minority resistance

pcfx復活ブログ

ニュートン9月号

2011年08月03日 | マンガとかアニメとかほんとか
年中「宇宙宇宙」言ってる宇宙偏重科学雑誌「Newton」。この夏創刊30周年を迎えた、日本で
最もクールな理系雑誌だ。前回8月号の記事も書いたが、この度9月号が発刊されたのでまた
紹介する。30周年おめでとうございます。あと70年は頑張って下さい。



何かと文章や数字が行列しがちな科学雑誌にあって、「Newton」は「グラフィカルサイエンス
マガジン」を自称するだけあり、その誌面はイラストに満ちあふれている。よくもまあこれだけ
毎月描くものだというほどイラストだらけであり、しかもその多くは宇宙に関するイラストだ。
前回pcfxが「宇宙のイラストだらけで真っ黒け」と書いたからかどうかは知らないが、今回の
9月号は少し黒さが抑えられたようだ。まあそれでもまだ黒いのだが。現在はCGで比較的楽に
描けるようになったが、昔は職人が全部手で書いていたのだ。そしてその量は現在とさほど
変わらない。

「Newton」の¥1000という価格は雑誌としては少々高いが、宇宙だらけのイラストを眺めるだけ
でもその価値はあるといえる。例え九九がウロ覚えで水の化学式が書けないような人でも、
何となく波動関数がわかるような気がしてくる不思議な理系養成雑誌が「Newton」だ。

イラストが多いのでお子様からお年寄りまで楽しめる。内容が理解できるかどうかが重要なの
ではなく、常に科学に目を向けさせ、科学だけが物事を解明する手段だという認識を持続させる
のが、教育と教養の最重要課題だ。一旦それを刷り込めば、あとは勝手に好奇心が動き出して
止まらなくなる。


さて9月号だ。創刊30周年で、2号連続で大特集されているのが「大宇宙」の特集だ。今回は
後編ということで、前回8月号から踏み込んだ詳細と総括に進む。ていうか、「Newton」は
一年中「宇宙宇宙」の雑誌なので、今更宇宙特集とか言われても「またかよ」という感じ
なのだが、「Newton」の編集者がよほどの宇宙フェチらしくて、もう宇宙と結婚する勢いなので
仕方がない。8月号と同じく、おまけで小冊子がついてくる。これ一冊あればホーキング博士と
同等な宇宙認識が持てるという、インテリジェントブーストな付録だ。この「Newton」のおまけ
が「アンドロメダ萌えグッズ」とかになったら面白いのだが、このご時世なのであり得るかも
しれない。表紙に初音ミクがデカデカと載る「Newton」も見てみたい。


9月号の中身だが、それは買って読んでほしい。図書館ならタダだし、試しに立ち読みもアリ
だが、とにかく内容は自分の目で見るのが大事だ。しかしそれだけでは何なので、さわりだけ
少し書く。

「大宇宙」というタイトル通り、宇宙はとんでもなくデカい。デカいだけならまだいいのだが、
これまた物凄い長期間営業している巨大デパートだ。しかも基礎建設は一瞬で完成。そして
137億年を経た今も尚、拡張工事の真っ最中だ。あんまり昔に出来たので、初期の頃にテナント
を出したショップが今もあるのか店長ですらわからず、あんまりデカいので、自分の自宅も
デパート内にあったりする。普通の建築と違い、このデパートは「何もない所から急にできた」
という常識ハズレな建築法で建てられた。

「そんな非科学的な」と思うかもしれないが、あらゆる科学的根拠とされる宇宙の法則は、
実は非科学的なのだ。何が間違っていたかというと、人類が考えた今までの科学が間違って
いたのだ。正しい科学では「宇宙は何もないところから急にできる」のだ。何でもアリアリで
イケイケでゴーゴーな科学が正しいらしい。100倍のオッズの競馬に100円を賭けて当てると、
普通の競馬場では1万円もらえるが、正しい科学の競馬場ではいくら当てても配当がマイナスに
なって請求書が送られてくる事がある。今日のおやつがマイナス1個のリンゴだったり、
父ちゃんの給料は給料袋を開けるまでいくら入っているか経理ですらわからない。そういう
わけのわからない世界に自分たちは存在しているので、宇宙が何もない所から急に作られても
不思議じゃないですよ、という事を証明するために世界中の理系エリートな人たちが日夜
頭を捻っている。まるでギャグマンガだが、恐ろしい事に皆んな真面目にやっているのだ。

で、宇宙の始まりも宇宙の終わりも、誰かが見たわけでもなく、全部計算によって導き出した
答えだ。これが当たっているのか外れているのかは、誰も見たわけではないので判断の仕様が
ない。計算が間違っているかどうかを検算して判断するしかないが、計算のエリートが出した
答えなので、せいぜいカシオの電卓で四則計算くらいしかしない庶民は、√とかの記号が出た
時点で計算を早々に諦める人が続出する。まあ計算キチガイがそういうのなら、俺らが考える
よりも正しいのだろうと信用するしかない。


「Newton」9月号の特集は最後に、宇宙がどのような終焉を迎えるのかという予想で結んで
終わる。ここのところは面白い記事なので、是非雑誌を読んでほしい。10の100乗年後くらいに
宇宙がどうにかなってしまうらしいが、10の100乗年後とかいわれても困る。

人類が現在までに発見している物質やエネルギーは、まだ極一部らしい。法則というジグソー
パズルの完成枠は大体わかってきているのだが、完成するのには足りないピースがまだ
机の下だとか絨毯の隙間だとか犬の宝物入れなどにたくさん隠されているようだ。だから
パズルの盤面上だけをどんなに探してもピースは見つからないし完成もしない。それら見えない
ピースの絵柄によっては、完成した時の一枚の絵の内容が、想像していたのとえらく違う
ものになるかもしれない。今のところ盤面にあるピースから想像する絵はモナリザなのだが、
実は完成すると萌えアニメのパンチラかもしれないのだ。そのくらいまだわかってない事が
多い中途半端な方法論が現在の科学だ。だから過信したり信仰したり全財産突っ込んだりしては
いけないという事だ。

さて、「Newton」も宇宙の大特集をやって少しは気が済んだのか、9月号の後半は生物関係に
誌面を割いている。pcfxの願い通りになっているので気味が悪いが、やはり夏だけあって
恐竜関係が多い。夏休みで子供が自由研究だとかヒマだったりとかするので、やっぱ夏休みと
いえば恐竜だ。また夏と言えば昆虫だ。子供はヒマがあるとすぐ虫を捕まえようとする。猫と
いっしょだ。夏休みの昆虫の代表はカブトムシだが、「Newton」9月号にはアリについて
おもしろい記事がある。あとは原発の問題に関心が集まっているので、放射能と体について
科学雑誌らしい解説が載っている。B&Bやネイチャーからここ2ヶ月のおもしろいトピックも
あり、充実の内容で便利で楽しい。


「Newton」の編集長は「水谷仁」氏で「科学のエライ人」だが、さすが編集長のあとがき、
いいことをさらっと書いてある。”一説には宇宙の「宇」の字は空間、「宙」の字は時間を
あらわすといいます”とのことだ。もう最初から「宇宙」は「時空」だったというわけだ。
空間と時間を同じように取り扱う事に一般人は慣れていないが、「宇宙」の一言で要約して
もらえるとわかったような気がするから便利だ。

また、ともすれば合理主義の成果主義の研究主義に走りがちな科学だが、水谷編集長の
誌面作りの根底には「人間への愛」があり、それを感情的にではなく心理学的に表現する
手法は、科学者としても編集者としてもベストソリューションといえる。まさに科学雑誌の
編集長たるにふさわしい人物だ。高価な理系雑誌が30年も休刊せずに続いているのも、人間
をおいてきぼりにしない編集長とスタッフの努力あっての結果だと断言できる。

大抵の本屋に置いてあり、年間購読もでき、最近では電子書籍にも対応している。多数の特集
を持つムックもあり、子供から大人まで楽しみながら知恵がつく。月末か月初めには書店に
並ぶので、是非一度は手にとって、隅から隅まで読んで子供と一緒に知恵熱でも出してみる
のもいいだろう。

kashmir氏のマンガ

2011年07月27日 | マンガとかアニメとかほんとか
一介のニワカファンであるpcfxは、数年前にkashmirの「百合星人ナオコサン1巻」を在日
イギリス人のオッサンに勧められて読んだのをきっかけにして、現在では掲載雑誌を買うまでに
病状が進行している。長らく本気で、全身全霊で読むべきマンガ失っていたpcfxに射した、
一筋の光明だった。他にも割と好きなマンガ家はいるが、魂のレベルで好きと言える作家に
出会ったのは幸運であった。そんなタダのニワカがkashmir作品を語ってみる。

過去のkashmir作品は万人に勧められない。だがこのブログを好んで読んでいるようなタイプの
ヒネた人間にはお勧めできる。現在の作風は「メジャー作家」という拡大路線にあるので一見
とっつき易いように見えるが、毒は潜伏している。また真っ直ぐな精神の人や若い人には、
kashmir作品は「単なるギャグマンガ」や「おもしろストーリーマンガ」として映るだろう。
その根底にある病魔や悪魔を感じ取る事は難しいと思われる。だがそれはそれで正しいし、見当
ハズレというわけでもない。現在はその方向に推移しているからだ。また作者の無意識の荒廃を
表現させつづけるように期待するのは、ファンとしては残酷ともいえる。

深読みしすぎると、それこそ見当ハズレな事になるので避けなければならない。作者が描きたい
ものを描きたいように描ける余裕が出版界にあればそれで幸いとしなければならない。本当に
そうかどうかも、一般読者にはわからない。ともかく余計なお世話なのだ。

それをわかっていながら、あえて余計な事を書いているのだが、この規制の厳しいご時世に、
このタイミングでkashmir氏がメジャーに出てきた事は偶然ではあるまい。作家本人、編集者、
及び読者は、この理不尽な規制だらけの出版界に抗いたいという欲求を持っていて、他の作家が
次々とお仕着せの規制に下っていく中、違う方向で規制に反抗する最終兵器を温存したいのだ。
乳首やパンツや幼女に修正を加えるという魔女裁判対策の中、幼女ギャグという仮面を被った
謎のテロリストがkashmirである。迷彩と商業のために世間を謀っているが、果たしてその
実態は、無意識に苦痛と絶望を人より多く抱えて生きる人だ。まあこれは想像なんだけど。
本当はのほほんと好きなものを描いてるだけかもしれないけど、「ぼくのかんがえたkashmir」
はこうなのだから仕方が無い。

ツイッターをはじめてみて、早速kashmir氏のツイートを読み始めた。無論メジャー作家なので
本当に言いたいことを書くわけにはいかないだろう。ヘタな事を言うとすぐに叩かれる世の中
だから有名人は慎重にならざるを得まい。kashmir氏は律儀な人らしく、単なるニワカファンの
pcfxにも返信をくれる事がある。忙しい身の上だろうに、どこの馬の骨とも知れない者に、
大変ありがたい事である。pcfxは唯、kashmir氏の健康を願うばかりだが、病弱なようで心配に
なる。


kashmir氏のコミックスのそれぞれの読者の感想などをネットで拾い読みしていると、デイドリ
路線が好きな人と、◯本・ナオコサン路線が好きな人にわかれている事がわかる。最近はそれ
ぞれの作風が入り交じってきているので難しいが、pcfxは後者だ。だが、作者の本音が最も
素直に出ているのはデイドリな気がする。宗教観や宇宙観が語られる所に、素のままを感じる。
「彼女はUXO」についてはまだコミックスが出てないからか、あまり語られてない上、pcfxも
ほとんど読んでいないのでここでは語らない。

あまり作家の実態を知りすぎると普遍的によくない結果になるのはわかっているため、この辺
で自重しようと思っているが、その反面ファン心理でもっと知りたいという欲求もある。本当は
直接会ってサインのひとつも貰いたい気持ちだ。だが、単なる一読者にできる事は著作物を
できるだけ買う事と、買うことに価値を見出し続ける事だ。義理や惰性で買うだけでは意味が
無い。何冊も同じ本を買うのもまた意味がない。無理に他人に勧めるのも違う。個々にkashmir
作品と縁起があって、それを気にいった時にはじめて意味が創出される。だからpcfxはこの
ようなブログで紹介をするだけに留めたい。


2011年7月現在、kashmir著作物は、

月刊「まんがタイムきららMAX」で連載中の「◯本の住人」が4巻
月刊「電撃大王」で連載中の「百合星人ナオコサン」が3巻
月刊「アライブ」で連載中の「デイドリームネイション」が3巻
及び隔月刊「チャンピオンREDいちご」で「彼女はUXO」が連載中だ。

