネコよりも達成感や醍醐味があるのが人間の赤ん坊や子供だ。大抵の者が赤ん坊を
見ると、その状況が許される限りにおいてちょっかいを出したくなる。

pcfxは、スーパーのレジなどで並んでいるときに、前にいる母親がおんぶした赤ん坊が
こちらを向いていると、「あやさなければ」という強い衝動にかられる。しかし周囲は
衆人環視であり、全くの他人である変なオヤジが手を出せば怪しまれる。そこで無言で
赤ん坊に「変な顔を見せる」という、消極的かつ変態的な行動に出てしまうのだ。
成功率は半々で、喜んで笑う赤ん坊もいれば、警戒した目で見つめ続ける赤子もいる。

最悪なのは、変な顔をしたまさにその時、母親が振り向いて目があってしまう時だ。
大抵は「ああ、赤ん坊を相手にしてたのね」という理解を瞬時に得られるが、人によって
は「ひっ!」と驚かれてしまい、それが赤ん坊に向けられたものだという事に理解が
及ぶまでに少々の気まずい時間を要する。

そんなリスクをおかしてでも、赤ん坊を見ると「あやさなければ!」という使命感が
何度でもこみあげ、スーパーのレジで変な顔をし続ける自分がいるのだ。



幼稚園児くらいまでの子供にも、似たような衝動を感じる。電車の中などで走りまわって
いる子供が近くに来て、pcfxをじっと見ている時など、「菓子など持ってなかったか」と
自分のバッグの中身をスキャンしてしまう。しかしこういうご時世のため、例え持って
いても子供に渡すわけにはいかない。そのくらいでペド犯罪者として逮捕されることは
ないと思うが、その菓子の成分がどうとか、アトピーがどうとか、知らない人に物を
もらったらどうとか、そういう厄介な拒否を受けたくないからだ。

そのような行為が許される国へいくと、pcfxは子供に菓子を与え、ヒザに抱え、絵を
書いたりおもちゃで遊んだりして、際限のない子供の無限要求に全て答える。そうする
と親にも感謝され、子供も満足し、自分のちょっかい衝動も満たされるのだ。誰も損を
しないすばらしい環境だ。


人間の子供も小動物も、このようにちょっかいを出したくなる衝動を喚起させる。
しかし人間の子供はもう阻害されており、最近は外をフラフラしてる飼い犬も
見かけない。そういう心寂しい世の中で、唯一道端にいるヒマそうな高等哺乳類が
野良猫だ。

今日も駐輪場でpcfxのバイクのシートに我が物顔で寝そべっている。こちらを見ているが
降りようとする気配はない。ゆっくり近づくと徐々に体勢を変えるが、バイクにキーを
差し込んでもまだ降りない。明らかにどこまで許されるのか試している。セルモーターを
回してエンジンがかかると驚いて飛び降りるが、近くでまだこちらを見ている。

本当はそのネコを手懐けていつまでも遊びたいが、用事があるから出かけるのだ。
ネコは自分の寝床を奪って走り去るpcfxを見送っている。寝床が発進するってどういう
気持ちなんだろう、と想像しながら、まだネコに未練を感じているpcfxだった。

水と日本人

2011年02月23日 | ドライブとかりょこうとか
資本主義が未発達な大昔から、日本人はマネーロンダリングを民間レベルで行ってきた。

西洋資本主義ではマネーロンダリングを金融業者を媒介して行うのが常であるが、日本人
は神様を媒介して行う。

マネーロンダリングは「資金浄化」と訳され、資金の出処がチョーヤバイ系だった場合に
一旦投資して回収したり、銀行に預けてから別の口座に振り込んだりして、出処をわから
なくしてしまう裏テクだ。

それに対して日本人は「弁天様の湧き水で銭を洗うとお金が増える」というスタイルの
「資金浄化」を平安の時代から行なってきた。「銭洗い弁天」である。

「なんじゃそれ、ぜんぜんマネロンとちがうくね?」という感想だろうか。しかし通貨を
洗浄してキレイにすることで、通貨が大事だという認識を再確認し、大切に使おうとする
意識から節約をするようになり、その結果物価が最適化され、生産のコストダウンや
流通の簡素化や販売方式の効率化が生まる。最終的に財産が増える事になるのだ。

