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minority resistance

pcfx復活ブログ

人権と経済

2011年10月04日 | そのた
人類の、少なくとも先進国では概ね基本的人権が認められているようだ。この「人権」を律儀に守ると必ず
「最低限の生活保証」というものが必要となってくる。なぜなら最低限の生活保証ができないとなると基本的
人権が守られなくなり矛盾が生じるからだ。

「最低限の生活」をどこで線引きするかはいろんな解釈が出てくるだろうが、日本では「最低限文化的な生活」
と規定されている。衣食住に加えて「文化的」であることも保証されるようだ。実際はどうかしらないが。
また「最低限文化的」というのもいろんな解釈ができるが、まあ図書館が利用できてテレビが見られる程度
なのではないかと推測できる。

さて、これら「最低限の生活保証」というのが法治国家であり先進国であり民主主義国である矜持となっている
ようだが、これに矛盾する経済システムが「資本主義」だ。資本主義が完全に弱肉強食だとは思わないし、
幅のあるものだと理解しているが、基本的には弱肉強食そのものが資本主義経済の基本である以上、論理的には
矛盾するものだ。一方、矛盾しない経済システムに「共産主義」がある。

このように考えると、「最低限の生活保証」を行う「基本的人権」を認める国が「資本主義」であること自体に
矛盾があり、その矛盾を抱える国がある時期に「共産主義」に移行するのは当然の話であり、マルクスの
言うとおり「共産主義は資本主義の熟成の先にあるもの」という理論が正しいような気がする。いわば資本主義
は共産主義を達成する地盤作りの為にある過渡期のようなものだ。


で、現在アメリカで起こっている市民デモだが、国民皆保険制度にすら「自由」を標榜して反対する国民が
貧富の差に文句を言ってるわけだ。元々ユダヤ人が開発した「他人の財産を勝手に運用して利ザヤを儲ける」
というシステムの権化である「自由の国アメリカ」が自己矛盾に行き当った歴史的転換点だ。これはアメリカ
が一番最初に「資本主義の熟成」に達したという事ではないのか。金融のあらゆる手口を行使して儲け、そして
その限界点に至ったわけだ。アメリカに残された課題は、「どうやって自由と共産主義を両立させるか」という
前人未到のフロンティアの開拓だ。失敗すればソビエトの二の舞が待っている。

一方日本では「自由主義」の一員でありながら「社会主義」の要素が強いという国の歩みを辿ってきた。日本は
ことごとくアメリカを追従してきたようにも取れるが、実際はこの点でアメリカを社会構造が根本から違って
いたわけだ。「自由主義の上での資本主義」と「社会主義の上での資本主義」では、以前は自由主義の方が
うまくいっていたのだが、近年では社会主義の方がうまく行っている。これは資本主義の熟成によって日米とも
「基本的人権」も同時に熟成した結果、最低限の文化的生活を守るために「共産主義化」してきたので、
より共産主義に親和性の高い「社会主義」のシステムが有利に働いているということではないかと考えられる。
現在の日本一人勝ち(一人負けという見方もできるが)の円高傾向も、この点を各国が評価した結果とも
説明できる。


上記を一言で表すなら「際限ない自由は我慢するのが賢い」という言葉で要約できそうだ。エネルギー問題、
環境問題も然り。資源が有限なら自由も有限という事だ。エコだ節電だ省エネだというのなら、自由も節約
したりリサイクルしたり新しい自由源の開発をしなければならない。そこに最初に気がつくのは、やはり
資本主義と個人主義と自由主義の大三元をテンパイし、湯水のようにエネルギーをツモりまくったアメリカだ
ということだろう。まあ当たりが来ればアガれるのだが、来なければそれまでだ。

元々「経済それ自体」は大事なことではない。目的と手段の価値が入れ替わって、世界中が勘違いして追い求めた
手段が資本主義であり、もっと大事なものは「目的」だった筈だ。では人類に共通する価値の「目的」とは
なんだったのか。


それを皆で考えるという「余裕」は、手段に翻弄されている間は見えないものだ。そしてそれはテクノロジー
の開発が進まないと見えてこない「文化」の先にあり、それが見えている国は日米の二国しかなく、より
「手段」に翻弄されてない国である「日本」で見えやすいものだ。

「日本」に特有であり、近年世界から注目されている「文化」といえば「アレ」なのだが、その「アレ」の
どの一面や部分が「目的」なのかは、まだほとんどの人が気がついてない。気がつくと「ああそういうことか」
という程度の事なのだが、なかなか「アレ」を理解するのは難しく容易い事ではない。

皆さんも「アレ」の「ドコ」が「目的」なのか、考えてみてはいかがだろうか。とりあえず秋から始まる新番組
でも見ながら。

最近多い検索ワード20110921

2011年09月21日 | そのた
最近書きたいことがなくブログを書いてなかったが、このブログに到達した検索ワード
で多かったものをまた紹介する。


スラップファイト

やはり往年の名作だけあって検索が多い。またスラップファイトに関する情報も少ないので
ここがヒットしやすいのだろう。


原子力発電の問題点

まだこれといった改善がみられない福島原発。やはり不安な人は多いらしい。pcfxはこれに
ついて「原発の問題などまだ存在しない」と書いた。一見原発の問題に見える事象は大抵が
政治問題や経済問題や感情論だ。技術としての話になると「核分裂反応は制御できていない」
という意見が必ず出る。そのとおりなのだが、放射能汚染の危険と決別するのと引き換えに
不便な生活を積極的に導入しようという意見は聞かない。エネルギー問題の対案もでてこない。
脱原発デモなどという政治問題は原発の問題などではない。


ドラゴンに犯される

この検索ワードは実に多い。よほどドラゴンによる人間レイプの需要があるのだろう。いっそ
この需要を満たす作品でも作ろうかと考えてしまうほどだ。


浅井三姉妹 江の里

最近は何事もネットで調べてから出かけるという風潮なのだろう。しかし検索ワードには
「がっかり」という単語が付随している。確かに大した展示ではない。
自称・公共放送局による全然ダメな歴史ドラマの舞台になったというだけだ。


豊田 六所神社

霊験灼かで風光明媚な神社である豊田市松平郷の六所神社の検索は多い。最近は豊田市の
神社で行われているスタンプラリーで訪れた方もいるのだろう。このスタンプラリーは
豊田の文化会館にてスタンプ用紙をもらい、豊田市内にある神社のうち神楽殿のある
数十箇所を回って、舞台にある現代アートを見物しながらスタンプを押しまくるという
イベントである。10月の中頃くらいまでやっており、スタンプを集めるとなんかの景品が
もらえるらしい。pcfxも友人のTELと共に回っている。現在半分くらい集めた。


佐久島(の猫)

猫と戯れたいがために佐久島へ渡る人が多いらしい。しかし肝心の猫がどこに集まっている
のかの情報がないため、皆必死でググッているようだ。ブログにも書いたが、日中は集まって
いないことが多く、夕方にエサをくれる家の前に集まるようだ。場所は島の西側にある
「つるや」という雑貨屋さんで聞くと教えてくれる。行くのも帰るのも不便だが、とても
いい島なので是非訪れてもらいたい。島にある神社への参拝も欠かさずに。