アニメは「百合星人ナオコサン3巻」の初版特典としてOVAがついている。
また今後、別の形式でOVA作品が予定されている。


「◯本の住人」は、奇妙な内容の絵本を書く作家の兄とその妹を中心に話が展開するギャグ
4コマ漫画、といいたいところだが、それはそれとして実際の話の中心人物は破天荒な幼女の
「ちーちゃん」だ。ナオコサンよりも壊れている、kashmir最強のキャラクターだ。ボケと
ツッコミが顕著な、現在単純に最も爆笑できるkashmirマンガとも言える。

「百合星人ナオコサン」は、宇宙からやってきた「ナオコサン」がいろいろと騒ぎを起こしたり
余計なことをするギャグマンガで、kashmir作品の代表作となりつつある。ただのドタバタ
というわけでもなく、ゆっくりと、しかし確実に裏のストーリーが展開している。マニアックな
ギャグが随所に散りばめられており、虫眼鏡を使って細かい文字を一つ一つ拾い読みし、
そのネタを理解したくなるマニア泣かせの逸品だ。またヒロイン的役割の「みすず」は廃墟や
廃線、及び鉄道が大好きという作者の趣味が重ねられた側面もあり、静と動が共存している、
最もkashmir臭のある作品だ。

「デイドリームネイション」は、高校の漫研に突如降臨した神様と高校生活のストーリー
マンガだ。ストーリー展開がはっきりしている現在唯一の作品だ。無論ギャグ要素も多く、
ボケとツッコミが強調されている。表面上は最もマイルドな作品なので、ここから入る人も
多いようだ。

また、kashmir氏のサイトでは、過去のイラスト作品を閲覧することができる。pcfxはその中の
イラストで非常に気に入っているものが数点あり、その何れもダークでエロティックだ。
現在の作風とはまるで違うものも多いので驚くかもしれないが、pcfxはむしろこっちのほうが
好みだ。「絵に書いたような美少女」的なものより、より普通で素朴で暗黒性を露出している
少女像は、とある同じ趣味を持つ者同士に伝わる、「本物」を感じ取れる。



作品の傾向としては、pcfxの印象だと「吾妻ひでお」「筒井康隆」「ゆうきまさみ」などを
想起する。それらのエッセンスの隙間に幼女と鉄道と80年代のシューティングゲームをギチギチ
に詰め込んでフリーズドライにし、メープルシロップをかけた感じだ。甘くて冷たくてサッパリ
しているが、そのパフェは猛毒が仕込まれている上に、毒が効いてくる前に爆発する。

そんな危険なkashmir作品を、是非一度御試しあれ。

森薫の本とか

2011年07月07日 | マンガとかアニメとかほんとか
「エマ」の頃に「森薫(もりかおる)」というマンガ家を知った。pcfxは特にメイド好きでは
ないが、歴史に埋もれた地味な物が好きな性質から、「西洋女中であるメイド」の生活などに
興味はあった。しかし世の中がメイドブームだったので「エマ」を買うのが気恥ずかしくも
あった。本屋のレジのねーちゃんに「ああ、メイド萌えなのね」といった侮蔑を受けている
ような被害妄想に苦しみながら日本銀行券とエマを交換したものだった。

pcfxは「メイドさん好き」というよりも、「エプロンドレス好き」だ。古くは小学生時代に
キャンディキャンディを見ながら、「ああ~この服かわええなあ~」と憧憬を抱き、アルバート
さんなどに殺意を抱いたものだったが、その後アメリカンオールディーズが流行った時にも、
水玉模様のエプロンドレスを着たポニーテールのウェイトレスに懸想していた。「エマ」は
ビクトリアンメイドなので趣向は少し違ったが、「地味な女中」という、メイドの根本にある
バックボーンをキチンと描いているので気に入っていた。

読んでるうちに、その服装とか調度品とかの描き込みに並々ならぬ執念を感じ、「もしかしたら
この人、変態なのでは?」という尊敬が募っていった。断っておくが、pcfxの言う「変態」は
最大限の敬称であり、「スゴイ人は大抵どこかオカしいものだ」という表現だ。人は若い頃に
「厨二病」や「若気の至り」や「やんちゃ」などの病気にかかるものだが、それが大人になるに
つれて常識に妥協してしまった人は「スゴくない、つまらないひと」だ。歳を重ねても妥協する
どころかますます病状が進行してしまう人は、必ず社会との軋轢を経験するものだが、それに
負けないで中年期を迎えるというのは精神に大きな痛手を与える。満身創痍の状態でも自分を
偽らず、青タンと傷だらけの精神でなお突き進もうとする人は迫力ある「スゴイ人」なのだ。

森薫氏はデビュー当初からかなり変態だったが、作品が売れて資料を山ほど買えるようになって
から、つまり最近の「乙嫁語り」を読むと、ますます変態になっている事がわかる。もう逮捕
されるレベルまで変態だ。もう描くのが好きで好きで、あまりに好きなものだから、それを
通り越したニルヴァーナの境地まで到達したかのような印象だ。涅槃のマンガ家は数少ない。



この人はどんなふうにマンガを描いてるのだろうか、きっと「あとがき」にあるように昆虫の
ように描いているのだろうか、などと思っていたところに、森薫氏が実際にイラストを描いて
いる動画がアップされていたのを見た。

その美麗な描き姿。動画を最後まで見た者は、もれなく森薫氏に求婚したくなるほどだ。


pcfxは以前、中央アジア諸国を旅していた頃や、中国雲南省の少数民族自治区を回っていた時
を思い出す。まさに作中のイギリス人青年・スミスのような扱われ方をしていたが、とある
山岳民族の習慣を知らずに、うっかり女性の肩布や髪房に触ってしまい、相手の女の子と結婚
しなければならない状況に追い込まれた事もあった。

婚約していた男には殴られるわ、民族の会議で「こういう場合はどうしたらいいのか」と議論
している間動物小屋に軟禁されるわで、一時はどうなる事かと思ったが、会議の結論は
「外国人の場合は別にしよう」と決まったので釈放された。そしてケジメをつけるために何か
差し出せと言われた。その時pcfxが所持していた物品で最も高かった物が、そこへ来る途中に
訪れたタイの山岳民族から買った宝飾品の小刀だったので、それを差し出した。

すると悪いことに、そういう場合に剣を差し出す行為は「うるせえ何もやるもんか決闘だ」
という意味だったので、婚約者の男が怒り狂って襲いかかってきた。少し手傷を負ったが、
大事になる前に「外国人は別」ルールが適用されて死なずに済んだ。まあその後すぐにその
村落を追い出される事になったのだが、それだと気まずいままなので、街に戻った折に旅行
代理店の女の子に事情を話すと、一緒に謝罪に行ってくれるという事になった。鶏が何羽か
入ったカゴをいくつか買って馬車に積んで、遠路謝りにいった。やたら金がかかったが、
旅行代理店の女の子が習慣の違いを説明してくれたので一応許してもらえて、日本人の評判を
落とさずに済んだと思っている。あの時のカップルは元気にしているだろうか。


そんな思い出を、森薫の「乙嫁語り」を読んで思い出す。習慣の違いとは恐ろしいものだ。
森薫は民族衣装を「これでもか」とばかりに描き込む。確かに山岳の少数民族の多くは独特の
飾りや模様の民族衣装でゴテゴテとしているが、そこを訪れる外国人はシンプルなものだ。
ドイツ人のオッサンと同行した際、ドイツ人のノースリーブ&ハーフパンツ姿と、pcfxの
全身黒づくめ&ハイテク装備品だらけの姿を見て笑われたものだった。彼らからすると奇異
この上ない姿に見えるのだろう。ドイツ人はまるで裸であり、pcfxは宇宙人だ。そのコンビが
慣れない馬に乗って、高山病で青い顔をして村落に現れるのだから、笑われて当然である。

大抵は「珍客」として珍しがられ、まるでパンダのように見られまくる。村じゅうの子供が
からかいにくる。数日滞在すると飽きられるが、子供たちは「遊べ遊べ」と早朝から叩き起し
にくる。運動不足で昆虫などに弱い我々は、最初こそ子供たちにそれをからかわれまくるが、
物理や化学を応用した遊びを教えてやると、やがてそれは尊敬に変わっていく。いつの間にか
学校の先生のようなポジションに置かれ、村の女が食べ物などを授業料代わりに置いていく
ようになる。そして別れの日がくると、本気で泣き叫んで「行くな、ずっとここにいろ」と
手を離してくれない。こちらもつい涙腺が緩み、見送りの人々が涙で見えないまま山を降りる
事になるのだ。毎回こんな感じだ。「生きている」という実感がわく数少ない瞬間だ。


また話がバミューダ海域で遭難して幽霊船になっているが、森薫の話だった。


森薫氏のマンガで目立つのは、気が強い女の子の自己主張が筋道立って行われる描写だ。
これを単なる「ツンデレ」とくくるには、あまりにもったいない。少女の自己主張には、
それに至る独特の論理がある筈だが、大抵マンガではそれを「気まぐれ」とか「わがまま」
など単純化して表現される。ひどい場合には「『べ、別に』言わせておけばツンデレだろう」
という思考停止なものもある。

森薫氏のマンガでは、自己主張の強い女の子の主張には必ず前段があり、本人の価値観や
希望が語られている。それが「大人の都合」や「男のエゴ」などで反故にされた場合に、実に
正当に苦情が述べられるが、その表現方法が少女の型にはまっている為に「ワガママ」と
認識される。気が強い少女の主張は、例えそれが正当で論理的なものであっても、その少女の
将来を考慮すると否定し黙殺される。うるさい女は貰い手がつかないのだ。それが正当な
主張でうるさいのなら尚更だ。だから少女は世の中の正当性という価値観を信用しない人間に
育っていく。

「乙嫁語り」では「パリヤ」がその性格を与えられている。パリヤの言っている事は正しいし
間違っていない。でも抑圧される。その様が気の毒でもあり、可愛くもある。本人は真剣に
悩んでいるのだが、その様子を見る我々は残酷な第三者だ。

pcfxのように、「少々おかしい女性」を好む者にとっては、論理的に正当でありながら、
それを狡猾に表現できないので迷走する「おかしさ」がメガヒットするので、「乙嫁語り」
では当然パリヤに激萌えする事になる。


pcfxが選ぶ将来の「人間国宝候補」として、森薫氏を押したい。性的な意味で。

Newton8月号

2011年07月05日 | マンガとかアニメとかほんとか
Newton」という科学雑誌がある。pcfxが小学生の頃より創刊号から愛読している雑誌だ。

中学生の頃に「OMNI」という科学雑誌が創刊され、一時期はそちらを熱心に読んでいたが、
バブルの頃に休刊となってしまった。非常にカッコイイ雑誌で、あらゆる分野の科学と、
SFまでもを網羅していたオリジナリティ溢れる雑誌だったのだが残念だ。

Newtonも継続して読んでいたが、こちらは宇宙寄りの科学雑誌だ。pcfxとしてはもう少し
生物寄りのを期待しているのだが、今回30周年を迎えるまで毎月読んでいる。
とりあえず30周年おめでとうございます。



140P程の月刊雑誌で¥1000というのは高いと思われるかも知れないが、世界の科学雑誌を
全部読んでられないところに、要点を抜き出してわかりやすく解説してくれる利点は大きく、
また多数の美麗なイラストがてんこ盛りであり、編集長執筆の科学と歴史の探訪エッセイも
面白いので、科学好きにとっては読後に損した気にならない。

さて創刊30周年を迎えたNewtonは、現在の8月号と来月の9月号に渡って、宇宙の大特集を
行っている。普段から宇宙に偏った科学雑誌なのに、特集ではもう雑誌の半分が宇宙まみれ
であり、雑誌の前半は宇宙のイラストで真っ黒だ。こんなに黒い雑誌は見たことがない。

夏休みのシーズンであり、少年の夏と言えば宇宙だ。なぜ宇宙なのかはよくわからないが、
法律で決まっているかのように、脅迫的に天体観測しなければいけない気がしてくる。
夏休みの自由研究も、そのネタは科学だ。科学はあらゆる理論の根拠であり、これを軽視
して大人になるとロクな人間にならないので、どうしても子供のうちに科学の素養を身に
つけさせないといけない。科学といえば自然科学であり、この世界は宇宙の法則の上に
成り立っている。だから人間はまず、宇宙を知らなければ始まらないのだ。

雑誌Newtonは子供から大人まで楽しめる誌面構成をしているので、親子で読むにも適して
いる。子どもにとっては難しいけどワクワクであり、大人にとっては理科の復習になる。
科学の最新情報やディープな内容を解説する事によって、父親の体面も立つというものだ。