また、貨幣は流通している間に汚れる。そのうちに真っ黒になり、真贋を見分けるのが
困難になってしまう。だからといって一旦全ての貨幣を政府が回収してクリーニングする
のは無理だし、やったとしても手間もコストもかかる。しかしほっておくと真贋を見分け
られなくなって偽金が横行し、国の経済が疲弊してしまう。
「だったら民間人に持ってる銭を自分で洗わせるようにすればよくね?」という発想が
「銭洗弁天」だ。

マネーロンダリングは違法な資金を流通させ、その結果本人だけは儲かるが、経済全体は
不健康な状態に陥る。儲かるなら何をやっても良いという風潮が生まれ、風俗は乱れ、
治安も悪くなる。社会コストが増大し国家経済が疲弊してしまう。

どちらの「資金浄化」の概念が優れているかは一目瞭然だ。


日本で流通しているお札はキレイだ。しわくちゃな紙幣などここ数十年みたことない。
ところが経済が未発達な国へいけばいくほど、お札は汚れておりシワシワ。落書きされ
たり穴を空けられていたり破れていたり。コインも同様に汚い。

ピン札が「正常」の日本のお札は、銭洗弁天の「資金浄化」の概念が、未だ民間レベル
で健在な証拠だ。「キレイなお金が好き」という事は、実は非常に大事な事なんじゃ
ないだろうか。



ドライブしながら日本のアチコチにある「銭洗弁天」を見て、そんな事を考えていると、
今度は「不動の滝」が見えてくる。もう「滝」といえば「不動」なんじゃないかと
思うほど、「不動の滝」はどこにでもある。

日本の地形は多くが山だ。そして日本は地震国だ。この二つを合わせると、「地滑り」
という災害が多い事になる。

不動の滝の云われは数あるが、「山が崩れませんように」という願いが込められている
ものもあろう。「山が崩れる」事を「滝が流れる」事に置き換えて、身代わりになって
もらっているのかもしれない。「身代わり不動」という不動さんもある。

実際に、山が崩れるのは降雨による地盤の弱化が原因であり、山の地中にうまく水が
流れる経路が十分にあれば弱化しにくい。その経路の終点が滝であり、地下水がドバドバ
落ちてくるのだ。しかし地下の水路網が細い場合、山の地表面に水が飽和して軟弱化し、
重力で流れ落ちてしまう。滝があるのは山が健康な証拠だ。

また、滝はどんなチャチなものであっても人の目を惹きつける。山肌からチョロチョロと
染み出てる程度でも、冬場になるとそこで凍りつき、大きな氷塊になって存在を誇示
する。何も無い山の中の観光スポットとしても滝は重宝され、地域の象徴にされてきた。
壮大な滝になると大勢の観光客があつまり、常温で液体の一酸化二水素が重力で自由落下
する様を見物しに、えらい遠くから化石燃料を消費してまでやってくる。
そして滝を見て「なんだかわかんないけど、ありがたいものであるなあ」と感じるのだ。


そんな事を思いながら車に乗っていると、今度はダムが見えてくる。全国どこにでも
ダムがあり、大量の水をこれでもかと貯めている。時には村や町をまるごと沈めてでも
ダムを作る。ダムの水面近くに、昔使われていた道路が地上から水中に向かって伸びて
いたり、地上だった所から生えた樹木のてっぺんが水中から見えていたりする。ダムに
沈んだ村を見て、全然縁のなかったその他人の住居地に身勝手な郷愁を感じたりする。
そして何でも沈める行政に理不尽な怒りを覚えつつ、ダム施設の売店で名物を食べる。
帰る頃には郷愁や怒りは飽きや満腹感にすり替えられており、「でもまあ水不足はイヤ
だし、しょうがないよね」という思考停止で幕を閉じるのだ。

たいていのダムの周囲には道路が一周しており、時折そこに車が止まっている。夏なら
魚とったりキャンプしたり水遊びしたりという想像がつくが、ダムってそんな事して
いい場所だっけ?という疑問がよぎる。しかし真冬の深夜にも無人の車が止まっており、
一体なにをしてるのか想像すらつかない。