李朴太郎

pcfxが李朴太郎というハンドルネームであると正体を明かしたため、このワードが多い。
2chのハングル板で書き込む時だけこのハンドルを使っている。最近は書き込んでないが。
ちなみにpcfxは日本人だ。李朴太郎の立ち位置は「笑韓」で、韓国は多くの外国の一つでしか
なく、笑わせてくれる国だという認識を持っている。在日韓国人に対しては帰化を勧めている。
なぜかというと、どうせ韓国に帰国したところで居場所などない人がほとんどだからだ。
また、韓国人である事にいつまでもコンプレックスを抱くくらいなら帰化して日本人になった
ほうが楽だ。歴史も捏造せずに済む。韓国が変わらない以上、韓国人であることをやめるのが
得策だという話。


名古屋市科学館(接客態度・スタッフ感じ悪い)

pcfxは今年の春にリニューアルした名古屋市科学館のスタッフの接客態度が悪すぎると書いた。
同じような感想をもった人が多いらしく、この検索ワードも多い。展示物の没個性やプラネタ
リウムの事など細かいことは色々あるが、その根幹にあるのは名古屋の文化事業への取り組み
方がヘタだということだ。西日本は歴史が古く、文化の重要性を認識している人が多い。
また東京は人が集まる首都なので文化事業もレベルの高いものが求められる。だが名古屋は
信長の昔から文化よりも実利という風潮があり、経済や工業は発達したが文化面が充実して
おらず、それが名古屋市科学館の運営に色濃く見えるということだ。
ボランティアスタッフを起用してコスト削減に努めているのは理解できるが、それは裏を
返せば経済面を優先して文化事業とはなにかということを置き去りにしている事になる。
名古屋人が他の地方でよく馬鹿にされるのは、文化に問題の根幹がある。

原子力発電の問題点

2011年08月09日 | そのた
以前にも原発について書いたが、もう少し踏み込んで考えてみた。

pcfxの考えは、「原発問題など存在しない」という事だ。今回の震災で被害に合われた方が
これを読むと憤慨するかもしれないが、まあ続きを聞いてほしい。

「原発問題など存在しない」というのは、「問題がまだそこに達していない」という事だ。
原発の問題点は、「ロクに制御できない核分裂反応を強引に実用化して発電所付近住民を危険に
晒している」という事だ。左翼活動家が言う「原発反対」の真意がどこにあるかは想像するしか
ないが、おおかた予想はできる。1つは政治的理由、もうひとつは無知ゆえの理由だ。中国か
朝鮮あたりから日本の技術向上を妨害、もしくは日本国内で分断工作せよとの意向を受けて、
金儲けでやっているか、「あぶない→やめるべきだ」という短絡思考のどちらかという事になる。
そのようなものは「原発問題」ではなく「政治問題」なのでお門違いといえる。


立場別で考えてみる。

「核分裂や放射性物質そのものに反対」の場合、自然界で起こっている化学反応を知らないだけの
無知なので、これは教育でなんとかするしかない。感情に走って短絡するというのなら、精神科
の出番だ。日本には健康保険があるので利用していただきたい。

「制御できない技術の急進的利用に反対」というのがノーマルな反対理由か。しかしそれでは、
量子論という不安定不確実な学術に基づいて電算・通信技術が成り立っている事にも反対しなけ
ればなるまい。コンピュータ技術でのエラーや故障は頻繁に起こっている。それによって時間的
または金銭的に損害を被っている人など世界中にいる。量子的振る舞いは偶然性と確率論の
上に成り立っている。世界中で火災が年中起こっているが、「炎」ですら人間は管理できて
いない。発火(または酸化)も「制御できない技術の急進的利用」にあたるのだが、これも
やめなければ辻褄が合わない。

つまり上記には問題などなく、それによって起こる「危険性」が問題になってくるのだが、
では、例えば「地球外に原発を作れば解決」なのか。地球の近所には「太陽」という核融合と
放射線祭り
のような天体があるのだが、これがひとたび暴れだすと地球上の生物など一瞬で
焼け死んだり、放射線で遺伝子が傷ついて奇形(または突然変異)だらけになるのだが、では
太陽は危険だから止めろ」というのか。あんな水爆のカタマリみたいなのをどうやって
止めるつもりなのか知らないが、無理なことをいうものではない。止めたら止めたで、やはり
地球生物は死滅することになるが、それでもいいのか。

これらでわかるように、「原発だから、制御できないから、危険だから」という意見は意味を
持たない


物事というのは、論理の着地点を一応決めてから話すべきものだと思うが、ではこの場合の
着地点とはなんだろうか。そもそもは電気エネルギーが必要という話だった筈で、その方法の
ひとつとして「原子力発電」があった。電気エネルギーを「効率良く・ローコストで・安全に」
取り出せれば解決なのかというと、ここで話を終わらせるとまた間違うことになる。なぜなら、
「どうして電気エネルギーが必要なのか」という根本的な問いが置き去りになっているからだ。

生物として遺伝子を未来に繋げていくだけならば、人間はこんなに数は必要ないし、電気
エネルギーも必要ない。さっさと不用な人数を殺戮して、残った人間が原始時代の生活に戻れ
それで事足りる。遺伝子カプセル論者は今すぐに人類を50億人ほど殺せばいいと思う。だが
それはできまい。物理的には可能だが、殺される方も黙っていないので、一旦その流れに
なったら滅亡レベルまで戦うことになる。目的は「遺伝子の保存」だった筈だ。

ということは、人類はとりあえず減りたくない、死にたくない、そして不便なのは今更イヤ、
というのが共通の落とし所になるだろう。だがしかし、このまま人口が増え続けると、そのうち
に資源の枯渇、食料・水不足になるのは自明だ。この矛盾を解決する手段は二つだけだ。
ひとつは「肉体を必要としない知的生存」であり、もう一つは「地球外への居住」だ。

「肉体を必要としない生存」については「遺伝的な生存」と違って来るのでここでは置いておく
として、「地球外への居住」はこの世に「人権」というワガママな幻想がある限り、いつかは
達成しなければならない課題だ。


さて、一口に「地球外」というが、重力や大気圏突破などの障害を超えて、大量の人間や物資を
どうやって宇宙に運ぶのかが問題になる。現在のロケットなどでチマチマ運んでいたら燃料も
膨大に必要になるし、時間もかかりすぎる。つまり効率が悪いわけだ。それをなんとかクリア
したとして、今度は宇宙でどうやってエネルギーを作るかという問題が待っている。宇宙空間や
どっかの惑星・衛星に都合よく燃料になるものがあればいいが、なかったり取り出すのが困難な
場合、現存の技術で得られる、最も効率のよいエネルギー生産を使うことになるだろう。

それが「核分裂・核融合」での発電だ。つまり、この時のために必須な技術が「核分裂反応の
制御」である「原子力発電」であり、その技術を多分に応用しなければならない「核融合」
だということだ。当面の着地点はここだ。

