友人のTELとは四半世紀に渡る付き合いだが、好みのリアル女性のタイプやマンガ・アニメの
キャラの好みが一致したことはほぼない。ことごとく違う。こんだけ一致しないというのは
確率論から言っても稀有な事象だろう。これらの発端はドラクエでフローラかビアンカかという
話で始まって、以後ずっと続いている。このブログを通して読んでいる方は、pcfxとTEL、
どちらがどっちを取ったか想像してほしい。一見さんはこの件は読み飛ばしてもらえばいい。
答えはこの記事の最後に書く。
化物語が放映されていた当時、TELにドライブ中に聞いてみた。
P「化物語だとやっぱあのキャラだよね」
T「ああ、戦場ヶ原ひたぎ、ね」
P「いや違うだろ、そこは八九寺真宵だろ」
T「ねえよ!戦場ヶ原の一択だろ」
P「お前アホだろ」
T「お前がアホだろ」
やはりこういう結果になった。わかっていた事とはいえ、これまた見事に食い違う。
戦場ヶ原ひたぎの魅力もわからんでもない。だがそれはそれ。真宵の魅力には遠く及ばない。
ていうか、あんなヤンボーグ(ヤンデレ文房具)とは比較にならないというのがpcfxの見解だ。
pcfxが八九寺真宵を好きなのは、ロリ属性という根本原因は当然の事として、まず真宵の口調が
「どこまでも丁寧語・敬語」という、女性に対する理想の幻想が理由に挙げられる。女性が
最も使うべき美容語は何かと問われれば、言うまでもなくそれは丁寧語であり敬語だ。異論が
あるというのなら聞かせてもらいたい。それら美しい丁寧語・敬語を、小学生である真宵は
流れるように操る。ともすればハスッパになりやすい小学生高学年の女子が、またここまで流暢
に話せるということが、真宵の知性の豊かさと行き届いた両親の躾を証明する。つまり真宵は
基本的にお嬢様の資質を持つという事だ。
しかしそれだけなら大して珍しくない。ここからが大事な所だ。そのお嬢様然とした基本性能は
もう一つの真宵の性格である「バカで獰猛」という、矛盾した性格でぶち壊しになっている。
知性はあるが知恵はない。躾はあるがすぐに逸脱する。知恵のなさや逸脱は子供には普遍的に
ある特性であり、もしそこに知性や躾がなければただの野生児か池沼という事になる。知恵とは
現実に即した応用力であり、年齢に応じて経験が不足している児童が必ず持つ欠点だ。
真宵には特殊能力などない。高校生と本気でケンカすればパンツ丸出しで倒れる。その倒れ方
にはいささかの淑やかさもない。大股を開いて地面にひっくり返る。本気で倒れている。
本能レベルで慎みという所作が根付いていない。全くの子供であり、保護すべきという母性を
引き出すだけだ。
真宵の服装もまた子供らしい。サスペンダー付きのスカートも、幼児体型でまだ腰が十分発達
していない事を表している。背中の大きなザックは「かたつむり」という要素だ。そこにある
名札から5年生だという事がわかり、10歳から11歳の女児という事を明確にする。キャラの
オープニングで登場する服装は体操服・スクール水着・晴れ着がある。また真宵の動きは体力が
有り余ってじっとしていられない多動な子供そのものの落ち着きのなさで、ヒザの絆創膏からも
元気一杯な活発さを感じ取れるようにデザインされている。
真宵のオープニング曲は、視聴者のターゲットを30代から40代に焦点を合わせており、ベース
ラインは80年代のテクノ、イントロなどは矩形波のモロな電子音、及びオーケストラヒットを
多用し、ターゲットの年齢層を直撃するように設計されている。実にあざといやり方だが、
その目論見は皆中している。いわばロリコンのオッサンをゴルゴ13が片っ端から狙撃している
ようなものだ。pcfxも眉間から出血した。どうしてくれる。
非常に知性的な話し方をする真宵だが、小遣いやアイスに簡単に釣られる。「代償」という
概念が希薄な子供には隙があり、その隙を悪い大人は利用する。隙が多いキャラには「可能性」
という期待が込められ、その「可能性」という誘惑によって女性の本来の地位が確立する。