昔、図鑑少年だったpcfxは、学研の図鑑を買ってもらって、1年中繰り返し飽きもせずに
読んでいたものだ。図鑑の中でも特にお気に入りだったのは「宇宙」「人体」「動物」
だった。やはり特に「宇宙」が好きだったのを覚えている。その頃の科学では太陽系の
惑星についても詳しいデータがなく、天王星より向こうの惑星の地表温度や主要構成成分
については「?」が並んでいた。現在では当時より多くのことがわかってきており、
Newtonで時折発表される最新の分析結果で知識を更新できる。

少年時代以来、科学から離れていた大人がNewtonを読むと、昔教わった事とだいぶ変わって
いる科学に驚くかもしれない。また、相対性理論や量子論や波動関数が、昔よりももっと
身近な知識になっていることに驚愕するかもしれない。「ゆとり」と侮っていられなく
なるだろう。

昔、心をときめかせたカンブリア紀のバージェス動物群も、当時多くが推測だったものが、
現在ではだいぶ研究が進んでいる。ハルキゲニアなどは、昔と今では上と下が逆になって
いるのだ。アノマロカリスのアゴは、じつはそんなに丈夫じゃなかったことがわかった。

ちなみに今回pcfxが8月号で一番面白かった記事は、「ネアンデルタール人が北極圏にも
居住していた(サイエンスより)」だった。ムスティエ技法による石器の遺跡によって、
ロシア中部の北極圏に後期石器時代までネアンデルタール人の生き残りがいたことが
わかったのだ。あとは、ずっと習慣で「アンドロメダ星雲」と呼んでいたのは間違いで、
「アンドロメダ銀河」が正しいという事に今更気がついたことか。星雲と銀河の違いは
わかっていたのだが、改めて指摘されるまでごっちゃになっていたのだと気付かされた。



夏になった事だし、創刊30周年の節目でもある。これを機会にあなたもNewtonを読んで
みてはいかがだろうか。¥1000が高いと思う方は、大抵の図書館に最新号があるので
読んでみてはいかがだろうか。pcfxも少年時代は図書館で読んでいた。

Newtonは全国の大抵の書店で購入でき、年間購読もある。各種ムックも発売されている
ので、気に入った特集があれば読んでみるのもいいだろう。

命令本

2011年06月26日 | マンガとかアニメとかほんとか
ビジネス書などを読んでいると、「よく根拠もあいまいなことをこれだけ強気で書けるな」と
ムカついてくる事がある。経済学を振り回してはいるが、大抵は経済学者の論文のコピペで、
そこに勝手に主観と出展があいまいな統計を入れてくる。経済学自体が論拠として3流である
のに、さらにダメな味付けをして台無しにするのがビジネス書だ。

大体、ビジネス書というのは「読みたくて読む」という筋の本ではなく「誰かに脅迫されて読む」
たぐいの本だ。その上無料配布しているならともかく、内容に見合わない値段で販売されている
のが相場だ。だから余計に腹がたつ存在となる。

これは自己啓発系やハウツー本にも同様の傾向が見られる。「論拠があいまいな本を脅迫的に高い
金を出して買わされる」というシチュエーションが伴うので、すなわちこれらは全て詐欺師の
手口の本だ。そんな手口で売りつけてくる本が役立つわけがない。


さて、これらの本の多くに、「~しなさい」というタイトルがついている事がある。「儲けたければ
新聞を読みなさい」とか、「英語は耳で覚えなさい」とかだ。一体何様のつもりなんだろうか。
命令形の言葉は「ツンデレ幼女」と「肝っ玉母さん」だけに許された特権であるのに、誰の許可を
得て使っているのか。そしてそれを喜んでホイホイ買う連中の気が知れない。真性の社畜であり
思考停止でありマゾヒストだ。いわば変態本であり、ロリ本を規制するよりこちらのほうを発禁に
すべきなのは明らかだ。

本を販売するということは、面識のない他人へメッセージを送る事とほぼ等しいが、面識のない
他人にいきなりの命令である。もうこの時点で失礼であり、それが礼儀作法のハウツー本だったり
する場合には呆れてるばかりだ。また、知らないことに対して知的好奇心を働かせて手にとった
本なのに、「知らないことは恥」と言わんばかりの上から目線であり、「俺は知ってるもんね!
教えてやろうか?」という悪鬼のような態度である。では知らないことを世界で最も教えてくれる
「google先生」は上から目線だろうか?「google先生」は上から目線とかではなく、そんな無駄な
プロセスを初めから省いているのだ。

よからぬ下心を持っていたり、利己主義を隠している者というのは余計な修飾を必ずするものだ。
海外旅行先で詐欺師が近づいてくる時の手口も同じだ。最初は親切そうに声をかけてくるが、
その親切はこちらの要求を超え、こちらの要求と違うものに変わっていく。最終的にはこちらが
必要としないものを買わせるのだ。親切心のある者は、その場で最低限必要なことだけ、控えめに
手伝ってくれる。また、「俺に任せろ!」とか「大船に乗った気持ちでいろ」という奴に限って
信用が追いついてない。この言葉を聞くと逆に不安になる事が多かろう。


命令形の本は、いかにも自信がありそうだが、その過剰な自信に逆に不安になる。こちらが必要
とする事以上の大風呂敷を広げ、いつしかこちらが求めていない結果を強要してくる。失礼で
上から目線で、根拠があいまいで、その上欲しくもないのに高価だ。これら「命令本」など
買う必要はなく、詐欺を蔓延らせる事に手を貸すべきではない。会社で上司から進められても
読む必要がないことは、タイトルで既にわかるのだ。

「読みもしないで勝手なことを言うな!」という著者の意見もあるかもしれないが、上から目線の
タイトルをつけた時点でもう著者の負けだ。上から目線のタイトルにした論拠はどうせ語れまい。

「実際に役に立ったぞ!」という読者の意見もあろうが、失礼なタイトルの上から目線本を疑い
もなく購入している時点で選択眼のなさを証明してしまっている。どうせ選択理由を論理的に
語れまい。



この世で許される命令形の本があるとしたら、リアルツンデレ幼女が著者の「もっとわたしに
やさしくしなさい!」とかのタイトルだろう。もちろん朗読CD付きで、「cv.釘宮理恵」に限る。
それ以外は全部認めない。「ツヨシしっかりしなさい」は、かないみか効果により例外で
ギリギリセーフだ。

まんがタイムきららMAXとかREDいちごとか

2011年06月21日 | マンガとかアニメとかほんとか
何度か既に書いているが、pcfxはマンガ家のkashmirの作品が非常に好きだ。最近までは単行本を
購入して読む程度だったのだが、遂に我慢しきれなくなって掲載雑誌の購入にまで至った。

で、困ったのがその雑誌の見分け方についてだ。ここ数年マンガ雑誌を買って読むことがなかった
ので、その辺の出版事情に疎くなっていた。どうやら「まんがタイム」という雑誌らしいのだが
本屋に行くとなんか種類がいっぱいある。どれだったのか確認してこなかったので出直し、後日
それが「まんがタイムきららMAX」というものだと覚えたつもりだった。しかし本屋にあったのは
「まんがタイムきらら」だけで、「MAX」の文字がない。雑誌は輪ゴムで閉じてあり、表紙には
掲載マンガ家の一覧がない。仕方ないのでまた家に帰り、kashmir氏のサイトと芳文社のサイトを
確認し、「MAX」で間違いない事を確かめた。後日また数軒の本屋に行ったのだが、「MAX」は
ない。しょうがないのでまた家に帰り、雑誌の発売日を確かめると、次号は半月後に発売らしい。

と、このような池沼的なガキの使いを繰り返した挙句、ようやく発売日になった。今度こそ大丈夫
とばかりに勇んで本屋に行くと、「まんがタイムきららMAX」は無い。中年のpcfxが羞恥プレイ的
に店員に「あのう、まんがタイムきららMAXはありませんか?」とたずねると、「売り切れ
ました」との返事。くそう、もうこうなったら意地だ。何がなんでも購入してやるぜ!と謎の
闘志を燃やして本屋巡りの旅の末、4軒目でやっと見つけた。発売日の午後3時で既に売り切れ
続出というのは意外だった。そんなに売れてる雑誌だったのか。

購入して本屋の駐車場で即輪ゴムを解き、真っ先に最後のページの目次を見る。

あった。「◯本の住人 kashmir」の文字。言いようのない安堵感と達成感を感じ、その場でその
マンガを読み終わった。平日昼間に本屋の駐車場でマンガ雑誌を見て吹き出す中年男を、行き交う
人々が怪訝そうに見ている。通報されそうな勢いだ。その場を逃げるように去るpcfx。


家に帰り、せっかくだからとお目当ての「◯本の住人」以外のマンガも読んでみた。

が、なんか目が滑って「読めない」。どうしたことだろうか?なんか体に異常でも起こったの
だろうか?

pcfxは「萌えマンガ」にさほどアレルギーがあるわけではない。だがしかし、なんか読んでも
内容が頭に入らない。ヒトコマヒトコマを順に追えず、文字通り目が滑ってまともに読めない
のだ。

割と衝撃的な体験だったが、努力してなんとか全マンガを読み終わった。読み終わってみると
中には面白い作品もあったが、ホイップクリームのように軽く手応えがない。そこに実在を確かに
認識できるのはkashmirの「◯本の住人」だけで、あとは夢を見ているような不安定な感覚だ。

そして「なぜkashmir氏のマンガがこの雑誌に掲載されているのだろう?」という疑問に変わる。
だが見方を変えると、他の人にはkashmir作品も他の作品と同じようなカテゴリとして認識され
ているのかもしれず、雑誌のタイトルの「きららMAX」とは適当につけただけのものではなく、
むしろ雑誌の性格を明確に表していたのではなかったか。つまり、「キラキラした美少女を」
「最大限(MAX)に強調した雑誌」というものではないのか。

そう考えてみると、間違った認識をしていたのはpcfxだけであり、出版社も作者も、さらに
それらを求めている読者層も自然で当然の位置にいると思えてきた。


いや、まて。しかしなんだかそりゃおかしい。あやうく騙されそうになっていた。やはり自分は
間違ってはいないのではないか。

確かにkashmir絵はかわいい。だが「かわいい」というのが売りというのとはちょっと違う。
またkashmir氏のギャグの次元は、やはりこの雑誌の他のマンガと違う。どちらかというと調和を
乱している存在だ。それが巻末にあるのならまだ理解もできる。巻末マンガという位置がデザート
的・実験的・特異的な存在を許す不文律になっているからだ。しかし「まんがタイムきららmax」
では雑誌の中ほどにkashmir作品が「さりげなく混ぜられて」いる。

これを「常識破り」と見るのか、「新しい価値観」と見るのか、または「編集が作品や作家を
理解してない」と見ていいのか、判断がつかない。色々と調べてみると、「◯本の住人」は
掲載当初、連載の予定ではなかったと聞く。数回の単発掲載の末になし崩しに連載になった
ようだ。たしかに当初の絵柄は現在と違っており、「雑誌の性格に配慮」した作風に見える。
しかし2話から段々といつものkashmir作風に変わって来ており、暴走キャラ「ちーちゃん」が
登場している。5話あたりではもうすっかり「The・kashmir」だ。

これまで単行本しか読んでなかったpcfxにとって、まさか「◯本の住人」がこのような環境で
掲載されていたとは夢にも思わなかった。全く意外であり驚きだった。少し調べたところ、
どうやら「◯本の住人」はkashmir氏の一般商業誌デビュー作のようだ。ということは芳文社の
編集者がkashmir氏を見出した可能性も考えられ、そう考えると「作品や作家を理解してない」
どころか「物凄く見る目がある」ということになる。


以上、これらはpcfxの私見であり想像に過ぎない。とにかく雑誌をみて驚いたということだ。




さて、pcfxは単行本しか読んでなかったため、まだ単行本になってない「彼女はUXO」を読んだ
ことがなかった。そこでそれが掲載されている雑誌「チャンピオンREDいちご」というのも
買って読んでみることにした。

こちらも驚きだった。半分エロマンガ雑誌だ。どこにも18禁の表示はないので一般誌なのだろう
が、ということはkashmir氏の「彼女はUXO」という作品はエロマンガ系なのか?という不安と
期待に震えながら雑誌を閉じているヒモを外してみた。なんかオマケがついている。タオルの
ようだが、巨乳キャラの絵が描いてある。最近の雑誌はすごいな、と思いつつ目次を見る。
この雑誌でもkashmir作品は中程に掲載されており、ということは巻末の特異な扱いではなく
「雑誌の性格に合った作品群」の中の一つという扱いなのだろう、などと予想しながらページを
めくってみた。