宇宙に住むにしても、エネルギー生産区画が居住区とかけ離れ過ぎるわけにはいかない。利便性
と物資の限界を考えると、ある程度居住区画に近いところに発電区画を作ることになる。また
太陽からドバドバ出ている放射線も大気がないところでは十分にシールドしなければならない。
宇宙に住むというのは放射線だらけの所に住むということであり、それらを防ぐ技術を我々は
持たなければならない。そこにも「原子力発電」の技術が絡んでくる。


pcfxが主張する「原発問題など存在しない」というのはこのような事だ。太陽が制御できない
以上は、人類は明日にでも滅亡する可能性があるということであり、それならばキチンと
段階を踏んで、予算を潤沢に使いながら原発の研究を続ける必要がある。発電に使う事のリスク
など、太陽に比べればあって無きが如し
だ。原発が100%安全とは言わない。むしろ危険だ。
だが、このまま人口が増え続け、それを止める手段も減らす手段もなく、且つ現在の便利な
暮らしは捨てたくないというのであれば、引き換える対価としての原発のリスクは、その運用を
間違えない限り飲んでよい条件に思えるが、どうか。


で、それよりも先にやっておくべき事がある。「政治問題」「利権問題」「教育問題」だ。
核分裂の制御よりも簡単な事なので、真っ先に解決しておくべきだ。まず政治問題だが、
「原子力発電所」は軍隊が守らなければならない。その建設基準も軍事的な規格を必要とする。
技術流出防止も保安も軍隊で管理すべきレベルのものだ。ところが日本には「軍隊」がない。
いや、軍隊はあるのだがまともな指揮命令系統と法律がない。というわけで、そんな国に
「原子力発電所」など100年早い
のだ。まずは軍隊を明確に規定する法律があり、お飾りの
持ち回りが露呈した「総理大臣」などが最高指揮権を持つなどという命令系統を変えなければ
ならない。民主主義なので、時には左翼政権になる時もあるかもしれないが、そんな時に
左翼総理が「応戦しません」などと言えば国が滅びる防衛は思想の前にあるべきものだ。
では誰が最高指揮権を持つべきなのかというと、それは日本国と命運を共にするだけの存在と
価値がある「天皇」が持つべきだ。いつまでも戦争責任回避とか逃げていないで、ここらで
性根を据えて責任を持たせるべきだ。それがイヤなら、思想に振り回されないしっかりした
内閣の仕組みを作ることだ。現在日本には「将軍」がいない。これが一番の政治問題だ。

「利権問題」は論外だ。そもそもインフラを民間だけにするなど狂気の沙汰だ。アジアでの
統治者というのは「灌漑水利企画者」から始まっており、現在でも基本的には変わっていない。
その水道工事に、電気とガスと通信が加わっただけで、国家の基幹事業なのは同じだ。
統治者が基幹事業を民間に丸投げなどするから、国家観がブレて混乱するのだ。インフラ事業は
軍隊の管轄下にあるべき国の背骨だ。そこに多少利権構造が絡むのは大きな問題ではない。
民間に丸投げする方がよほど問題なのだ。

最後に「教育問題」だが、どんな集団でもエリート・中間・バカという三層に分かれるのが
人間なのだから、どんなにバカに教育を施した所で根本解決にはならない。「バカに分類される
と意見を言わせません
」という明確な差別が必要なのだ。選挙権の剥奪やネットの利用制限
程度で十分と思える。無論、その評価を誰がどのように行うのかという問題はあるが、そこは
判断基準の固定や世襲さえしなければ大した問題ではないと思われる。流動的で緩い法律で
十分であり、現在の偏差値基準の受験程度のもので解決できるはずだ。「放射線が何かよく
わからないけど、なんとなく危険だと思うしテレビでそう言ってるから原発はんた~い!

というレベルの人の意見などトラフィックにしかならないのだから排除すべきだ。わざわざ
民主主義の欠点である衆愚性を律儀に守ってやる事はない。痴呆老人の選挙権を左翼や創価学会
が利用してる現実が「真の人権侵害」
なのだ。

このように、「原発問題」というのは「まだ」存在していない。そこまで達していない低レベル
な状況である事を踏まえ、一つ一つ解決してからやっと純粋な「原発問題」に到達できるのだ。
どこの国であろうとこの条件は同じで、その目標は人類共通の未来問題「宇宙移民」だ。
人間の存在理由は単なる「遺伝子伝達カプセル」から「生存戦略生命体」に、とっくに
変わっているという事も忘れてはならない。何か神的な者に我々は「きっと何者にもなれない
存在なのかどうか、試されているのかもしれない。人類は道なりに進むしかないのだ。

韓流とかフジテレビとか

2011年07月30日 | そのた
pcfxは2chのハングル板で「李朴太郎」というコテハンを使ってたまに書き込みをしている。
日本人であるpcfxは子供時代に福岡市で育ったため、クラスに在日韓国人がいるのは珍しい
事ではなく、また海外旅行好きなので以前は韓国にもよく行っていたし、在日韓国人が経営
する企業に所属していたこともある。だから韓国人や在日に対しては、割と近い位置から観察
しており、一定の実体験を伴った理解をしているつもりだ。

コテハンとしての「李朴太郎」の思想的立ち位置は、「愛国左派」だ。若い頃に左翼系に
関わっていた過去もあり、しかし左翼の連中のあまりの理想主義と支離滅裂さに嫌気がさして
決別した。子供の頃に古い価値観の家系で厳しい教育を余儀なくされたために反抗して左に
転び、更に転んで「中庸」路線になったのだが、基本的には左派である。そんな「李朴太郎」
もハン板の在日には「ネット右翼」扱いされる。地域帰属という人間として普遍的なナワバリ
意識程度の「愛国心」も、在日の工作員からは「愛国心丸出しの国粋主義右翼」という
レッテルを貼られるのだ。


さて、日本は昔から「海外の文化のいいもの」を取り入れてきた。逆に言えば「海外のよくない
もの
」は取り入れてこなかった。この場合の「よいわるい」は思想や好みの話ではなく、単純に
性能が「優れているか劣っているか」という判断によってなされてきた。比較対象は、「今まで
自分たちが持っていたもの」だ。そして一旦取り入れてそのままではなく、改良や改造を重ね、
よりよいものに作り変える努力を行って来た。文字も仏教も鉄砲も自動車もハイテク製品も、
全てこの流れに乗って取り入れられ、改良され、そして素晴らしい昇華をされてきたのだ。

日本に取り入れられなかったものの代表といえばキリスト教だ。せっかくルイスフロイスが
信長に接近して、南蛮寺まで建ててもらったのまではよかったが、その後秀吉の時代に嫌われ、
家康の時代に放り出されて禁止された。タイミングも悪かったが、もしキリスト教が宗教や
哲学として、日本古来からある神道や仏教よりも優れていたのなら、おそらく日本の宗教学者
たちは取り入れたと考えられる。しかし実際の結果として、日本でキリスト教は教化できな
かった。一国の大名がキリシタンだった地域さえ全体には布教できず、長崎ですら全員が
キリスト教徒というわけではない。西欧の「科学」は取り入れたが、キリスト教は上手に
フィルタリングされて除外されたわけだ。つまり、キリスト教は「劣ったもの」という判断を
日本にされたと言うことができ、神道や仏教が宗教や哲学として勝利した事になる。


で、最近「韓流」という押し売りが世間を騒がせているようだ。前述したように日本は、
「優れていれば取り入れる」国なので、もし「韓流」が日本に既にあったカルチャーより
優れているのなら、当然取り入れられるだろう。だがそれはない。ありえない。どんなに
金を使ってゴリ押ししても失敗に終わるだろう