アニメでは主人公が話を聞き出す為に隙を利用しており、この場合主人公と視聴者が二重に
利用できるように仕組まれている。実に巧妙である。
真宵の声は声優の「加藤英美里」が担当している。他に可愛らしい声を出せる声優など今時
海砂利水魚だというのに、わざわざクセのある加藤英美里を起用している。ノイズが混ざり、
ハスキーで篭もる、どちらかというと男児の声に向いているタイプの声優を当てたのは、
「女の子」よりも「子供」という性格を強調したかったのではないかと推測できる。
真宵の目は赤い。生物学的には赤い目というのはアルビノを表すが、白ウサギやハツカネズミ
などを表す場合もある。真宵の攻撃は主に噛む・爪であり、また八重歯が発達している。
これらを総合すると「小動物」を象徴しており、それらは子猫に収束する。だが真宵は残念な
ことにカタツムリの怪異であり、純粋に子猫にはならない。そこにこのキャラの「現代的な
アンバランス」が生じている。
真宵は発育が良いらしい。クラスでも発達している方だそうだ。主人公が真宵と取っ組み合い
をしている最中に直接確認したようだ。この設定は、ターゲットのロリコンの中でもミドル層
(9~13歳を好む層)にアピールしている。9歳以下を好む層には胸などは無用のものであり、
13歳以上を好む層には子供が強調されすぎている。これらの周到に用意された罠は非常に完成
されたものであり、あまりに出来すぎているものだから、かえって罠にかからない人もいる
ことだろう。また、ターゲットを絞り込みすぎた為か、キャラの人気ランキングの1位という
わけではない。
因みに「病気とされるペドフィリア」はDSM(アメリカ基準の心理学)では13歳以下を対象年齢
としている。しかし日本の社会認知基準では18歳まで児童であり、欧米よりもレンジが広い
一方で、欧米よりもロリ文化が発達しているという矛盾がある。人種も体格も発育も宗教も
文化的背景も違うものに、世界基準を当てはめるという馬鹿げた行為は非科学的で無理がある。
科学的根拠や論理整合性のないものに振り回されるのを「原始的」という。
八九寺真宵という少女は、実はすでに死んでいる。怪異に取り憑かれたのではなく、怪異
そのものだ。妖怪のようなものであり、猫娘とか一反木綿の仲魔だ。家に帰る途中に交通事故
にあい、家に帰りたいという欲求からカタツムリの怪異になったらしい。この気の毒な設定は
同情心と保護欲を掻き立て、さらにこのキャラクターに引き込まれる原因を作る。主人公らの
協力によって家に帰ることができたが、成仏する事なく「地縛霊」から「幽霊」に昇格して
未だ彷徨っている。成仏しなかった理由は定かではない。ただ、戦場ヶ原が主人公に告白する
現場に居合わせた折、真宵は不機嫌とも白けたとも取れる表情で祝辞を述べた。
八九寺真宵の話は、戦場ヶ原と主人公のストーリーの「ついで」に語られる。その様子は
大人の会話の中で、そこに子供がいるというのに、まるでいないかのように語る様子と
似ている。主人公と戦場ヶ原の心の接近がメインテーマであり、真宵の話はその材料になって
いるだけだ。「子は鎹」というが、「かすがい」扱いされる子供の立場を考えると、それは
まるで道具だ。まさに真宵の扱いは主人公と戦場ヶ原の結びつきの道具であり、その大人の
都合を最重要とするエゴの残虐をもって、pcfxは戦場ヶ原ひたぎを「そこは違うだろ」と
言ったのであり、TELはメインテーマ通りに八九寺真宵を「ねえよ!」と言うことになった。
そしてお互いを「アホ」と罵り合うわけだ。
さて、ドラクエのフローラとビアンカの話の答えだが、ここまで説明すればどちらがどちらを
選んだかは明白だと思われるので、答えを書くまでもないだろう。pcfxとTELは今でもこの件で
罵り合うが、その罵倒に終わりも解決もないのだ。人間関係はリキッドで安定するものであり、
ガスでは見失い、ソリッドで物別れになる。日本語の「水に流す」系の言葉はエントロピーの