・・・セーラー服の少女の股間に竹槍が生えている。やはりそういう傾向のマンガだったのか?
数ページめくると、いきなり「目がイッっている女性」が登場した。

「ああよかった」という安堵感が広がる。確かにこれはpcfxが期待していた方向のkashmir作品の
匂いがする。以前を読んでいないので話の展開はさっぱりわからないが、304Pのヒトコマ目の
絵を見ただけで安心する自分がいた。そして既に立派なkashmir中毒者になっていたのだなあと
おかしな感慨にふけっている。


雑誌に掲載されている他の作品の多くが半エロマンガ的な作品だが、ここでもkashmir氏は
「雑誌の性格に配慮」しながらも、やはり独自の世界を構築している。その一貫性や頑なさに
さわやかな風を感じ、同時に「ああ、やっぱこの人壊れてるわ」という尊敬と崇拝を感じた。

pcfxは既に中年であり、この雑誌の他のマンガで「実用的な利用」をできないが、中学生くらい
なら十分に興奮できる内容だ。高校生でもいけるかもしれない。オマケもその筋の若い人ならば
喜べるものなのだろう。


作者のkashmir氏がどんな人物なのかは知らないが、とても興味深い人である事は確かだろうし、
またとても「中の人が一人」とは思えない幅があり、男女が重なりあったような精神を感じ、
達観しているようで幼児性があり、ハードに論理的でありながら統合失調的でもある。

年齢も性別も精神も論理も多重に存在しているかのような、新時代の革命的量子論マンガ家が
kashmir氏だ。pcfxはkashmir氏に畏敬を感じている。現代の神はkashmir氏に宿っている。


プラモデルとかフィギュアとか

2011年06月03日 | マンガとかアニメとかほんとか
友人から病気の快気祝いに完成品のプラモをもらった。

モノはランボルギーニ・カウンタックの「イカ娘痛車ver」だ。これをくれた友人はモデラーで、
非常に完成度の高いものだ。pcfxがカウンタック好きでイカ娘好きなのを知っているので、見よう
によっては巨大なイカに見える白いカウンタックにイカ娘のステッカーがこれでもかとデコレート
されている。

カウンタックの魅力は今更語るまでもなく、1970年産まれ前後の世代にとっては憧れ以上の意味を
持つスーパーカーであり、性能はともかくそのスタイルは現在でも右に出るものはない。カウン
タック以降のランボルギーニ車もカウンタックを超えるインパクトを感じ得ない。

一方イカ娘はアニメの2期が決まり今から楽しみだ。ストーリーがあるようでないような、原作の
絵は下手なようで非常にうまいような、話は面白すぎないがつまらなくもなく、キャラクターは
シンプルのようで引き込まれる。なんとも捉え様のないウナギかナマコのようなヌルヌルした作品
である。pcfxはキャラでは浴衣を着て照れる栄子が好きだ。イカ娘本体はカワイイが萌えとは
言いがたく、駄々をこねる子供のような可愛らしさがある。このような微妙な作品を作り上げた
作者と編集部は、現在においてはアニメ化程度の評価に留まってはいるが、後にもっと評価される
と思われる。

さて、これら二つを合体させた「イカウンタック」だが、作った友人によるとプラモデル自体は
我々が幼少期に作った頃のままで、全然進化してないらしい。また塗装がしにくく、塗料が全然
乗らなかったとのことだ。何度もシンナーで洗ったりしたらしい。部品の接着もよくなく、ミラー
などがポロポロとれる。非常に苦労した末に完成したとのことだった。


pcfxも子供の頃は軍艦だのダグラムだのヤマトだののプラモを作ったが、結局「作る喜び」よりも
「完成品で遊ぶ」方に重きを置いたため、プラモの魅力は置いてきぼりだ。現在でも作るのは面倒
なので、欲しいものがあるとその友人に作ってもらう事にしている。近年ではガンプラの
「サイコミュ試験型高機動ザク」のシャア専用モデルや、シーマ専用ゲルググを作ってもらった。
最近は大日本帝国海軍の空母「赤城」が気になっているので、そのうち彼に作ってもらうことに
なるかもしれない。

赤城」は巡洋艦として設計されたが国際的な大人の事情で空母に転用された。
竣工時には3段式の短い甲板だったが、近代化改造によって長い甲板に生まれ変わり、太平洋戦争
で空母機動部隊の旗艦として真珠湾から暴れまわり、ミッドウェーで炎上してその生涯を終えた。
「赤城」の大きな特徴は、元々巡洋艦として作られかけていた経緯があり、20センチ砲6門を
そのまま搭載した空母であった点だ。つまり空母でありながら高い攻撃力をもっており、対艦戦に
も引けを取らない「勇ましい」空母であったところにある。大戦略などで赤城を運用する場合、
洋上の小島などに敵の非常に邪魔な対空砲が設置してある時でも、赤城を接岸して20センチ砲
を打ち込むと一発で破壊できる。これによって航空機は対空砲に悩まされずに動き回れるという
寸法だ。他の空母の豆鉄砲ではこうはいかない。「赤城」様様だ。「加賀」も同様な空母だった
が、全体のスタイルで見ると赤城のほうがカッコイイ。

プラモ屋に置いてある馬鹿でかい「赤城」のプラモを友人に作らせるのが当面のpcfxの夢だ。
自分で作る気はさらさらないが。


子供ころからどこか枯れた所があったpcfxは、小学校高学年になる頃にはガンプラやスーパーカー
よりも「日本の庭園シリーズ」とか「屋台シリーズ」のプラモを愛するヒネたガキになっていた。
東北の農家のプラモなんかは、藁葺き屋根や水車、庭に生えている柿の木に侘び寂びを感じずに
おれず、江戸時代のソバの屋台に郷愁を感じていたものだった。これらとて、本当は自分で作る
のはイヤで、完成品があったならそちらを購入したであろう。
他にも姫路城とか東屋などを作った覚えがある。


さて最近になって「フィギュア」を極たまに購入するようになった。これもプラモを作った友人の
影響ではあるが、気に入ったアニメやキャラのフィギュアをの中で、出来の良い物だけ選んで
買っている。だから数は非常に少ない。
代表的なものでは「地獄少女」の「閻魔あい」、「化物語」の「八九寺真宵」、「初音ミク」の
ねんどろいどなどだ。そして本日、pcfxが天才マンガ家と崇めているkashmirの「百合星人ナオコ
サン」のフィギュアを予約した。
今まで単行本でしか読んでなかったkashmir氏のマンガも、遂に雑誌を購入して読んでしまう
ところまで深入りしてしまった。もう戻れない。


で、フィギュアって、ネットや店頭で見たときには「欲しい!欲すぎる!」という気持ちになる
のだけれど、いざ買って飾ってみると「なんで買っちゃったんだろう」という気になる。それが
分かっているのにまた買ってしまう。不思議な物品ですな。いいオトナが美少女フィギュアを
並べているのもどうかと思うけど、他に欲しい物がない。元々物欲は薄く、旅行などに金を使う
性質だ。



ともあれ、「イカウンタック」は玄関に飾ってあり、家に来た佐川の人やエホバの人にも見える
ようにしてある。

神道とアニメとかゲームとか

2011年03月27日 | マンガとかアニメとかほんとか
神社本庁やその頂点にいる天皇が、神道を扱ったアニメマンガゲームを見て
どのように思っているのかは知る由もないが、さほどのクレームは出していないようだ。
例え巫女さんが犯されようとおかしな神様が降臨しようと大目に見守ってくれている
ようだ。

神道、特に巫女さんは長い歴史の中で色々な利用のされ方をしてきた。戦国時代あたり
には各地を売春しながら遍歴する「歩き巫女」もいたようだ。またその歩き巫女に扮して
諜報活動を行う「くノ一」もおり、宗教儀式と無関係な格好だけの自称・巫女がインチキ
祈祷をして回っていた。それらは正体がわからない限り全て「巫女」と見られる。また
巫女は若い女性とは限らず、幼女もババアも婆さんも「巫女」だった。「巫女さんは
処女」というのは現代の思い込みであり、実体は経産婦だろうがビッチだろうが巫女を
やっていたのだった。

仏教が日本に伝来してからは「仏教フィーバー」が起こり、昔から新しもの好きだった
我々のご先祖様たちは「やっぱこれからはブッダじゃね?」「哲学っぽくてカッコ
よくね?」「宇宙観とかすごくね?」などと言いながら神道はとりあえず置いておき、
仏教オタに邁進していった。あんまり人気なもんだから神社にお寺をくっつけたりして、
もう神道なんだか仏教なんだかわからなくなる建物ばかりになっていった。そこに七福神
という、ヒンドゥーと道教の神様がお得なセットになったものが室町時代に伝来し、神様
なんだか仏様なんだかよくわからないがとにかく目出度いということで人気となった。
また神道に元々あったお稲荷さんが独自に自己主張をし、神社内に鳥居を並べまくって
一角を占拠する荒業に出た。神社のライバルとも仲間とも言える陰陽師に人気を取られた
時期もあり、祈祷や占いのシェアを争っていた時期もあった。

そんなオカルト過当競争状態にあった日本の宗教界に、戦国時代も後半になってから
キリスト教を持ち込もうとノコノコやってきたオッサンがいたが、これ以上ライバルが
増えても困る当時の天皇は会いたがらなかった。マゴマゴしてるうちに織田信長が力を
つけ、政治に利用される事になってしまう。織田家は神道に寄っており、仏教坊主などは
敵でしかなかったためにキリスト教を当て馬にして牽制に使った。そして秀吉の時代に
なって嫌われ始め、家康が天下を取ると追い出されてしまう。その後明治8年になるまで
に日本におけるキリスト教は地下組織に成り果てており、あまりに長いこと隠れていた
ので情報が錯綜したり誤って伝えられたりするうちに何の宗教かわからなくなって
しまい、地方によっては死体から血を取って飲んだり人肉を食べるなどの恐ろしい邪教
となってしまっていたと言われる所もある。

明治の外来宗教の解禁と共に、国際政治に対抗するために日本は藩だとか地方だとかに
分裂しているのは都合が悪いので、一つにまとまらなければならなかった。現在の県民
意識などよりもはるかに強固だった地方帰属意識をまとめる方法は、天皇を中心とした
神道を利用するより他になかったといえる。そこで神社にいろいろくっついていた邪魔な
オプションを外すことになり、とりあえずお寺は分離されることになった。神社には
神道のみ、という確固たる姿勢で取り組まれたが、全国津々浦々までには手が届かず、
現在でも神社と寺が同居していたり、神社なのに鐘つき堂があったり、神社の敷地に
お墓があったり、山門のある神社があったりする。キリスト教もなんとか日本に食い込む
事ができるようになったが、他のアジア地域と比べてもその勢力は貧弱なものであり、
また日本人の宗教観を超えるほど大した内容でもなかったために教化は失敗に終わった。
戦後に新興宗教ブームが起こり、その中でキリスト教は有象無象の怪しい宗教の一つ
くらいの認識になったが、クリスマスパーティという娯楽行事を日本人に与えた事が
唯一の功績になった。バレンタインはキリスト教かどうか微妙だ。

このような歴史を辿った結果、クリスマスを祝った数日後の大晦日には寺で鐘を突き、
その足で神社に移動して初詣をするという年末年始宗教ウルトラCを繰り出す事と
なった日本人だが、生まれたり始めたり作ったり祝ったりするのは神社が担当し、死んだ
り終わったり供養したり弔ったりするのは寺が担当するように使い分ける事で現在
安定しているようだ。物を送ったり貰ったりする行事の一部はキリスト教の領分として
認知されたが中止を叫ばれている。

戦後に天皇が日本の代表者を名目上は退いた。そして「宗教は自由にしていいよ」と
言われて日本人はいろんな宗教を味見してみたが、なかなかしっくり来るものがない。
宗教の目的の一つに大衆の民度を向上させるというものがあるが、日本人は既に世界で
最高水準の民度を持っていたので必要なかったからだ。世界観や宇宙観に於いては科学の
方が信頼されており、精神世界の探求では日本の禅宗や心理学などがあった。もちろん
断片的には他宗教から得られる情報も残されてはいたが、それは知識や教養という分野を
超えるほどのものではなかった。その結果「ちょ、結局俺ら最強じゃね?」という結論に
至ったのが現在の日本人だ。


洗練された宗教には厳格な教義も厳守するべき戒律も必要なくなる傾向がある。教義は
物の喩えであり、戒律は更生だ。例えなくとも自己表出レベルで理解されており、更生
させずとも生活規範として実行されていれば教義も戒律も必要ない。日本はそのレベルに
概ね達しており、今更そんなものを必要とする日本人はバカを自認する自覚的な愚か者
に限られる。