韓国にある程度の密度で行ったことがある人にはわかると思うが、韓国では80年代まで
有料の芸能鑑賞が満員御礼だったり大儲けできたりしたことは、ほとんどなかった。また
韓国のレコード会社の主な収益は、他社の音楽をコピーして販売した収益によっていた。
お互いにパクりあい潰しあい、有料コンサートには人が集まらず、女優やアイドルはそのまま
高級売春婦とイコールだった。いわばパトロンを見つけるための芸能活動だったわけだ。
そんなわけで韓国では芸能で食べていけないので、日本で売ることになるのはわかりやすい
流れだ。現在「韓流」とか言っているが、朝鮮人というのを伏せていただけで、既に日本の
芸能は半島の人が非常に多かった。今更な話だ。

韓国では長らく日本の文化を韓国国内で放送するのは禁止されていた。だが法の抜け道を
使って日本で流行っているものをコピーし、あたかも韓国オリジナルであるかのように
国内で売る事が続けられた。一方で韓国の伝統から進化した「韓国オリジナル」の芸能音楽も
あったのだが、それらは庶民の低級なものとして扱われ、日本芸能のコピーをそれと知らずに
崇める風潮がずっと続いていた。日本では2002年ワールドカップまで韓国に関心がなかった為、
それらはほとんど紹介されてこなかった。実際にはおニャン子クラブのパチもの、光ゲンジの
パチものなど、劣化コピーだらけの韓国芸能が韓国のティーンエイジャーの心を掴んでいた
のだった。

日本人の核家族化、個人主義化が進み、茶の間で家族揃ってテレビを見なくなり、またテレビ
番組を見るために家に帰るという風潮がすっかりなくなって、昔のような「国民的アイドル」
が存在できなくなったのがバブル時代頃だった。テレビの用途はテレビ番組をリアルタイムで
見る事から、録画した番組だけを見るように変わり、更にゲーム機を接続してテレビ番組その
ものを見なくなった。また韓国で日本の文化が限定付きで解放され、長らく情報鎖国状態
だった韓国人は、日本の芸能を直に見るようになって、「日本の芸能は韓国のものに似ている」
という意識になった。無論韓国がパクっていただけなのだが、それに気がついていない人は現在
でも多い。逆に日本が真似していると思っている情弱だらけなのが実情だ。

そして、「これなら日本でも韓国の芸能が売れるのではないか」という勘違いが生まれ、当初
売り込みをしていたのだが、所詮劣化コピーがオリジナルの国でウケる筈もなく、以前通り
日本人のフリをした韓国人や在日を使う事が続けられた。但し、唯一の例外があったとすれば、
「韓国オリジナルの芸能」が、ごく一部で一瞬だけ注目を浴びた事があったくらいだ。それは
イ・パクサ」の「ポンチャック歌謡」だった。

日本人観光客相手のバスガイドをしていた「イ・パクサ(李博士)」は、バス内で歌う日本人
から日本の歌謡曲を覚え、それらをメドレー形式で伝い継ぐ「ポンチャック」という韓国歌謡
の伝統と融合させた。音楽が次々に変わっていくのでいちいちミキシングしていられない。
だから盲目のキーボード奏者、キム氏が奏でる安いプリセット伴奏にのって、どこまでも
好き勝手に
歌いあげる奔放さが、20世紀最終末から21世紀の始まりまで、キワモノ好きの好事家
にウケたのだった。電気グルーヴや明和電機とのコラボ、アダルトビデオ監督のバクシーシ
山下が監督したPVなど、その顔ぶれと扱いは、コア中のコアなものだけに人気となった。

この「韓国オリジナル」である「ポンチャック」の路線で、正統的に頑張れば、あるいはいつか
日本でも「本当の韓国」を好調にセールスできたのかもしれない。だが、韓国の選択は結局、
日本からパクッた劣化コピー」を無理やり日本で販売するといった流れになってしまった。
そして「韓流ドラマ」が「センスが古くて逆に懐かしい」という中途半端なウケ方をして
しまったために、韓国の芸能関係者を勘違いさせてしまった。「こりゃイケるぞ!」とばかり、
あれもこれもと国家ぐるみでセールス攻勢をかけ、穴の開いたメディアのテレビ局の株を違法な
レベルまで買いまくって、ご覧の有様になっている。


ところで、ホリエモンがニッポン放送(フジテレビの親会社)を買収しようとした時期は
2005年。冬のソナタが日本で放送されたのは2003年。再放送は2004年だ。そして韓国が日本の
メディアに攻勢をかけたのもその頃だ。この時期の奇妙な一致に関連があるのかないのかは
アレだが、詳しくはフジテレビの株がこの時期以降、誰に買われたのかを調べればわかるだろう。
当時のフジテレビのホリエモンに対する態度は「明らかに過剰反応」しており、その後不可思議
なライブドアの吊し上げと殺人事件(自殺にされているが)が起こった。ライブドアの中にも
フジテレビの中にも、怪しい人が跳梁跋扈していた。面白い偶然の一致もあったものだ。


さて、テレビにもコンビニにも「キモい」ほど韓国芸能が押しかけているのを、ある程度韓国
に理解のある「愛国左派」のpcfxが見た時、その感想は「いやいや、無理だろそれは」という
苦笑いになる。韓国が金を使って本気でやればやるほど気の毒になってくる。客観的に見て、
「日本の従来より優れた芸能」ではないからだ。その売り方もゴリ押しで不快だし、当人たち
もどこかダサい。

日本は逆に突き抜けてAKBのように「ワザと可愛くない娘をまぜた、素人使い捨てアイドル集団」
という末期的な商売をしており、本物の歌手のCDが全然売れない時代に電子音ソフトが歌うCDが
売れる所まで進んでいるのだ。訓練を積んだプロが素人と並び、多様性に対応したミクロな市場
を個々に成立させようとしている時期に、全く見当違いな物を売りに来たマヌケ商人が韓国芸能
だ。高性能低価格のパソコンが並ぶ現在の大手家電屋に、PC98ですらないエプソン互換機を
50万円で売り込みに来るようなものだ。店に高額なテナント料を支払い、情弱団塊オヤジにすら
鼻で笑われる商品を、「今売れてます!大人気です!」と声を枯らしてセールスさせられる
バイト君が気の毒でしか無い。

日本で売りたければ、日本の従来品よりも優れたものを売るしか無い。アップルやソフトバンク
嫌いがiphoneを買ったように、優れたものなら理解して買う日本人は必ずいる。だがしかし
それは、日本がそれより優れた製品を作るまでの短い間だけだ。
韓国芸能は現在、信長期で利用されており、もう少しすると秀吉期になって嫌われ始め、やがて
家康期になると排斥されるだろう。秀吉期に逆に征伐されに行かれないように、引き際も肝心だ。秀吉の大早計は日本人にとっても利益にならない。

このブログに到達した検索ワード2

2011年07月18日 | そのた
前回取り上げなかったワードで検索が多いものに、補足説明が必要かと思われるものを
ここに紹介する。


>ハーフミラー ダライアス

ダライアスの筐体(3画面のもの)のハーフミラー構造は、以下のようになっている。

1.一枚の横に長いハーフミラーを斜め45度に立てる
2.モニターは両脇を水平に、真ん中を垂直に設置する
3.すると水平に置いたモニターはハーフミラーで反射し、真ん中のモニターは透過する
4.モニターの位置を調整して、継ぎ目が見えなくなるようにする
5.うれしい