増減を人間関係に応用した熱力学的情緒表現だ。
キャラの好みが一致したことはほぼない。ことごとく違う。こんだけ一致しないというのは
確率論から言っても稀有な事象だろう。これらの発端はドラクエでフローラかビアンカかという
話で始まって、以後ずっと続いている。このブログを通して読んでいる方は、pcfxとTEL、
どちらがどっちを取ったか想像してほしい。一見さんはこの件は読み飛ばしてもらえばいい。
答えはこの記事の最後に書く。
化物語が放映されていた当時、TELにドライブ中に聞いてみた。
P「化物語だとやっぱあのキャラだよね」
T「ああ、戦場ヶ原ひたぎ、ね」
P「いや違うだろ、そこは八九寺真宵だろ」
T「ねえよ!戦場ヶ原の一択だろ」
P「お前アホだろ」
T「お前がアホだろ」
やはりこういう結果になった。わかっていた事とはいえ、これまた見事に食い違う。
戦場ヶ原ひたぎの魅力もわからんでもない。だがそれはそれ。真宵の魅力には遠く及ばない。
ていうか、あんなヤンボーグ(ヤンデレ文房具)とは比較にならないというのがpcfxの見解だ。
pcfxが八九寺真宵を好きなのは、ロリ属性という根本原因は当然の事として、まず真宵の口調が
「どこまでも丁寧語・敬語」という、女性に対する理想の幻想が理由に挙げられる。女性が
最も使うべき美容語は何かと問われれば、言うまでもなくそれは丁寧語であり敬語だ。異論が
あるというのなら聞かせてもらいたい。それら美しい丁寧語・敬語を、小学生である真宵は
流れるように操る。ともすればハスッパになりやすい小学生高学年の女子が、またここまで流暢
に話せるということが、真宵の知性の豊かさと行き届いた両親の躾を証明する。つまり真宵は
基本的にお嬢様の資質を持つという事だ。
しかしそれだけなら大して珍しくない。ここからが大事な所だ。そのお嬢様然とした基本性能は
もう一つの真宵の性格である「バカで獰猛」という、矛盾した性格でぶち壊しになっている。
知性はあるが知恵はない。躾はあるがすぐに逸脱する。知恵のなさや逸脱は子供には普遍的に
ある特性であり、もしそこに知性や躾がなければただの野生児か池沼という事になる。知恵とは
現実に即した応用力であり、年齢に応じて経験が不足している児童が必ず持つ欠点だ。
真宵には特殊能力などない。高校生と本気でケンカすればパンツ丸出しで倒れる。その倒れ方
にはいささかの淑やかさもない。大股を開いて地面にひっくり返る。本気で倒れている。
本能レベルで慎みという所作が根付いていない。全くの子供であり、保護すべきという母性を
引き出すだけだ。
真宵の服装もまた子供らしい。サスペンダー付きのスカートも、幼児体型でまだ腰が十分発達
していない事を表している。背中の大きなザックは「かたつむり」という要素だ。そこにある
名札から5年生だという事がわかり、10歳から11歳の女児という事を明確にする。キャラの
オープニングで登場する服装は体操服・スクール水着・晴れ着がある。また真宵の動きは体力が
有り余ってじっとしていられない多動な子供そのものの落ち着きのなさで、ヒザの絆創膏からも
元気一杯な活発さを感じ取れるようにデザインされている。
真宵のオープニング曲は、視聴者のターゲットを30代から40代に焦点を合わせており、ベース
ラインは80年代のテクノ、イントロなどは矩形波のモロな電子音、及びオーケストラヒットを
多用し、ターゲットの年齢層を直撃するように設計されている。実にあざといやり方だが、
その目論見は皆中している。いわばロリコンのオッサンをゴルゴ13が片っ端から狙撃している
ようなものだ。pcfxも眉間から出血した。どうしてくれる。
非常に知性的な話し方をする真宵だが、小遣いやアイスに簡単に釣られる。「代償」という
概念が希薄な子供には隙があり、その隙を悪い大人は利用する。隙が多いキャラには「可能性」
という期待が込められ、その「可能性」という誘惑によって女性の本来の地位が確立する。