神道の直接の関係者でもない限り「アレするなコレするな」とは言われないし、特別に
信仰していなくても日本全国に神社は無数にある。無人の神社であっても地域の氏子が
手入れをしているからそれが維持されている。維持する費用は地域で賄っている。
日本神話の神様を一柱も知らなくても平気で願い事だけは聞いてもらおうとする。自分が
今拝んでいるのがどこの神社の系列なのかも気にしない。ていうか系列なんてある事自体
を知らない人もいる。それでいて正月には大挙して神社に参拝し、オタな絵馬をかけたり
巫女さんを激写したり、町おこしに利用したり、酔っ払って参拝したり、フランクフルト
を売ってみたり、神社の周囲でキリスト教が神道を排斥しても気にしなかったりする。
これだけ適当極まりない信仰なのに続いている事自体が奇跡であり、神道が正当、且つ
最先端の宗教である事を証明している。

お盆シーズンの靖国神社に行くと面白い。全国から右翼や暴走族が大集合し、黒スーツ
にサングラスの人相がよくない人や特攻服を着た愚連隊が大汗をかきながらやってくる。
しかし彼らは暴れるわけでもなく大人しく参拝したり世間話をしたりしている。自衛隊員
や元帝国軍人の爺さん、単なる軍事オタクやニワカ右傾化のオタもやってくる。おそらく
日本で一番やっかいな人が大勢集合する場所であり、それでも大した騒ぎが起こるわけ
でもなく平和そのものだ。多少神社の外で小競り合いはあるようだが大きな事件という
ほどでもなく、DQN高校のケンカ以下の規模だ。お盆の靖国神社は日本の民度が一番現れ
ている場所であり、いわば神社のアンテナショップだ。もしここで騒ぎが起こるような
事があれば、それは即ち革命や大きな変化の時代の到来を意味する。黒スーツの右翼の
オッサンが額の汗を拭うのに使っているハンカチが血に染まる時、大東亜戦争は終結し
新たな戦いが起こるのだ。靖国神社は死者が大きく取り扱われる特別な神社だ。


紆余曲折を経て洗練され、大抵のことには動じず、どんな怪しい者でも許容し、時の
権力者に利用されても耐えてきた神道だから、罰当たりな神道アニメやマンガやゲームも
大目に見てもらえている。というか、たぶん日本の神様はアニメやマンガやゲームが
好きなんじゃないかとも思える。「うはwwwオレがマンガに出てるwwwワロスww」
「ちょwww勘違いにもほどがあるwww神話くらい嫁www」「オレんちにエマ中尉の
絵馬かけた奴ちょっと来い」など「神VIP」にスレ立てしているニート神すらいるかも
しれない。「アメノウズメのエロ画像よこせ下さい」というスレに「zipでクレ」と麻呂AA
が貼られている可能性も否定出来ない。八百万の神は日本国民と共にあり、民草が
変われば神も変わり、天皇も同様だ。



そんな都合のいい解釈に成功したpcfxは「かんなぎ」のスピンオフ作品の「かんぱち」が
気に入っている。「かんなぎ」も面白い作品だが、「何らかの天罰」によって連載が中断
していた間に、かんなぎ作者の兄という噂の「結城心一」が描いたマンガが「かんぱち」
だ。以前から結城心一のマンガは読んでいたが、正直悪い意味で「よくわからない」
マンガだった。わからないながら「ちろちゃん」の絵が気に入っていたのでコミックスを
買っていたが、虫ネタにどうしようもない違和感を感じていた。だが「かんぱち」は
違和感なく楽しめ、特にコミックス冒頭6Pの1コマ目の「潰れかけたかんぱち」の絵が
非常に気に入った。「カワイイ」と「みにくい」と「みっともない」と「おかしい」が
絶妙にブレンドされたその絵は、これを描くためにマンガ家になったのではないかと
思えるほどの傑作だと信じている。「かんなぎ」よりも面白い。両作者に失礼を承知で
書いているがこれが本音だ。

以前このブログに「海洋生物マンガ」について書いたが、この「かんぱち」も海洋生物
マンガだといえる。日本は海洋国家であり、昭和天皇や今上天皇も海洋生物の研究者だ。
かんなぎ作者に「何らかの天罰」が下ったのは海洋生物成分がマンガに足りなかった
のかもしれず、血縁者の結城心一によってそれが補完されたのは因果なのかもしれない。
どうやら無事に神道マンガを描く際には、押さえるべきポイントがあるようだ。
夏の田舎の海で、死後裁きにあわないように別の宗教にも気をつけたいものだ。

とある魔術とか

2011年03月27日 | マンガとかアニメとかほんとか
「とある」シリーズはアニメしか見てないが面白い。最初に「とある魔術」を見た頃は
「なんじゃこの厨二アニメは」という感想だったが、見ていくうちに段々と面白くなり、
「とある科学」で好きになった。

宗教を扱う上で配慮はしながらも、かなり遠慮のないストーリーにしている。これでよく
あの宗教の関係者から文句が来ないものだと不思議にさえ感じる。これがイスラム教を
モチーフとしたものなら作者に暗殺指令が出ている所だろう。「十字教」という団体を
出してはいるが、その教義には触れずに「戦力」「能力」という点だけをパラメーター
のように扱っているあたりが現代日本的だ。一昔前であれば必ず「教義」に触れ、信仰の
心情をメインテーマにしたはずである。「とある」では力関係を数値化しやすいところ
まで下ごしらえし、そのパワーのぶつかり合いをメインに描いている。また人間関係でも
深いところまでを追わず、深い繋がりを持つ直前までしか描写しない。寸止めの人間関係
描写を補うのが主人公のセリフであり、かろうじて人間味を出している。これがなかった
ら本当にドライなパワーゲームで終わってしまう。それについては補いきれてないとも
感じられるが、ライトノベルが原作である事を考えると仕方ないのかもしれない。

ともかくアニメについては十分面白く、またヒロインたちのサービスも適切過ぎるほど
盛り込まれているところがこの時代の日本のアニメビジネスを象徴している。「とある」
シリーズは宗教と科学の対立という2大勢力の戦いのように見せながら、実際は現代日本
の「美少女原理主義」が常に勝利するという図式である。科学側が作り出した象徴が
御坂妹」達で、一昔前なら「数人」という設定であった筈が「2万人」というインフレ
になっているあたり、数値化を意識している作者の意気込みと狙いが漏れ出している。
つまりこの作者が表現したいポイントは、数量から見て「御坂妹」の「美少女クローン
2万体」だったと邪推する。本当は十字教や学園都市などはラノベを書く上での設定に
過ぎず、「美少女の群れ」という妄想を具現化したかったと受け取れる。

この邪推が仮に的を得ていたとするなら、この作者には「本当に書きたかったもの」を
ラノベなどの形式に囚われず、素直に表現してもらいたい。そしてそれは真に面白い物
になるはずだ。美少女を「個人」ではなく「群れ」として扱う場合にどんなストーリー
が生まれるのか、数量が好きな作者がどんな新しい概念を生み出すのか、非常に楽しみ
である。

上記の話を要約すると、pcfxは御坂妹を気に入ってるので、そこんところをもっと書け、
ということだ。何様のつもりなのだろうか。原作も読んでない奴がよく言えたものだ。


クローン少女は人格が不全になっている設定がいつの間にか不文律になっている。感情が
希薄で物静かで控えめで理系的だ。クローンであってもきちんと育成すれば非クローン
人間と同じようになるはずだが、クローンは培養液で育てるとか促成栽培するとか集団
で育てるとかいう決まりがあるようだ。愛情が一人ひとりに行き渡らないために人格不全
になるようだが、そんな事が誰得なのか考えれば避けるはずだ。だがここで重要なのは
そんな常識ではなく、「人格が不全な美少女萌え」というフロンティアが発見された
事だ。エヴァの綾波もそのモデルの一人だが、これは精神や人格に問題があっても
「美少女」という1点さえクリアしていれば性の対象にできるという発見だった。白痴美
という言葉があるがそれに近い。

現実の女性が段々と人間化して扱いにくくなっていくと同時にこの傾向は進み、クローン
であることで自分の存在価値に自信が持てず、また生育が不十分で人格形成が不全な事
から扱いやすそうな対象が作り出されたものと思われる。だから自信満々で感情的で
凶暴な性格のクローン少女はウケない。そんなのは現実の女性でお腹いっぱいだからだ。
御坂オリジナルは自信満々で感情的で凶暴である点がそれを表現している。それだけでは
魅力のないキャラになってしまうので、時折過剰なデレを入れて補完されている。

御坂妹達は解放後、社会参加への努力を続けている。本当はそのままでいて欲しいもの
ものだが、社会に溶け込む経験をしていく中、色々勘違いして失敗する様子もそそる
ものがある。これは少女が大人になっていく過程と同じものであり、その有り様は
ロリ趣味に共通するものだ。外見は中学生でありながら中身は幼女というかなり都合の
いい合わせ技であり、「左手薬指に指輪をはめると勝ち組」という断片的な情報に翻弄
されてしまうあたりに隙が伺え、その筋の男を惹きつける巧妙な罠だ。

また「小萌先生」は外見が幼女で中身は大人という、ある意味最強で合法なキャラだ。
部屋にはビールの空き缶やタバコの吸殻が山積していながら、外見はあくまでロリで
幼女服を着ている徹底ぶりだ。「とある魔術2期」ではその扱いが軽いが、それは
エセロリは本物に劣るという優劣に従った結果とも受け取れる。また「インデックス
はストーリーの中心にいたはずだが、いつの間にか「つい忘れがち」なキャラになって
いるようだ。立場上男を受け入れられないキャラには幻想を維持し続けるのが難しい
というのが理由と考えられる。またインデックスは面倒で手がかかるという子供の欠点を
並べた結果、「都合の良い、言う事を聞く少女」という需要から外れている。

登場する女性キャラは激しい魅力競争を強いられている上、上条の「男女平等パンチ」で
顔を歪ませられるキャラもいる。上条の「不幸だ」という口癖が現在の女尊男卑社会を
表し、「男女平等パンチ」がそれをノーマライズしようとする。ここに作者の強い意思を
感じ取れる。上条の右手の性質と共に、サディズムが作者の性癖の本性だ。姫神の放置
プレイっぷりも見事だ。


白井黒子の外見はロリ趣味にストライクするものだが、中身は最も醜く描かれる。百合
キャラ
は大抵主人公を邪魔するというパターンで描かれるが、ここでもその王道を踏襲
している。その結果ウザいキャラという位置づけになりがちだが、ギャグ要員としての
キャラ付けがそれを曖昧にした。また声があの人でなければ黒子の魅力は半減したに
違いない。声優に救われたキャラとして今後も記憶に残り続けていくだろう。




視聴者には多数の巧妙な罠が待ち受けており、全ての女性キャラを避けて通るのは難しい
地雷原だ。これだけの地雷を仕掛けるには相当の努力を要した筈であり、その点だけでも
他のハーレム系を抜きん出た稀有な作品だと言える。これらpcfxの感想は作者には甚だ
不本意でファンには異論ありまくりかもしれないが正直なものだ。歪んだ見方しか
できないのだから仕方がない。だが心底面白いと思っており、「とある科学」の2期が
今から楽しみで仕方ない。

イカサマ商売

2011年03月24日 | マンガとかアニメとかほんとか
商売というのは「代行して手間賃を取る」という行為であり、代行しないのに手間賃を
取ったり、手間賃が高額過ぎて自分でやったほうが効率がよかったり、代行が中途半端で
代行させる必要がなかったりするのは商売とは違う。

「手品師」という商売がある。不思議な技を見せて観客を驚かせ、その代金を徴収する
商売だ。ここで重要なのは「不思議」を見せる事であり、不思議を解決する事ではない
という点だ。手品の後に種明かしをするのを観客は望むかも知れないが、それをして
しまうと手品師の商売が続かなくなってしまうばかりか、観客も実は興醒めしてしまう。
不思議なものを見たという興奮と謎を売っているのであり、買っているのだ。だから
手品師は種明かしをするべきではない。別の人間が種を解明し、その情報を売るのは勝手
だが、それを手品師自身がその場でするものではない。しかし手品の種は皆がどうしても
知りたい情報だといえる。恐らく金を出してでも知りたいと多くの人が思うだろう。



話は大きく変わるが、「声優」という商売がある。声優は通常、画面に出てこない商売
だが、現在は平気で出てくる。声優雑誌は声優の写真がこれでもかというほど掲載され、
アニメDVDの特典映像などで声優が出演するものもある。もうそれが普通になって
しまい、絶対に顔出ししないという声優がいるという話を聞いたことがない。もう声優は
画面に出るものになった。