>名古屋に住むなら

◯以前にも書いたが、名古屋で住みやすい場所を簡潔にまとめる
(家賃・交通・利便・民度・安全などの総合評価)

地下鉄東山線沿線:星が丘・本郷・上社
地下鉄鶴舞線沿線:平針・原・御器所
地下鉄桜通線沿線:桜山
地下鉄名城線沿線:自由が丘・本山



◯住まない方がいい場所(個人的主観・経験則・実感)

南区・中村区全域(民度・安全×)

守山区・緑区(交通×)

名古屋市外(名古屋市内に住んでないと不便で多少差別がある)



◯気をつけたほうがいい場所(個人的主観・経験則・実感)

瑞穂区全域・今池・金山(民度・安全△~×)

中区(家賃高い)



◯絶対に避けるべき場所

名古屋駅以西(特に名古屋駅西口に近い地域)
*理由は書かないが、いいからやめときなさい。




>アーケードレトロゲーのFM音源について代表的なもの一覧


YM2151(OPM)FM*8(ステレオ) 4オペ

YM2203(OPN)FM*3 SSG*3(PSG*3)4オペ

YM3526(OPL)FM*9(FM*6+FMプリドラム*3~5)2オペ

YM3812(OPL2)(3526の上位互換・サイン波以外も発振)

YM3438(OPN2C)FM*6 (ステレオ)4オペ




>ナムコ 数字

ナムコフォント・ゼビウスフォントの事?独特のカッコイイフォントだったので他社でも
類似フォントが使われた。ググると色々でてくる。

ローマ数字の事?ゼビウスなどのタイトル画面の発売年月日をローマ数字で表示
しているが、3桁以上のローマ数字は馴染みが薄いので謎とされた面があった。


1984=MCMLXXXIV
1985=MCMLXXXV
2011=MMXI

また、マサチューセッツフォントを使った数字を指す場合もある。
(*グロブダなどに使われていたフォント)


このブログに到達した検索ワード

2011年07月07日 | そのた
このブログのタイトル「minority resistance」が示す通り、マイナーな物事ばかり書いている
のでさほどアクセス数も多くないブログなのだが、アクセス解析を見ると面白い検索ワードで
ここに到達しているものが多いのでご紹介する。


「女児 身体検査」

なんでこのキーワードでここに到達したのか謎。そんな内容を書いた覚えはないし、試しに
googleでこのキーワード検索をしてみたが上位100にない。彼は何が目的だったのだろうか。


「麻酔PCM」

おそらく医学薬品用語なのだろう。セガの「トランキライザーガン」の記事がヒットしたようだ。


「オタクであることに価値なし」

誰かのセリフなのだろうか?連日このワードで検索され、ここへ到達している。


「震災こじき」

これも連日検索されている。震災被害者になんらかの悪意を持っている人が多いのだろうか。


「カプコン 隠れキャラ 1942」

今更、四半世紀前も前のゲームの、しかも隠れキャラが気になるというワードだ。そのセンス
がなかなか頼もしい。是非その心を忘れないでほしい。


「ゲームきょたい クレイジークライマー」

おそらく「ゲーム筐体」と言いたかったのだろう。読み方は「きょうたい」だ。「箱型」である
という意味だ。クレイジークライマーが出た頃は、テーブル筐体に垂直に取り付けられた
コンパネが主流だった。


「pc98版 同級生 マップ」

これも今更な検索ワードだ。とてもよい。同級生のマップはヴァージョンで少しづつ違うもの
があり、後のバージョンには追加された施設があったりする。でも矢吹町まで電車1本だ。
「テテテ テンテケ テテテテテン~♪」のBGMを聞くと外をウロウロしたくなる季節だ。


「剣山 ハムスター」

ん~、確かにそれに関する記事は書いたが、そのワードで検索して何が知りたかったのだろうか。
剣山の上にハムスターを置いてみたい需要があるのだろうか?やめていただきたいものだ。


「戸川純 変人」

そりゃまあそうなんだろうけど。「戸川純」を見ると「椎名林檎」はその劣化コピーにしか
見えないし、「鳥居みゆき」がごく普通の人に見えてくる。「東京事変」がやっている事は
「ヤプーズ」のオマージュであるに過ぎない。「変人」や「変態」は褒め言葉です。


「聖戦士アマテラス インストカード」

やっぱ気になりますよねアレは。まともな画像を検索しても出てこない。幻のインストカード
ですわ。ちっちゃいピンボケの写真は出てくるんだけどね。


「PCFXのフロッピー」

これも謎だ。ゲーム機でない何かの「PCFX」だろうか。


「サイコミュ試験型高機動ザク」

このMSが気になる人が世の中に一定数存在することに喜びを覚えるpcfxだった。


「ドラゴンバスター クロービス」

これも四半世紀前のゲームの主人公だ。検索した人はどんな情報が欲しかったのだろうか。


「服をはぎとられるイラスト」

連日検索されており、もうはぎとりたくて仕方がないのだろう。気持ちはわからんでもない。


「インド、婚前交渉」

気になるインド娘でも見つけたのだろうか。まあ基本的に親の決めた相手と結婚するのが
習わしの国だ。そして既婚者の女性でもやたらと外を出歩かない国なので、婚前交渉は
大変な苦労を伴うだろう。


「スイートキッス 炭酸飲料」

このマイナーな四半世紀前からあるドリンクに興味をもつ人が多いことはうれしい限りだ。


「ハシシュ 食べる」

いやいや、食べるのはよしなさいよ。なんでも口にいれちゃダメだ。まあ「チョコ食う」って
いうけれども。混ぜ物や粗悪品に気をつけて。


「新城市 で 信長の野望 は売っている」

検索の仕方が微妙というか、接続詞いらんのじゃないかと。ていうか新城市にもゲームショップ
くらいあるでしょう。見つからないならネット通販で買ったらいかがか。


「日本物産 インスコカード」

言いたいことはわかる。「インストラクションカード」と言いたかったことは。それにしても
ニチブツのインストカードってマイナーながらも需要あるんですね。


「スカートめくりのスカートの中『イヤーン、もう、エッチ』」

もはや何も言うことはない。己の道をそのまま突き進んだらよかろう。


「ZUN ハンドルネーム」

東方のZUN氏を調べていたのだろうか?80年代に「ZUN」を使っていた人はpcfxを含めて多数
いたので、特定人物を見つけるのは困難かもしれない。それともナムコの小沢純子さんの事
だろうか?