そういう疑問を巡らせながら車を走らせていると、温泉地に到着する。鄙びた温泉宿
などではなく、道の駅に隣接したガラス張りでピカピカの温泉浴場だ。何の用意もして
ないが、タオルもシャンプーも下着も売っているからそのまま入れる。全身を泡だらけ
にしたらお湯でドバっと流し、たくさんある浴槽のひとつにつかる。熱い風呂、ぬるい
風呂、薬湯、電気風呂、そして露天風呂もある。頭にタオルを乗せて外をながめている
と、川が流れていたり鉄道が走っていたり。

湯上りに自販機で買ったコーヒー牛乳など飲みつつ、

「ああああ、やっぱ日本っていいわ」

などとニワカにナショナリストを気取る。日本人は水でジャブジャブなのが大好きな
国民であり、平野の少ない山だらけで自然災害だらけの土地に住むリスクを負う代償
として、豊富な水と入浴エンターテイメントを得た。

ヨーロッパなどでは水を使う事に罪悪感すら感じることが時折あるが、日本ではそんな
罪悪感も水に流せる。垢をためて聖人ぶるよりも、禊で神へ礼を表す。体臭を隠す事に
神経を使うよりも、行水して体表から臭いの元を取り去る。

「浄化」の概念の違いは経済だけに留まらない。そんな空想をしながら車は家路を走る。
「隠す文化」と「流す文化」。pcfxはやはり日本のほうが好きだ。

すねえもんドライブ

2011年02月22日 | ドライブとかりょこうとか
pcfxは歴史的人物では織田信長が好きだ。信長公記などの書物や山岡荘八の小説を読んで
昔から「信長sugeeeeeeee」と感じて育ってきた。

pcfxが住む愛知県は、信長・秀吉・家康の三英傑が出た土地だが、信長と秀吉は尾張
(愛知県西部)であり、家康は三河(愛知県東部)という違いがある。同じ愛知県でも
尾張と三河では方言も人情も違う。昔の力関係も違った。尾張は平野部が多く、三河は
山間部が多い。愛知県の人口も尾張に集中しており、三河は比較的少ない。

またこの三人の歴史はそれぞれ切り離して考えるのが難しいほど密接に関係している。
秀吉は信長の家臣であり、家康は信長と同盟関係を続けてきた。天下を取った取らないは
結果の話であり、日本の統一は3人の力を合わせて行われた。

そんな地域に住んでいるため、pcfxと友人のドライブに、この3人の足跡や合戦場を巡る
事がしばしばある。最近は特に長篠の戦い(1575年・現在の新城市)に関わる歴史に
焦点を置き、それに関わる人物の足跡を探訪している。

長篠の戦いは信長・家康連合軍と武田信玄の息子・勝頼(かつより)のガチバトル
であり、連合軍の大規模な鉄砲隊によって武田騎馬軍団が壊滅したという日本史上に
残る戦いだったといわれている。



いろんな大人の事情があり、長篠城という城に勝頼軍団が責めてきた。この勝頼は、
よく「バ勝頼」と呼ばれる。父親の武田信玄が偉大すぎて比べられたり、この合戦で
多くの死傷者を出したことからそう呼ばれるのだが、他の説では意外に優秀な武将で
あったとも言われている。しかしこの戦で負けたことにより、勝ち組地域の愛知県民
からはバカにされる傾向がある。

勝頼は長篠城を包囲し、食料庫に火をかけて兵糧攻め作戦に出た。ごはんの残りが
一気に減った長篠城内では、家康から城を託された奥平貞能(おくだいらさだよし)
がおなかをペコペコにして困っていた。

「超ハラ減ったし~、籠城続けらんないじゃん。超ヤベエし~、誰か援軍呼んできて」
「あ~でも~、囲まれてるから外出るの無理じゃね?」
「堀を潜水して抜ければいけなくね?だれか泳ぎ超うまいやついね~の?」

そこで選ばれたのが「鳥居強右衛門」(とりいすねえもん)。泳ぎが得意という理由で、
囲まれた長篠城を泳いで脱出し、目立つ街道を避けて山の中を通って岡崎の家康に援軍
要請をしにいくというインポッシブルなミッションを与えられた。