ファンにとってお気に入りの声優がどんな顔をしているのかは大変気になるものだが、
情報がなかった昔と違って、今ではネット検索で一発で知る事ができる。そして知って
しまったとき、なんとも言えない違和感を覚えることになる。ファンがどのように想像を
するのも勝手だが、それは大抵声優本人のイメージとピッタリ合致することはない。
「意外によかった」「意外に悪かった」の2通りの結果になるのは明らかで、イメージは
美化されやすい性質を考えると「意外に悪かった」という結果になる事は明らかだ。

そのようなリスクを知りながら、逆に声優の顔を売っていこうという方針に切り替え、
「アニメキャラのアフレコ声」を売るのではなく「アフレコをする人」を売る商売を
始めた。

アニメのキャラは大抵実在しない人物だ。そのキャラの性格や外見や年齢に相応しいと
思われる声優をオーディションで決め、演技してもらい収録する。その際に行われるのは
まさに「魔法」であり、命のないものに命を与える行為に等しい。アニメキャラでも
声優本人でもない、第三の人格がそこに宿る。

声優に詳しい人はその時流に乗り、頭の中に常に数十人の声優の顔がある状態で次の
アニメのキャストを知ると、脳内顔リストから選出されて「ああ、あの人か」とキャラと
声優の顔が結び付けられる。だが詳しくない人は「このキャラの声いいな。誰が声を
当ててるんだろう」という想像をすることになる。そして調べれば確認できるように
なっている。そして上記のように「意外に悪かった」という感想を持つのだが、それを
主張すると「お前の勝手な想像と違ったからといって否定するな」と批判されてしまう。

これを手品の話と比較すると、声優が手品師で、舞台で手品を披露する。不思議な現象を
観客に見せ、代金を徴収する。ところがその手品の種は観客のほとんどが既に知って
おり、手品の最中に「ああ、あの手を使うのか」と種を解説する観客もいる。それを
聞いた、初めて見に来た観客が「なんだ、そんな仕掛けだったのかつまらん」と発言
すると、周りから一斉に「つまらんとはなんだ!」と叩かれるのだ。主催者側からも
「お客さん困りますねそんな事を言われては。種を知ってるなんてのは常識なんですよ」
と詰られる事になる。ここの観客は手品を見にきているのではなく、手品師を見に来て
いたのだ。主催者も手品を見せているのではなく、手品師を見せて代金をもらっている。
手品師も手品を見せているのではなく、手品師自身を見せているのだ。この場合、場違い
なのは「初めて見に来た素人」になる。

どちらが正しいとかそんな話ではなく、もう既に声優という商売は声を当てるものでは
なく、自身を披露して代金を取るものになってしまっているということだ。だから本来の
声優としての演技力とか声質と同等に、どれだけ見た目が良いかが重要になっている。

ではこれは「俳優」とどう違うのだろうか。結論から言えば同じだ。つまり「声優」と
いう商売は、実はもう「なくなってしまった」のだ。ところがまだ「声優」という商売が
あるかのように宣伝している。これは非常に紛らわしい商品表示であり、行儀のいい商売
とはいえない。


さて商売とは「代行して手間賃を取る」ものだが、現在の声優のあり方に何を代行して
もらっているのだろうか。こちらは幻想を買いたいのだが、せっかく手にした幻想を
「実は私は本当はこういう人間なんです」と後から説明されてしまう。そんな情報は
知りたくなかったし、それがいくら現実だったとしても、幻想が台無しにされては買った
意味が無い。これはある意味契約違反であり詐欺に等しい。第三者が「現実の声優」を
調べてスッパ抜くのは勝手だが、本人が自ら「私は実はこういう人です」というのは、
手品師が手品の直後に種明かしをするのと同じであり、観客は興醒めして、おそらく
二度は観に来ないだろう。だから現在の声優の寿命は短く、すぐに飽きられ、使い捨て
られていく。当然の結果だ。

手品師は観客を騙すのが商売だが、それは舞台の上だけで騙すのが商売なのであって、
「こうやって騙しました」と暴露するのが商売ではなく、代金の額を騙すのも違う。
そこをハッキリさせておかないと、せっかくの楽しい興業が台無しになってしまう。
詐欺を前提にした商売は一時的に儲かるかもしれないが、長くは続かないものだ。
また、イカサマはバレないようにして初めて儲かるものであり、見つかったらそれまで
だという事も忘れてはならない。

そういった点で声優関連でオタクが騒ぐのは当然であり、騙しきれなかった声優が
叩かれるのも当たり前のことだ。そういうリスキーな商売をしているという自覚を
持たなければ消えていくだけだろう。「そんなつもりで声優をやってない」などと
言っても、実際はカワイイアニメキャラの「フリ」をして幻想を売ったのだから仕方が
ない。一旦「フリ」をした以上は「フリ」を続けないと「騙した」事になってしまう。
オタクはその「フリ」に金をかけたのであり、声優自身の現実や中身を買ったわけでは
ないのだ。その「騙し」は法律では裁かれないから、オタクも法律で裁かれない範囲で
復讐するわけだ。ある意味フェアな戦いだ。


pcfxはそれほど声優に入れ込んではいないが、基本的な心情は声優オタと同じだ。やはり
うまく騙してほしい願望はある。オタ相手の商売をしておいて「わたしはオタが嫌い」
とか言ってほしくない。非常に可愛らしいキャラを演じておきながら「正直やりたく
なかった」とか暴露してほしくはない。そしてそれは商売を抜きにしても、日常の対幻想
としての希望でもあり、男性は女性の本性など知りたくはないので上手に演技していて
ほしい。その演技ができなくなった事が非婚や少子化や疎外の原因になっているのだ
という現実にそろそろ皆が気がつき始めたが、その後どういう世界がやってくるのかは
まだあまり気がついていない。自我の肥大が進んでコミュニケーションを絶つ時代に
突き進んでいるのだけど、それはそれでいいんじゃないかと思える。どうせ誰も止められ
ないし、もともと意識とはそういうものだからだ。

「オタ」であること

2011年03月16日 | マンガとかアニメとかほんとか
「あなたはオタクですか?」と突然聞かれたら、あなたは何と答えるのだろうか。

恐らくその答えは「質問した相手や、質問されている状況によって変える」ではないだ
ろうか。つまりこの設問が間違っているのであり、もっと正確に聞き出す質問が他に
あるということを示している。

「世間」を「リア充空間」だとするなら、そのリア充空間で「あなたはオタクですか?」
と質問される事は、「あなたは下層民ですか?」という階級確認と同じだ。なぜなら
「リア充」というのは「弱肉強食社会での勝ち組」を表すのであり、その価値観は体育会
系思想やエリート意識に支配されているからだ。「オタク」はその競争や価値観を否定
した人たちであり、リア充空間ではそれは「敗者」に等しいからだ。そんなアウェイで
自らの弱点を晒すのは、無謀か自滅である。だからリア充空間での設問の答えは、
「いいえ違います」が正しい。フェアでない戦いは欺くべきだ。特定宗教の原理主義者が
紛争を起こしているような状況で、異教徒であることを自分から声高に叫ぶのと同じだ。

もし「オタク」であることを許容される空間や相手であるなら、選択肢は2つ許される。
「はい、オタクです」もあり得る。だがここで注意が必要だ。そんな当たり前な質問を
わざわざする理由とはなんだろうか。例えばコミケ会場の中で取材でもないのにその
質問を投げてくる人がいたとしたなら、少し頭がイカレているか、超初心者という事に
なる。イカレた人はその会場にはたくさんいるので無視するとして、超初心者に対して
「はい、オタクです」と答えても、相手は超初心者なのでこちらの意図した「オタク」を
正しく理解できない筈だ。彼の頭の中には未熟な認識と間違った情報しかないのは明らか
である。だから軽々しく肯定するのは間違っており、まず彼の「オタク」認識がどの程度
のものであるかの情報を引き出し、レベルを見極めなければならない。しかしそんな質問
をする彼が高度な理解をしているわけがないので、どうしても答えなければならないの
なら、正しい答えは「いいえ、違います」だ。答えなくてもいいのなら無視するのが
ベストソリューションだ。

「あなたはオタクですか?」という質問自体が間違っているのはこのような理由による。
わざわざ聞く必要のない事であり、大抵の場合「見ればわかる」「話を聞けばわかる」
「雰囲気でわかる」「状況でわかる」というものだ。
言い換えればこの質問は「あなたは人間ですか?」という問いと同じだ。人類が知る
限り、言語を理解する動物は人間だけだ。だからこの質問自体がナンセンスなものに
なる。人間であることは、相手が見えていれば「見ればわかる」、声が聞こえれば
「聞けばわかる」、気配があれば「雰囲気でわかる」、痕跡があれば「状況でわかる」
のだ。

「あなたは人間ですか?」と改めて問われる場合、それは侮辱と敵意を表す。とても
人間の所業と思えないような事をされ、「それでも人間か!」と言われているのだ。

「あなたはオタクですか?」も同じで、この質問は侮辱と敵意を表している。とても
自分と同じ人間とは思えないと侮蔑され「それでも人間か!」と言われているのだ。


さて、そんな扱われ方が酷い「オタク」だが、昔はどうだったのだろうか。pcfxの知る
限り、70年代は「マンガさん」という「マイルドな変わり者」の扱いだった。子供向け
ドラマ「ケンちゃんシリーズ」にも「マンガさん」が出てくる。彼は温厚な人物で子供の
味方というスタンスだ。いつもマンガを読んでおり、ケンカには役に立たないが子供に
知恵を貸してくれる役割として描かれていた。

80年代中盤になると、ここで「オタク」という言葉が広まり始めた。だがそれはあくま
で「仲間内での自虐呼称」に過ぎなかったのだ。「オタク」が何をしているのかなど、
「リア充」は全く情報がなく知らなかった。また、その頃「ロリコンブーム」が到来し、
少女を描く風潮が一気に加速した。だがマンガといえば「ジャンプ」という認識しかない
人々は、水面下でそのような動きがある事など全く知らないままだった。80年代の
終わりに、「宮崎勤事件」が報道された。彼がアニメや特撮のビデオを大量に持っていた
事を繰り返し強調して報道されたため、「オタク」という「仲間内での自虐呼称」も
広まった。その結果世間の認識は「オタク=ロリコン=性犯罪者」に固定された。

90年代も宮崎勤事件の印象が続いていたが、一方で「オタク」の一般化が広まって
いた。一般化したのには色々な理由が考えられるが、pcfxは当然の成り行きだと考える。
60年代に特撮、70年代にアニメ、80年代にゲームという娯楽をしてきた者は、
長年刷り込まれてきた文化に親和する。「オタク」であることの自覚は否応なしに出る
ものだ。その自己を密かに認めたのが90年代だった。自覚したら、あとは開き直って
生きるしかない。特撮→アニメ→ゲームという人生を送った者が、今更他の何になれる
というのか。これでいいのだ。と皆が安心していた。
そのような開き直りと自己肯定を真っ向から叩き潰すアニメが「エヴァンゲリオン
だった。ウジウジした主人公シンジを無理矢理に視聴者に同一視させ、謂れのない反省や
罪悪感を強制する酷いアニメだ。そのタイトルが示すとおり、これはキリスト教の文化
侵略と同じで、一方的な価値観の押し付けと偏見に満ちた自虐アニメであり、「オタク」
が「リア充視点」で「オタク」を見るという二重三重に歪んだ世界観で、批判精神もなく
価値相対化もできない未熟な若者を迷わせた罪深い作品だ。pcfxは正直嫌いだが、全作を
見ている。怪作であり異色作であり問題作だから名作なのだろう。嫌いだが面白い。

00年代は「オタク」の一般化が加速した。相変わらず「オタク=ロリコン=性犯罪者」
という世間の認識は変わらないが、一方でオタクが激増し、数に物を言わせて無理矢理
に世間の認識をマイルドな方向に向けた時代だ。「もうその認識は時代遅れだ」という
主張を引っさげて、それまでひた隠しにしてきた「オタクである事」をほのめかすように
なってきた。理不尽な差別に対して数で圧倒して対抗するかのようにコミケの入場者数
は増えていき、「聖地巡礼」と称して神社に大勢のオタクが参拝し、「ほら、オタクは
こんなに安全な人間ですよ、金も遣いますよ」とアピールした。「オタク」は趣味の
一典型であるという普遍化が進み、ネットによって国際的にも日本のアニメ文化が浸透
していった。宮崎勤事件から差別されてきた「オタク」は、ようやく理不尽な差別の
大部分から開放されたのだ。しかし「リア充」と呼ばれる「非オタク」な人々との価値観
の溝は埋まっておらず、世間は現実原則と競争社会によって動いているとの根拠から、
その価値観と適合する「リア充」による「オタク」の差別はまだまだ続いている。