あとは、「名古屋市科学館」「飯田線の旅」「ディグダグ2」などのワードが多数見受けられた。
物好きが多いので安心するpcfxだった。

インターネットという商売

2011年07月03日 | そのた
いろんな矛盾や無茶を孕みながら、とりあえず他にいい方法が見つからないので多くの国が
採用している暫定ルールが資本主義だ。だから資本主義とか経済至上主義とかを論理の根底に
置くと、たいがい間違う事になる。そして経済学はだいたい間違っている。

個人が確かに所有している物品など実はなく、本来は強盗でもすればいつでも所有でき、奪われ
ればいつでもなくす性質のものだ。しかしそれだと不便だったりするので、とりあえず自分の
所有を確保するために他人の所有も認めるという相互ルールが発生する。また、物品の所有を
固定すると、その代わりに他人が持っている物を永久に自分が所有できなくなってしまうので、
一時的な貸借りや交換という妥協が起こる。

言い換えれば、自分の所有を放棄すれば他人の所有を認めなくてもよいことになり、すなわち
なんにも持ってない人は自分の所有という前提が無効になっている状態なので、他人の所有を
認めなくてもよいので奪ってもよい事になる。しかし奪った瞬間に自己の所有が発生するので、
奪い返されても仕方がないということにもなる。


犬とボール遊びをすると、ボールで遊び慣れてない犬でも投げたボールを取りに行くことは
するが、それを犬が所有すると「動かないもの」になってしまい面白くない。ボールを飼い主に
返せば再び投げてくれて「動く面白いもの」になるのだが、せっかく手に入れたのに手放したく
ない。飼い主に返しても必ずまた投げてくれるという保証はなく、動かない面白くないボールを
隠し場所に持っていくか、それとも投げ返してくれないかもしれないリスクを承知で飼い主に
返すのかダブルバインドに陥る。飼い主との信頼関係が強固であれば、そのボールは飼い主が
自分と遊んでくれるためのもので、飼い主はその所有にこだわっているわけではない事が理解
される。投げ返してもらうために飼い主に預けるのであって、基本的にはボールは犬のもの
なのだ。利口で信頼関係を築けた犬ほどそれを飲み込むのが早く、利口でなく信頼関係を築け
なかった犬ほどダブルバインドに嵌ったままになる。

人とお金遊びをすると、お金を使い慣れてない人でも投げたお金を取りに行くことはするが、
それを人が所有すると「流通しないもの」になってしまい面白くない。お金を社会に返せば
再び投げてくれて「流通する便利なもの」になるのだが、せっかく手に入れたのに手放したく
ない。社会に返しても必ずまた投げてくれるという保証はなく、流通しない不便なお金を貯蓄
するか、それとも投げ返してくれないかもしれないというリスクを承知で社会に返すのか
ダブルバインドに陥る。社会との信頼関係が強固であれば、そのお金は社会が人に利便性を
もたらすためのもので、社会自体はその所有にこだわっているわけではない事が理解される。
投げ返してもらうために社会に預けるのであって、基本的にはお金は人のものなのだ。利口で
信頼関係を築けた人ほどそれを飲み込むのが早く、利口でなく信頼関係を築けなかった人ほど
ダブルバインドに嵌ったままになる。

貯蓄率の高い国ほど経済に利口でなく、社会への信頼感が低いと言う事だとすると、日本人は
総じて経済に未熟で社会を信用してない人々だと言う事になる。


さて、魚市場や魚屋やスーパーが魚の市場であるように、インターネットは情報の市場だ。
魚市場などは魚がお金と必ず交換されるが、インターネットでは情報とお金が必ずしも交換
されない。通信費にかかるコストは支払う事になるが、それは情報量に応じた課金とは限ら
ない。従量制でないプランに加入しながら、一日に何度かメールをやり取りするだけの人も
いれば、大量の動画をこれでもかとダウンロードする人もいる。有料コンテンツに別途の
料金を支払う人もいれば、それがコピーされた無料コンテンツを利用する人もいる。使う人
次第で受け取る情報量とコストがまちまちだ。

だからインターネットという市場は、持ち帰りOKの食べ放題レストランみたいなもので、
貪欲な者ほどトクをするシステムだと言える。タッパーを山ほど持って行き、食べ放題の
料理を片っ端からタッパーに詰め込むどっかのオバサンみたいなのが許されている。これが
本当の食べ放題レストランなら倒産してしまうのだろうが、インターネットの食べ放題
レストランの厨房には「食品無限コピー機」があるので潰れることはない。そのかわり、
周辺の他の飲食店や食品小売店は軒並み潰れることになる。
現実にテレビも出版も新聞も衰退しており、ネット通販の影響で小売店も衰退し始めている。


これらの現象を「良い悪い」と議論するのは不毛だが、フェアな取引の市場でないことは
明らかだ。その市場では基本的に、「どんどん無料化していく」というトレンドがあり、
有料コンテンツは競合に押されてどんどん低価格化し、最後には無料になる。無料でも継続
できるスタイルにせざるを得ず、広告だらけのコンテンツに落ち着く。終いにはコンテンツの
大部分が広告になり、そんなものを誰も望んでないのでコンテンツは衰弱していく。

「どんどん無料化する」というのは逆に考えると「コストを極限まで分散化する」のと同義
であり、それは「共産主義化」とだいたい等しい。「共産主義」が「良い悪い」という
思い込みの話は置いておくとして、少なくとも「情報」は「共産主義化」していくトレンド
にある。

共産主義だから義務労働、平等分配、社会保障というスタイルに落ち着き、また弊害として
一党独裁、秘密主義、奴隷社会というリスクを伴う。
つまり、情報を発信する義務、情報を誰でも受取る平等、情報を保障される福祉があり、
その反面、誰かが情報を一手に握り支配し、重要案件情報は秘匿され、民衆は情報奴隷に
なっていく。そのような方向性にあるのが現在の「インターネット」である。


このように考えると、ネットというのは商売には向いていないメディアである。むしろ商売を
破壊して共産主義化を進めるツールであり、マーケティングを価値相対化し、無力化する
結論を持って愚か者を待ち構えている。資本主義者の視点から見れば悪夢の世界であり、共産
主義者から見れば理想郷の橋頭堡だ。

これらの仕掛けに気がつかない人が多い現在、ネットビジネスはまだ開拓の余地があるが、
その行く末には情報資本主義の破綻があるので、いつかは飛び降りないといけない列車に
乗ることになる。この論のフラクタルなモデルとして、公社や図書館のあり方がある。


情報の共産主義化をモデルにし、物品の共産主義化も進んでいくことになる。限られた資源
の中での共産主義は閉塞感と不満と絶望を孕みながら腐敗していくが、宇宙を開拓する事に
よってそれらを誤魔化すことができる。「人類共通の利益、宇宙開拓のために、皆んな平等に
頑張ろう!」というスローガンでしか全人類を一つにできない。だから物品の共産主義は
宇宙開拓の進渉と共にあり、共産主義が宇宙開拓を進め、宇宙開拓が共産主義を浸透させる
のだ。残る問題は言語と宗教で、それらを解決するソフトウェア開発が最後の金儲けの
チャンスだ。そしてそのノウハウはgoogleと日本のオタ文化にある。

これが今後100年の課題であり、政治経済のトレンドだ。政治家を目指そうとか、アフィで
姑息に儲けようとか考えるのは時代遅れの20世紀頭であり、今後は「人類の夢と希望」
ではない、「仕方なく必要に迫られた」宇宙開拓と、「しょうがないので共有してる情報
共産主義」と、「お互い様なので干渉しない価値相対化されたオタ趣味」の時代だ。


広告だらけの宇宙ロケットに、ひときわ大きく描かれた萌え少女、これが21世紀の象徴だ。
痛ロケットに乗って宇宙へ行こう。日常知った全てをデータにしてUPしよう。それで得た社会
貢献ポイントを貯めてフィギュアを買おう。そうするとほら、見えなかった22世紀が見えて
くるのだ。

ツイッター使ってみての中間感想

2011年07月01日 | そのた
何年か前から「ツイッター」なるものがあるのは知っていたが、縁が感じられず無視していた。
「2ちゃん」のまとめサイトを見るようになって、そこに「ツイッターがどうのこうの」という
表示が出ていたのを見たが、そのツイッター連動部分は非常に読みにくく、「何だか知らない
けど邪魔だな」程度にしか思えなかった。


去年、割とあちこちで「ツイッター」という言葉を聞くようになったので、「ツイッターって
何だろ?」と調べてみたが、ネットでの「つぶやき」だという。全然意味が理解出来ない。

つぶやいてどうするのか?誰に対してつぶやくのか?ネットで独り言を書くってこと?どうして?