見張りを掻い潜って堀を抜け、そのまま北上して山の中に入る。荒原(あわら)という
集落にたどり着き、そこの民家から馬を借りて山道を西へ進んだというエピソードも
伝えられている。

この荒原地区、現在でも民家がある集落なんだが、南から直接車で入れる道路がない
ために、今ここへ行くのは大変である。pcfxたちは強右衛門の足跡を追ってこの荒原集落
に行った。延々と山道を走る、どこからも隔絶された行き止まりの地域であり、2つに
別れた集落の両方に一軒ずつしか現在住人が住んでいない。まさに隠れ里といった風情で
ある。この内の南側の集落の一軒が、強右衛門に馬を貸したという言い伝えが残る家だ。
その話の裏を取るために、そこに住む方に聞いてみた。しかし遠くから大昔に嫁に来た
おばあさんは言い伝えを知らないという。確証はとれなかった。

強右衛門は馬で走れるところは馬で飛ばし、その近辺で長篠城からも見える雁峰山に
上り、のろしを上げて「無事脱出」の合図を送ったとされている。その現場は今でも
残っていて、登ることができる。道路沿いにあるため、登山口までは車で行ける。

そこからほぼ真西の方向に岡崎城があり、深夜に城を出た強右衛門は翌日までに野を超え
山を超え、家康の元にたどり着く。物凄い強行軍だ。
家康に長篠城の現状を報告した強右衛門は、岡崎城に留まることなくすぐに元きた道を
引き返し、同じ雁峰山でもう一度「報告完了」のろしをあげる。そこで待っていれば
ほどなく信長・家康連合軍の強力な軍隊が到着し決着がつくものだったが、強右衛門は
更に長篠城に戻ろうと、また包囲された危険な道を進んだ。もうちょっとという所で、
強右衛門は武田軍に捕まってしまった。
援軍を呼ばれたと悟った勝頼は、援軍が来る前に長篠城を落としたかったので、強右衛門
を飴と鞭で懐柔して「援軍は来ない」と言うようにそそのかしたが、強右衛門は
「すぐ援軍くるヨ!」と叫んだために逆さハリツケにされて殺されてしまった。

強右衛門の忠実さはその後伝説となった。当地に行くとわかるが「ハリツケにされた
強右衛門」の絵が描かれた看板が多く、土産物のデザインにも使われている。地元の酒
の名前にも強右衛門(*すねうえもん)が使われている。

長篠の戦いのエピソードでは有名な話であり、ご存知の方も多かろう。しかし実際に
強右衛門の足跡を追うと、それがいかに大変なミッションだったかが実感できる。
単なる足軽程度の身分だった鳥居家はその後奥平氏の厚遇を受けた。

あんまり強右衛門の人気が高いもんだから、JRの飯田線の駅名にも「鳥居」の名前が
使われている。一方で信玄と比べられ、強右衛門を有名人にし(強右衛門を有名にした
のは武田の家臣)、無敵の騎馬軍団を壊滅させた勝頼の不運がちょっとかわいそう
ではある。


○本の住人3巻

2011年02月22日 | マンガとかアニメとかほんとか
kashmir氏のマンガは面白い。ここまでハマったマンガ家は何年ぶりだろうか。
本来なら「kashmir先生」と呼ばなくてはならないのかもしれないが、その呼び方には
なんか抵抗があり、医者ですら「先生」と呼ぶのをためらう。pcfx的には「先生」は
教師を指す職業呼称であり、医者や作家を「先生」と呼ぶのを不自然に感じる。

医者に関しては「ドクター」と呼ぶのもどうか。博士号取得が医者の条件だというのは
わかるが、だからといって学歴呼称で呼ぶのはおかしいと感じる。だからといって病院で
「今日、山田医師はいますか?」と言うのもなんだか変だから、イヤイヤ「先生」を
つけて呼んでいる。