また、同じ「オタク」ではあっても、「ライト層」と呼ばれる表層的な部分だけで満足
するタイプの「なんちゃってオタク」がオタク人口増加によって大量に発生した。
ライト層は人口が多く、選択眼のなさから嗜好が広く購買力も強いので、マーケットは
この層をターゲットに商売を展開するようになった。その結果「萌え」の粗製濫造が
起こり、アニメを作るための原資を「似たようなものばかり」のラノベに頼るように
なってしまい、文化そのものが陳腐化していった。これは「オタクの質の低下」を意味
し、「オタク」が心から楽しめる作品がなくなるという本末転倒な事態になった。
今後「ライト層」と「トゥルーオタク」は分裂し、お互いに反目しあう関係になると
思われる。「リア充」と「ライト層」と「トゥルーオタク」の三つ巴の醜い争いが展開
され、それは三竦みとなる。トゥルーオタクがライト層をバカにし、ライト層がリア充を
バカにし、リア充がトゥルーオタクをバカにする関係が続いていくのだ。


「あなたはオタクですか?」という質問は「リア充」がするものであり、その質問に
正直に答える者に被差別階級の烙印を押すのを楽しんでいる。だからその答えはいつでも
「いいえ、違います」で固定であり、肯定する選択肢はない。

「リア充」が上位だというのは彼らの価値観であり、彼らはリアルは充実しているかも
知れないが、内面世界は非常にお粗末なものであり、現実主義者であろうとするあまり、
誰が仕組んだかもわからない、目的すらわからない競争社会でのたうち回る。また内面が
粗末なもの同士の繋がりがいくら充実していたとしても、そこには対した価値などない。
軽薄な者たちが軽薄な関係を築いているだけなのだ。



pcfxは「あなたはオタクですか?」という問いに、今、あえて「はい、そうです」と
答える。先ほど「そんな選択肢はない」と書いたばかりだが、このブログのプロフィール
に既に「オタ」と書いている。今更隠しても仕方がない。そして世間やリア充の偏見に
対抗するだけの覚悟がある。但し、本当にオタクなのかという点については自信がない。
pcfxは純粋にオタク趣味だけを歩んできたようなエリートオタクとは違う。女をとっかえ
ひっかえし、風俗に入り浸り、繁華街で遊びまくり、海外で女の尻を追いかけまわし、
イカレたバンドに参加し、行かなくてもいい紛争地帯に行き、変わり者としか交友関係を
結べないような人間だ。そう考えると自分は「変わった人」ではあるかもしれないが、
オタクとしてエリートとはとても言えない。「リア充」だったとも胸をはって言えない。
「リア充」は自らの立ち位置に、根拠はともかく絶対の自信があり、決して「オタク」
に理解を示そうとはしないものだ。だからpcfxはどっちつかずの中途半端な人間だ。

だが、自分が今までやってきたこと、関心があった事などを総合的に考えると、やはり
pcfxは「オタク」以外何者でもない。価値観も現実原則や競争を好まない。その結果、
自分自身を「オタク」と位置付けるしかなかった。実際、「オタク」とカテゴライズ
される人には、こういう人も多いのではないのかと考える。誰もかれもがエリートでは
ないはずだ。


とはいえ、同類である「オタク」のある種類の人に対して、拭い去ることができない
嫌悪感を抱いているのもまた事実だ。「キモオタ」は「キモオタ」であり、それはやはり
「キモい」。「オタク」であるかどうかは関係なしに、「キモい奴」は「キモい」のだ。
彼らと一緒にされては困るという認識が、2010年代に顕在化されると予測する。
これからは「オタク」から「キモい人」を分離する試行錯誤の10年になるだろう。

みなみけ

2011年03月16日 | マンガとかアニメとかほんとか
ここ最近で最も繰り返し見ているアニメは「みなみけ」だ。どこが面白いのかと問われる
と答えにくいが、「あずまんが大王」以来、繰り返し見たくなる稀有なアニメなのだ。

それだけ好きなくせにマンガは一冊も買っていない。書店で見かけて手を伸ばそうとする
のだが、なぜか購入に至っていない。pcfxはニワカなのでみなみけを知ったのはアニメ
からだ。恐らくアニメの出来が良すぎたため、そのイメージがマンガと違う事に対する
恐れのようなものがあるのだろう。他の作品でそのような経験をしているので、繰り返し
たくないという心理が働いているものだと思う。作者には大変申し訳ない気持ちだが、
これを書いて自分の考えや恐れを具現化したので、そのうちに購入に踏み切るかも知れ
ない。

pcfxが「みなみけ」で好きなキャラは「内田」「冬馬」の二人だ。「冬馬」については、
「アイマス」で「」が好きというpcfxの性癖から、自分でも納得がいくものだったが、
「内田」が好きな理由は判然としない。「内田」の役柄はあくまで脇役であり、冬馬と
違ってその家庭事情までは語られていない程度だ。「内田」は確かにカワイイキャラ
だが、「みなみけ」には他に大勢のカワイイキャラがいる。「吉野」でもよかった筈だ。

「内田」を気に入った瞬間を思い出してみると、「1万円くれるおじさん」の下りだった
と思う。「1万円」や「5千円」というキーワードに反応する事から、「内田」は隙が
ある少女として夏奈に心配される。この一件でわかるのは、「内田」は「こましやすい」
という可能性を持ったキャラだということだ。「こましやすい」ので、最も手近なロリ
キャラだという認識を持てるのだ。この点で「吉野」は天然ボケ過ぎ、隙はあっても
懐柔しにくいという壁がある。恐らく話が通じず、こちらの要求の意図を詳細に述べ
なければならないという面倒くささを感じる。

その点「内田」は金さえ与えれば、それに見合う代償を支払わなければならないという
ビジネスセンスを理解するはず、との期待を感じさせている。つまりその一件で「内田」
は援交キャラとして位置付けられ、その将来像は「ギャル」ということになる。初詣の
際、夏奈に100円を借り、返す段になってそれを渋るというエピソードから、「欲深い
娘」という印象が強化された。よって「内田」は善人ではないということになり、その
行動と境遇は全て「自業自得」という一言によって切り捨てられる立場にある。同情も
共感も得られない「汚れキャラ」になった。

夏奈の壊したアクセサリーの代替品を探す場面では、自費でクレーンゲームにつぎ込む
シーンがある。この行動は「内田」の性格と一見矛盾するように見えるが、初詣の時に
小遣いを全てテキ屋商品に使ってしまう点を考えると、単に「金遣いが荒い女」である
という結論で間違いないように思える。
だがまだ子供なので「金銭感覚が緩いという許容」を受ける資格があり、また外見や振る
舞いのかわいさによって、そのあたりはうやむやにされている。
「内田」は「まこちゃん」の女装に協力する共犯者だ。頻繁に「南家」に世話になって
いながら、その住人の二人を騙している。その一方で千秋や夏奈の指示には服従する傾向
があり、強い主体性は持っていない。

総合して「内田」を考えると、他のレギュラーキャラと比べても、実にリアルな性格を
与えられていることがわかる。脇役に過ぎないし、家庭などの背景もあまり語られない
が、その性格の情報量は非常に多い。そして金に弱いという点で視聴者に淡い期待を
妄想させるという「セクシーさ」を持っている。「汚れ」なので手を出した場合の想像
にも罪悪感も起きにくいという、非常に完成された罠がそこにある。

「みなみけ」では夏奈や保坂など魅力のあるキャラが満載だ。ストーリーを牽引する
夏奈が主人公のように思えるし、それとは別の次元で存在感を持つ保坂は非常に印象が
強いが、pcfxは「内田」のリアルな小学生女子の描写こそが「みなみけ」の中核にある
と邪推している。「みなみけ」には直接のエロ描写こそないが、登場人物の多くが少女
であり、彼女らの「日常の行動」に潜む「お色気」を実にサラっと描いている。その
視点は女性のものではなく男性のものであり、「日常の行動だから普通」という設定を
あくまで貫きながら、それを覗き見るエロスに溢れている。これらは「今日の5の2
にも通じ、児童の中にあるエロスを「日常」という体裁でギリギリに表現する。

作者の嗜好が作品を描かせているのなら、間違いなく「内田」はその象徴であり、最も
完成された作者の欲望の具現だ。「内田」をお気に入りのpcfxも同類であり、またここに
恥を晒すことになった。

佐々木倫子のマンガ

2011年03月11日 | マンガとかアニメとかほんとか
pcfxは少女マンガをよく読んでいた時期がある。岩館真理子、川原由美子、川原泉などを
好んで読んでいた。そんな中、佐々木倫子のマンガを雑誌で読んだ。基本的に絵柄は
少女マンガだったが、どこか「妙」な匂いを嗅ぎつけた。登場する男達が変人ばかりで、
ストーリーは恋愛に向かわない。出てくる女性も変人が多く、少女マンガの皮を被った
ギャグマンガである。読書傾向や趣味が素直に作品に現れ、作者の人格が透けて見える
ようで安心できる。後書きでの妹とのやりとりが本編と同じくらい面白く、もうそれで
マンガを一本描けばいいのにとさえ思える。

書店に行くたび、佐々木倫子の名前を見ると即購入している。現在の「チャンまま」でも
それは続いている。佐々木倫子のマンガは安心のブランドなので、「今回は面白いのか」
などの懐疑は無用だ。作風は多彩で飽きさせない。だが全てに笑いの要素がある。

佐々木倫子のマンガで一番有名なのは「動物のお医者さん」だろうか。動物が出てくる
という要素が大ヒットの理由なのだろうが、出てくる人々の変人っぷりが単なるヒット作
の域を越え、伝説になっている。漆原教授や菱沼さんはともかくとして、主人公の
ハムテルですら変人である。出てくる動物でさえどこかにクセのある変わった性格が
強調されており、佐々木倫子のマンガは「変人モノ」というジャンルだと確信する。
動物のお医者さんはドラマにもなった。その配役がまたとてもハマっており、普段ドラマ
など見ないpcfxが何度も見てしまうほど面白い。ハムテルと二階堂はアレだったが。

マンガの菱沼さんはpcfxが大好きなキャラであり、割と本気で嫁にしたい女性だ。菱沼
さんを超えるマンガの女性キャラは今後も出現しないと、割と本気で思っている。低血圧
萌えであり、痛覚鈍感萌えであり、理系女萌えだ。pcfxが必要とする女性の魅力が全て
揃っており、神々しさすら感じる信仰の対象である。

最新作の「チャンまま」は今までにない味がある。主人公の目が大きく描かれており、
少しアニメ絵の雰囲気がある。動物のお医者さん以降、「職業」をテーマにした作品が
続いており、今回もTV局という業界の職業がテーマになっているが、これまでと違うのは
コミカルさが非常に強く描かれ、アニメを意識した作風になっている事だ。TVはもう
枯れたメディアになってしまったが、佐々木倫子なら林業でも絶望ハンバーグ工場でも
面白い作品が描けるだろう。テーマはなんでもいいのだ。変人さえ登場すれば。


佐々木倫子に異色作があるとすれば、それは「月館の殺人」だろう。前々から佐々木倫子
がミステリー好きというのは何かで知っていたが、遂に本格的なミステリーマンガを
描いてもらえた。積年の願いが叶ったのだ。原作が綾辻行人なのでミステリーとしても
楽しめる。ミステリーといえば時刻表トリックを使った鉄道殺人事件は王道だが、この
「月館の殺人」も鉄道モノだ。ミステリーなので詳細は書かないが、登場人物が「テツ」
と呼ばれる鉄道マニアばかりという、ある意味禁じ手な設定なのが佐々木倫子の作品に
ピッタリだ。主人公以外の主な登場人物が全員「テツ」であり、鉄道マニアにありがちな
困った行動が騒ぎを呼ぶ。乗りテツ、撮りテツ、盗りテツ、模型テツ、時刻表マニアと
一揃いしている。上下巻という構成で、下巻の最終章は紙の色が変わる「解決編」と
なっている。鉄道マニアの王「キング・オブ・テツ」も登場する、ミステリーなのに
笑える「変人マンガ」だ。鉄道に興味のある方に特にお勧めする。下巻巻末の黒い紙をよく
見るとまた面白い。

他にも、変な看護婦「おたんこナース」、変なレストラン「Heaven?」など、どれを
読んでも面白く、変人が楽しめる。もっと過去の作品も面白いので、ハマったら購入
してみてはいかがか。そちらも変人だらけだ。