特定の相手に対するメールでもなく、ホムペでもブログでもない。2ちゃんなどのBBSでもない。
ツイッターがなぜあるのか、なんで皆んな使ってるのか、概念がつかめずにいた。


そんな中、マンガ家のkashmir氏のサイトを見る機会があり、そこにも「ついったー」という欄が
あった。やはりそこにも「唐突な話題」が並んでいるようにしか見えなかったが、ファン心理に
よってkashmir氏をもっと知りたいという欲求にかられ、ツイッターをいじりまわしてみた。
アカウントを取り、kashmir氏の過去のつぶやきをずっと読み続けた。
幸いにも、kashmir氏のつぶやきが面白いものが多かったため、「よし、自分でもやってみよう」
という気になり、入力画面と対峙する。

だが、「いまどうしてる?」という設問に、どうしても答える気にならない。気恥ずかしさと、
誰に聞かれてるのかわからないのと、なんでそんな私的行動を垂れ流す必要があるのかわからない
事と、「そんな事してどうするんだ?ナルシスト?構ってちゃん?」という自戒しかなかった。
無名人のpcfxの独り言を聞きたい人がいるのか?

と考えた所で、やっとツイッターが何なのか少しわかったような気がした。要は、ツイッターは
「一行ブログ」なんだと。そういわれると、自分がやってるブログも「長文ツイッター」みたいな
ものだ。以前、ブログに対しても同じ印象を持ったのを思い出した。「ブログって、要は簡易
ホムペだよね。それも日記サイトのたぐい」と思っていた。2ちゃんで長文が読めない多動児が
よく「三行にまとめろ」というが、それがツイッターの需要だったのだろう。


で、現在に至る。努めてツイートなるものをするようにしているが、まだ多少のためらいがある。

「こんなのを誰が読むというのか。読まないと思っているのに書いている自分はなんだ?」

それに対する自分の中の「分析くん」の答えはこうだ。

「データはそれ自体に価値はないが、需要が発生した時に価値が生ずる。データの質とは量だ」

しかし自分の中の「批判くん」は更に追求してくる。

「そのデータを最も活用できるのは運営者だ。お前がどうやって活用できるというのか」

確かに。使用される単語のトレンドやフォローする傾向からマーケットを識別する事ができる
のは運営会社だけだろう。「有名人の生の書き込みが見れますよ」「うまくいけば直接チャットを
交わせますよ」というのは大きなエサだ。猫でいえばモンプチみたいなものだ。そのエサに
飛びつくと、マーケティングに利用されるという代償を支払う事になる。猫でいえばエサ喰ってる
時に背中をモフられるようなものだ。

だが、よくよく考えてみると、このマーケティングには色々と欠点があり、結論をいうと失敗に
終わるだろう。このやり方を進めると、ある地点である事に気がついた者にオセロのように
ひっくり返される事になる。面白そうだからその「欠点」は書かずに様子を見ることにする。
ヒントは「メッサーシュミット」だ。


これでマーケティング利用については杞憂となったので、今後はもっと気楽にツイートして
いきたい。データの海の中の水滴は蒸発して雲になり、雨となって降り注ぎ、川を流れてまた
海に帰るのだ。その間に塩分濃度が変わったりイオン化傾向が変わったりするが、データは
プラズマ状態の電子とも言えるので問題ない。むしろソリッドである事に問題があるのだから。

中年の幼児性

2011年06月27日 | そのた
年のせいか、数年前から涙もろくなった。そのような現象はよく聞く事だが、pcfxの場合に起こる
現象は、「感動がこみ上げてきて臨界を迎え、ホロリと涙する」というものではなく、まるで
「赤ん坊が泣き出すようなグズり」というべき感情が発露する。例えば歩き始めた赤ん坊が小走り
して転び、顔を上げた瞬間に「エヘッ、エヘッ、エヘッ・・・エ~~~~ン」と冒頭を小刻みに
2~3回刻むように泣くことがある。pcfxが涙もろくなる時は、まさにこのリズムで感情が臨界を
迎え、顔を歪ませながら「グズり」が起こる寸前までいくのだ。そしてそこに理性の抑止命令
ルーチンがソートされるので、人前では微かに顔を引つらせる程度で誤魔化すこともできる。
だが、自宅で一人映画を観るようなシチュでは抑止命令ルーチンがさほど強力には起動しない
ので、声までは出ないが表情がかなり歪む段階まで進行する。

で、さきほどの赤ん坊の泣きパターンである「エヘッ、エヘッ、エヘッ・・・エ~~~~ン」
だが、これにも感情抑止命令プログラムがソートされていることに最近気がついた。冒頭の
2~3回繰り返す「エヘッ」または「アヘッ」の刻みは、「泣きたい→我慢だ→泣きたい→我慢
だ→泣きたい→我慢・・・しきれんわボケェ~~~」というプログラムが走っているように
感ずる。
つまり赤ん坊は薄ら薄らでも「泣いてはいけないのだ」という規則を知っており、それは他者から
の停止命令ではなく「泣くよりも他にするべき事があるだろう→なぜ転んだのか検証しよう」と
いう行動補正プログラムの干渉なのだが、脳がまだうまく最適化されていないため考証が感情に
負け、ついに泣き出してしまい「転んじまったよ~母ちゃんヘルプミ~」と泣き叫ぶ結果になる
ようだ。

赤ん坊によっては「エヘッ」の刻みが3回以上続いてから泣き出す事もあるようだが、その回数は
行動補正プログラムの干渉リトライ回数に等しいのではないか。それは遺伝的に生まれ持った理性
回路の頑強さの証であり、もしかしたらその回数の個体平均を取れば、理性の差を数値的に表す
事ができるのではないだろうか。また、多くの赤ん坊が2~3回の刻みな事から、人類の理性干渉
(及び行動補正)プログラム介入回数平均は約2.5kzm(キザミー)なのではないか。これが多けれ
ばより理性的な人間に成長する可能性が高く、反対に少ないと感情的になるのやもしれない。男児
よりも女児のほうが回数が少なく、女児平均は2.0kzmであることから女性は感情的になっていく
のやもしれない。