この医者に対してのイヤイヤ感があるので、尊敬する作家やマンガ家に対して「先生」を
つけると、pcfx的には失礼な呼び方をしているように感じてしまうのだ。

ではマンガ家に対してなんと敬称をつけて呼べばいいのか。創作している人に「記者」と
いうのも不自然だし、「筆者」では一人称になってしまう。そういうわけでマンガ家を
どう呼べば自分がしっくりくるか保留したままだから「kashmir氏」としている。または
呼び捨てにしている。

本人が見たら「失礼な!」と思われるかもしれない。しかし作風から感じる人物像から、
kashmir氏が「先生」と呼ばれないと自尊心が傷ついて不快に感じるような小さい人とは
到底思えない。彼は天才であり、関心は常に彼岸の彼方にあると思っている。

しかしまあ、もし実際に対面したらpcfxは一応「先生」と読んでしまうんだろうが。




kashmir氏のマンガの面白いところは、大きくわけて2種類ある。第一に「わかる面白さ」
第二に「わからない面白さ」だ。そしてこれが相互に交錯している点だ。

「わかる面白さ」は「わからない面白さ」の上にあり、マニアックであまり知られて
いない事、普通覚えてないような詳細な事を、読者がたまたま知っている際に、
「うわー、これわかるの自分くらいじゃねぇの?」と思わせる優越感や作者との共感で
ある。

「わからない面白さ」も「わかる面白さ」の上にある。マンガにおける状況とは、絵や
言葉による説明によって成り立っている。だから通常はわかって当然であり、作者が
説明すべき約束事だ。ところがkashmir氏の作品は時折その約束を放棄する。説明すれば
わかる事だし、それで済む話を、それで済まさない。説明しないことで作者がどんな
苦労や不利益を被ったとしても、あえて説明を省く。理解させない。

一方で「これわかるかな?」「ではこれならどうよ?」とマニア心を誑かして惹きつけて
おきながら、近づいた途端に情報をシャットアウトされる。さんざん「これは俺しか
わかんねぇかも」と思わせて持ち上げておいて、体の重心が浮ついた瞬間に急転直下、
いつの間にか倒されているのだ。持ち上げる罠は非常に多数、マンガに埋めこまれて
おり、色んなジャンルを趣味とする、色んな年代に対応している。罠にかからないような
人は最初から作者に相手にされていない。だから多くの読者が、気がつくと倒されて
天井を見上げることになるのだ。

通常、このような事をされたらマニアックな読者は自尊心を傷つけられ、読まなくなって
しまうだろう。実際に読まなくなった人もいるかもしれない。作者のkashmir氏は、
そんなリスクも承知の上であえて読者を倒す。あくまで主体的であり、ついてこれない
者は容赦なく置いていく。そこに清々しさを感じる者だけがついていく。

柔らかで可愛らしい絵柄も罠だ。萌え系ギャグマンガと思わせてライトなゆとり読者を
チョウチンアンコウのように誘いこみ、彼らが到底ついていけないようなマニアックな
ネタで翻弄した挙句、彼らが唯一頼りとする常識的な部分の情報を遮断する。ゆとり読者
にしてみれば、「あれ?俺なにか悪いことしたかな?」というような謎の罪悪感すら
覚え、正体不明の反省をするハメに陥るのだ。


言うまでもなくkashmir氏の作風はサディスティックだ。しかしそれは一見しても
わからないように巧妙に隠されている。だがその加虐はカラっとしており、策略的な
陰湿さはない。力技でねじ伏せるようなものでもない。合気道のようにサラっと重心を
持って行かれるのだ。





前置きが長すぎてもう本編のようになっているが、○本の住人3巻の話だった。
作風に関する感想はさんざん語ったので、面白かったところだけ羅列して終わる。


表紙のコア構想

巻頭カラーの「ネコに物もらうな!!」「あくのそしき!!」

埼玉県は水没しますが、いい味です!

☓ゲームをもってこない の絵

水窪ダム

頭おかしいな!!! お前がいうな

よし  よしじゃない!!

森の恵みカレー!!!

ノー点滴クリア

痛領収書

ギロッポンで日夜にちゃんする医者キモ!!

ミコンギ7

グラブに鉄板を入れるなどの工夫

食べ物もしいたけしかないんだ




4巻が待ち遠しい。