萌えアニメ

2011年03月09日 | マンガとかアニメとかほんとか
現在のアニメやマンガには強迫的なまでに「美少女」が登場する。もうどうしても登場
しなければならず、しかも女性キャラのほぼ全員が美少女でなければならないようだ。
美少女でない女性キャラを出す場合は、特殊な設定を作って言い訳しなければならない。

80年代、オタな青少年の間で「女の子の絵」を描く事が一種の「文化」だった。今もその
傾向は続いている。「右斜め45度のバストショットのアニメ顔少女」を一定のクォリ
ティで皆が皆描くのだ。描けないと「字が書けない人」と同じだという雰囲気さえ
あった。それを描けて当たり前という風潮だったが、それ以上の絵を描ける人は少ない。
どこまでいっても「右斜め45度のバストショットのアニメ顔少女」以上には進歩しない
という所まで皆一緒だった。

pcfxも大体同じで、中学生の頃、誰に強制されたわけでもないのに自発的に女の子の絵を
描いた。やはり「右斜め45度のバストショットのアニメ顔少女」だった。描いてみよう
と思ったきっかけは忘れたが、たぶん「とり・みき」の「クルクルくりん」あたりで
触発されたような気がする。それまでも松本零士的な絵は描いてみた事があった。メカが
主ではあったが、メーテルの顔もがんばって描いた。余談だが(余談しか書いてないが)
メーテルは1話あたりでは「カワイイ」印象だったのに、すぐに「美人」に変わっていた
のが残念でならない。

「右斜め45度のバストショットのアニメ顔少女」は友人たちも「描けて当たり前」と
いう風潮で描いていた。ゲーセンのノートに描いたり、D&Dのキャラクターシートだった
りしたが、その美少女の年齢は概ね中学生から高校生という設定だ。明確な既存のキャラ
もあったが、多くは「オリジナルキャラ」であり、名前をつけていた人も多かった。
そのキャラでマンガを描くわけでもなく、ただ淡々と「右斜め45度のバストショットの
アニメ顔少女」を描きまくる。今見ると恥ずかしさで発狂しそうになるが、当時は
「どうだすごかろう」といった根拠のない自信に満ち溢れて描いていた。

その世代が成長した結果、今のような「萌えアニメ」の風潮がある。若かりし日の厨二的
な「右斜め45度のバストショットのアニメ顔少女」を描かなければという強迫観念が
今日に繋がっている。我々は一体なぜこのような強迫を持っているのか。


70年代は現在よりもかなり「男女」の住み分けがなされていた。男の子は男の子用の
文化だけを許され、女の子用の文化に抵触するのは「恥」であった。男の子は外で野球
などをするのが「良い」とされ、最低でも男の子用のマンガである「少年誌」を読む
のが許容限界だった。そのマンガでも「スポーツ」が幅を効かせ、ギャグマンガなどは
あくまで「くだらないもの」という位置付けで、王道はストーリーマンガだ。

その一方で「エッチマンガ」というカテゴリーがあり永井豪などに代表される。
エッチ」なので女性が登場する。そしてそれは最大限のセックスアピールを誇示
しなければならないので「美しく」描かれた。「エッチ」が目的ならば男の子であって
も女の子の絵を楽しんでもよいという、少々納得いかない理由付けがあり、毎回理不尽な
理由で脱がされる美少女キャラを眺めて性的興奮に悶々とする。

男の子が女の子用のマンガである「少女マンガ」を読む事は、体面上は「恥」ではあった
が実際には機会があれば読んでいた。少女マンガは恋愛ばかりであり、着飾るばかりで
あったが、恋愛に疎い少年にとっては「恋愛はこうするのだ」というハウツー本のような
妙な興味を引くものだった。少女マンガに登場するのはやはり女の子であり、女専用の本
に描かれたものだから「それが本当の女の子の姿なのだろう」というおかしな幻想を、
少女マンガを盗み読む少年たちは持ってしまった。


そんな経歴を共通に持つ少年たちが青年の入り口に立った時、色々と真実を知ることに
なる。スポーツは楽しくない事、「エッチ」は生殖行為である事、少女が純粋でない事。
部活をやればスポーツをやる筈が上下関係で殴られたり、男女の仲で許容されるはずの
「エッチ」には「妊娠・出産」という罠があって禁止されたり、頭の中が恋愛一色で
ある筈の一途で純粋という話だった女の子は自分の好意を拒絶する事もあるという事実
を突きつけられる。おかしい。聞いていた話と違う。これは詐欺だ。騙しやがったな。

このような「社会の裏切り行為」に傷ついた少年たちは、スポーツに関心を失い、その
人間関係の延長である社会にも期待しなくなった。第二次性徴は大事なものと教え
ながら実際にはそれを疎外し禁止させ、「エッチ」に対しては「実行不可能なもの」と
いう諦観を持たざるを得なかった。しかもその「エッチ」の対象である女の子は
「拒絶する権利」を行使し、その拒絶の根拠は人間性ではなく損得勘定だという事に絶望
するのだった。

裏切られ傷ついた少年たちは安住の地を求めた。約束の地はここではなかったのだ。
いくら「それが現実」といわれても、納得できるものではない。そんな現実はクソ喰らえ
だ。少年たちは約束の地を探す旅に出る。そして割とあっさり理想郷を見つける。
無いのなら作ってしまえばいいのだ。

まず体育会系の否定によって文化系に傾倒する。「エッチ」を現実の女性に求める代わり
に「マンガ」で代用する。恋愛の対象を自己のイメージに沿ったものにして生産する。
その結果が「右斜め45度のバストショットのアニメ顔少女」であり、それが進化して
「萌えアニメ」になった。弱肉強食の競争社会を否定するので、主人公の男は「ダメ男」
なのに無条件でハーレムを手に入れる。女の子は拒絶というカードを取り上げられ、
「ダメ男」に隷属させられる。そして根拠も際限もない脱衣と性的接触を繰り返すのだ。
「エロアニメ」「エロマンガ」に至っては性的接触の域を超える。「妊娠・出産」という
ものまで充足しようとする。対象が幼女の場合もあれば「男の娘」の場合も許容される。

日本という現実社会の中にこのような仮想現実が溶けこんでおり、本来なら現実に絶望
してヤサグレるなり無気力化する人々の受け皿になっている。最近の風潮では政治が
これらの受け皿を取り上げようとしているが、そんな事をすればヤサグレた者が事件を
起こし、無気力な者が自殺するだけの結果が待っている。この現象は「現実の軋轢」から
始まったものであり、修復すべきは現実の方なのだ。

動物は本来、生存の為に自然界と戦っているもので、同じ種族で競争するのが目的では
ない。そこを履き違えて競争に主眼を置く価値観が蔓延している。また動物は個体が重要
なのではなく、種の保存が優先されるものだ。よって生殖行為で個体の心理的拒絶を助長
するような社会構造や権利付けは矛盾している。

そのような事を全世界的にやっていて、それらに矛盾を感じている者たちが国籍を問わず
にオタクになっていく。これは動物としての普遍であり無意識に肯定される。その象徴が
「萌えアニメ」であり、その強迫の正体だ。全ては「ノーマライズ」への渇望から
起こっている。現在既得権を持っている者からすればこれは脅威であり、弾圧したくなる
現象だろう。だから今後もオタクは迫害される。しかし、より真実に近く普遍的なのは
オタクの方であり、最終的には「現実のノーマライズ」が行われ、結果としてそのはけ口
だった「萌えアニメ」は使命を終える。オタクもその姿を見ることは極めて稀になる。



もし上下関係も競争もなく、男の思うままにエッチができ、女性の純粋性を固定化する
ような社会があったなら、それに不満を持つ連中が必ず出てくる。上下関係がないと
強制力がなく進歩が遅れ、競争しないと3流ばかりになり、誰の子かわからない子供が
溢れて教育が行き届かずバカが増え、女性の自由意志が制限される不満が爆発する。
そしてそんな社会に絶望した者たちが「スポ根マンガ」を描き、男女は生殖行為ばかり
ではないと説き、女性の本心を吐露する表現を行うだろう。

サブカルチャーには現状に足りないものが浮上する。強く不満がある事にはカウンター
カルチャーが当てられる。サブカルチャーはマンガ・アニメであり、カウンター
カルチャーはロリコンマンガだ。現在の世相の欠点はロリコンマンガに描いてある。
その証拠に権力者はロリコンマンガを弾圧するのだ。そこには都合の悪い真実が描いて
あり、それを論理的に否定できる者などいないからだ。それは自分の赤裸々な欲求であり
原始的な征服欲であり幼少期からの幻想だ。生殖可能年齢に達しながら出産させられない
という社会的構造・倫理の矛盾や福祉の欠陥であり、出産適齢期を過ぎた女性の価値に
適正な評価をする事、作中の弱者である少女への取り扱い方が現実の労働者の取り扱いと
酷似している点など、ヤバいメタファで埋め尽くされている。これをマイルドに仕上げた
のが「萌えアニメ」だ。

そんなヤバいものが面白くない筈がなく、拒絶する人は感性が鈍っているか既得権が
ある人だ。「持たざる人」は「萌えアニメ」などで満足せずに「ロリコンマンガ」まで
ラジカルに突き進んでほしい。弾圧に対して「ババア粉砕」と書いたプラカードでも
持って国会前を練り歩き、ゲバ棒や火炎瓶で武装してフェミ団体の施設に殴りこむくらい
の気概を持てるのなら、団塊世代をバカにしてよい。それができないのなら、黙って
「リア充」にバカにされている現状で満足するしかない。

サイコミュ高機動型試験用ザクとシムス

2011年03月03日 | マンガとかアニメとかほんとか
「ギレンの野望」というゲームをけっこうやり込んだ。その際pcfxが宇宙で使いまくった
のが「サイコミュ高起動型試験用ザク」。ジオングを作るための試験機という位置づけ
だ。よく「サイコミュ試験型ザク」と混同されるが別の機体だ。「サイコミュ高機動型
試験用ザク」は高機動型で足がロケットになっていて、高速で宇宙を飛び回ることが
できる。

初期のガンプラで発売された以外はHGにすらなってないので馴染みが薄いと思われるが、
pcfxはギレンの野望でだいぶお世話になった機体なので、このガンプラを購入して模型の
制作が上手なガンヲタの友人に作らせ、「シャア専用機にしてくれ」と頼んで赤く
塗らせた。ちゃんとツノもついている。

ギレンの野望をプレイした多くの人は、「なんでこんな機体使うの?」という感想
だろうが、地球を制圧した後に大気圏を守らせるのに非常に役立つのだ。この機体の小隊
にシャリアブルを乗せ、ララァを載せたエルメスを大気圏に張り付かせれば、もう安心
して宇宙でドンパチに専念できる心強いフォーメーションだ。

「サイコミュ高機動型試験用ザク」は両腕にメガ粒子砲を装備し、しかも高速なので、
大気圏に近づいてくる連邦の犬どもを早期に駆逐できる。そのかわりコストは高く、
失うとわりと痛い。設定では燃料量が少ないので実戦に向かないとなっているが、ゲーム
中にはさほどの扱いにくさはない。pcfxはコストの許す限り大量にこれを生産して
使いまくった。


シムスという女性の技術士官を覚えているだろうか。作中で「データデータ」うるさい
メガネの女である。少年時代からデータ至上主義の傾向があったpcfxは彼女のひたむきな
研究姿勢に感銘を受け、ザリガニアーマーがやられたときはハラハラしたものだった。
このシムスは木星帰りのおっさんというサンプルを与えられ、張り切ってサイコミュ
システムを開発していたわけだが、その後あっけなくブラウブロと共に死んでしまった。

「サイコミュ高機動型試験用ザク」にはシムスの集めたデータが役立っているはずで
あり、それは彼女の遺書で理系女の執念が込められていたはずだ。女だてらに最新技術の
最前線に立つには人に言えない苦労や軋轢を経験した筈であり、時には屈辱、あるいは
涙した日々があったと想像にかたくない。また決して美貌には描かれていない彼女は
化粧もお洒落も捨て、軍人として生きる決意を「データ収集」に込めたに違いない。



「サイコミュ高機動型試験用ザク」は、世間では「タコ」または「タコ足」と呼ばれる
事もあるようだ。試験機であるが故に決して洗練されたスタイルではないが、しかし
試験機特有のメカメカ感を感じさせる。シムスも決して人気キャラではないし、ガンダム
ファンにすら「そんなのいたっけ?」と言わせるマイナーキャラだが、pcfxは彼女の、
研究に生き研究に死んでいった地味な女の哀愁を感じずにおれない。