アニメでは主人公が話を聞き出す為に隙を利用しており、この場合主人公と視聴者が二重に
利用できるように仕組まれている。実に巧妙である。
真宵の声は声優の「加藤英美里」が担当している。他に可愛らしい声を出せる声優など今時
海砂利水魚だというのに、わざわざクセのある加藤英美里を起用している。ノイズが混ざり、
ハスキーで篭もる、どちらかというと男児の声に向いているタイプの声優を当てたのは、
「女の子」よりも「子供」という性格を強調したかったのではないかと推測できる。
真宵の目は赤い。生物学的には赤い目というのはアルビノを表すが、白ウサギやハツカネズミ
などを表す場合もある。真宵の攻撃は主に噛む・爪であり、また八重歯が発達している。
これらを総合すると「小動物」を象徴しており、それらは子猫に収束する。だが真宵は残念な
ことにカタツムリの怪異であり、純粋に子猫にはならない。そこにこのキャラの「現代的な
アンバランス」が生じている。
真宵は発育が良いらしい。クラスでも発達している方だそうだ。主人公が真宵と取っ組み合い
をしている最中に直接確認したようだ。この設定は、ターゲットのロリコンの中でもミドル層
(9~13歳を好む層)にアピールしている。9歳以下を好む層には胸などは無用のものであり、
13歳以上を好む層には子供が強調されすぎている。これらの周到に用意された罠は非常に完成
されたものであり、あまりに出来すぎているものだから、かえって罠にかからない人もいる
ことだろう。また、ターゲットを絞り込みすぎた為か、キャラの人気ランキングの1位という
わけではない。
因みに「病気とされるペドフィリア」はDSM(アメリカ基準の心理学)では13歳以下を対象年齢
としている。しかし日本の社会認知基準では18歳まで児童であり、欧米よりもレンジが広い
一方で、欧米よりもロリ文化が発達しているという矛盾がある。人種も体格も発育も宗教も
文化的背景も違うものに、世界基準を当てはめるという馬鹿げた行為は非科学的で無理がある。
科学的根拠や論理整合性のないものに振り回されるのを「原始的」という。
八九寺真宵という少女は、実はすでに死んでいる。怪異に取り憑かれたのではなく、怪異
そのものだ。妖怪のようなものであり、猫娘とか一反木綿の仲魔だ。家に帰る途中に交通事故
にあい、家に帰りたいという欲求からカタツムリの怪異になったらしい。この気の毒な設定は
同情心と保護欲を掻き立て、さらにこのキャラクターに引き込まれる原因を作る。主人公らの
協力によって家に帰ることができたが、成仏する事なく「地縛霊」から「幽霊」に昇格して
未だ彷徨っている。成仏しなかった理由は定かではない。ただ、戦場ヶ原が主人公に告白する
現場に居合わせた折、真宵は不機嫌とも白けたとも取れる表情で祝辞を述べた。
八九寺真宵の話は、戦場ヶ原と主人公のストーリーの「ついで」に語られる。その様子は
大人の会話の中で、そこに子供がいるというのに、まるでいないかのように語る様子と
似ている。主人公と戦場ヶ原の心の接近がメインテーマであり、真宵の話はその材料になって
いるだけだ。「子は鎹」というが、「かすがい」扱いされる子供の立場を考えると、それは
まるで道具だ。まさに真宵の扱いは主人公と戦場ヶ原の結びつきの道具であり、その大人の
都合を最重要とするエゴの残虐をもって、pcfxは戦場ヶ原ひたぎを「そこは違うだろ」と
言ったのであり、TELはメインテーマ通りに八九寺真宵を「ねえよ!」と言うことになった。
そしてお互いを「アホ」と罵り合うわけだ。
さて、ドラクエのフローラとビアンカの話の答えだが、ここまで説明すればどちらがどちらを
選んだかは明白だと思われるので、答えを書くまでもないだろう。pcfxとTELは今でもこの件で
罵り合うが、その罵倒に終わりも解決もないのだ。人間関係はリキッドで安定するものであり、
ガスでは見失い、ソリッドで物別れになる。日本語の「水に流す」系の言葉はエントロピーの
増減を人間関係に応用した熱力学的情緒表現だ。