などと妄想している隙にまた本筋から大幅に逸脱しており、まるで精度の低いナビ画面のように
海上を車で爆走している様相を呈している。

とにかく涙もろくなっているのは確かで、逆に怒りや固執などの感情は薄らいでいるように
感じる。人にはライフサイクル(生涯発達心理)というのがあるみたいで、年齢によって精神や
行動の傾向が変わるという説もあるようだ。それによると中年というのは自我のせめぎ合いから
緩やかに自我の統合へ向かいつつ、嫌悪感や絶望感が醸成されていく世代とされている。



涙もろくなる瞬間には多くの場合感情の葛藤がある。例えば

「か弱い子猫が母猫とはぐれ、カラスに啄かれながら母猫を探す」

というシーンがあったとすると、

「子猫=自分ではないから他人事であり弱いものが淘汰されるのは食物連鎖的に当然である」

  という強者の論理の理性的な見解と、

「ああ子猫ちゃんかわいそ、かわいそね」

  という母性本能による保護意識的憐憫と、

「子猫=弱い自分という投影に対する感傷」

  が綯い交ぜになって自我が葛藤する事になる。



しかしそれは意識の裏では、全ては等価で等質なものであり、母猫・子猫・カラスの3つの立場を
相対的に俯瞰する理性で統合されている。さらにはその理性や価値相対主義に到達した事に何の
意味があるのかという論理的な行き詰まりを自覚し、自己の理性やその集合体である社会を嫌悪
し、閉塞感に負けて絶望してしまうという顛末だ。



pcfxの「中年グズり」の反応は、カラスのように生きてきた事への母猫に対する罪悪感と、自分が
子猫を啄んできた事の後悔と、しかしそれは生きるために仕方なかったんや~という自己弁護と、
省みることのなかった子猫への憐憫という、それぞれのルーチンが相互矛盾を引き起こして
プログラムが暴走し、システムダウンを起こした際に救済起動したセーフモードであり、シンプル
なシステムが代行しているので、それは感情面を簡略化した幼児退行モードによるものかも知れ
ないのだ。

今のところ幼児退行モードを早期に通常モードに切り替える自己修復ルーチンが機能しているが、
年をとって行くに連れてこの機能は衰えていく気がする。また価値相対化が進むことにより、
恒常的に通常モードでいなければならない理由を証明できない事に気が付き、「もしかして
幼児的でもいんじゃね?」という妥協と緩みが老化を促進させ、人は老いを迎えるのではないか。

幼児的という概念をデフォルトと言い換えれば、そこに人間本来が元々もっていた野生生物の
基本を見つけることになり、それ以上の事は意識と知識を積み上げた1次キャッシュ上の儚い
データのように思えてくる。だからこのような小賢しい妄想的分析などは後回しにして
「エヘッ、エヘツ、エヘッ、・・・ウワ~~~~ン アオオ~~~ン ボゲ~~~~~~」と、
赤ん坊の泣き声を真似て泣き叫ぶのを優先したほうがいろいろ捗るのかも知れない。
最寄りの赤ん坊に学ぼう。

優先感覚

2011年03月25日 | そのた
人には視覚情報に頼る人、聴覚情報に頼る人、嗅覚情報に頼る人など、各感覚器官に優先
度をつけて情報を得ている種別があるように思う。

時間を区切ると視覚が一番情報量が多く、聴覚、嗅覚、触覚、味覚と情報量が減って
いく。最も優れた感覚器官は視覚であり、視覚に頼るのが最も効率が良い。にも関わ
らず、視覚よりも聴覚などを優先して信頼する傾向は確かにありそうだ。しかしそれは
効率が悪く、やはり視覚を優先する人が優れた人だということができるかもしれない。


pcfxは音に左右されやすい。つまり視覚情報をあまり信用せず、精神的に音に信頼性を
求めているという事ができる。集中している時に周りがうるさいと非常にイライラする。
自分に関わりのない無害な音でも気になる。その作業が視覚だけで足りる、たとえば
エクセルにデータを打ち込むようなものでもうるさいと集中できない。だから音楽を
聞きながらとかも難しい。ながら作業がヘタだ。これは注意力が音に鋭敏に向けられて
いる事を表している。視覚でなく聴覚に頼っているということは、他の大多数の人と
比べて効率の悪い情報処理をしていることになり、そういう意味ではpcfxは平均よりも
作業効率が悪いということになる。その代わりに音に関する情報処理には長けており、
例えば声の聞き分け、物音の分析、イントロクイズ的なひらめきなどには能力を発揮する
筈だ。だが世の中の多くは視覚に頼るように作られているのであまり役に立たない人間
なのだろう。

以前「天然」ついてブログに書いた。天然の人は嗅覚に頼ると仮説を述べたが、天然の
人があまり実力を発揮せずに見下される傾向にあるのは、嗅覚も能力を発揮する機会が
あまりなく、それは聴覚よりもさらに機会が少ないからだといえる。人間は視力は皆似たり
寄ったりだが、見えたものを判断したり分析したりする能力は視力と別に機能している。
天然の人は見えたものを分析して情報を種別するのが苦手で、同じく聞こえた音の分析も
平均より低い可能性がある。それを補助するために嗅覚を優先して持ち出すのだ。

例えば目の前に生肉があったとして、その肉の色を見て新鮮かどうか判断するのが最も
早い見分け方だが、肉の色がどの程度変化しているのかの知識がないと見分けられない。
視覚に頼る人は過去にどの程度色が変化するのかなどを注意深く観察しており、今後の
指標にするために強く記憶する。ところがそのような事にあまり注意を払っていない
ボヤっとした人は、色の変化の見分けがつかないわけだ。肉は音を発しないので、この
場合は嗅覚で確認すればよいという事になり、視覚情報をあてにせずに匂いを嗅ぐという
行動に出る。「肉が青みがかっている=腐りかけている」という情報が不確かなので
「肉の匂いを嗅ぐ=腐りかけている」という確認をする行程が一つ余分にかかる。
だから視覚情報だけで済ませる人間よりも理解が遅く、その結果「ボヤンとしている人」
という印象を与える事になる。

これは聴覚に頼っている人にも同じことが言える。やはり視覚よりも1行程余分な事に
時間を割くことがあるので、視覚だけで判断している人からみれば「どんくさいな」
というイメージを与える事になるだろう。




さて音に頼る傾向のあるどんくさいタイプのpcfxだが、やはり性的な嗜好にも音が強く
関わっている。この場合は「声」だが、声だけで恋愛できるといっても過言ではない程
声にこだわる性質があるようだ。見た目がどんなに良くても声が悪いと全く興味を
失ってしまう。逆に見た目がイマイチでも声が良ければ好感が大幅に上方修正される。
当然声優の「声」にもかなり精神を揺さぶられ、またセリフにもかなり影響を受ける。
ここ数年でpcfxが最も精神を揺さぶられた声優は「広橋涼」で、作品は「キミキス」
「バンブーブレード」「ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD」などだ。

特に「ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD」の「河本綾瀬」は、音に特化
した作品の役だけあって非常に魅力があり、体を横に揺すられるような声色と演技で
魅了される。この声だけでご飯3杯はおかわりできる。更にこの作品は「ヤンデレ」を
題材にしているので、「デレ」で最高に幸せな気分にさせられ、刻々と「ヤン」に
なっていく恐怖、そして最終的には狂気に至って殺されるという、演技を楽しむ幅が
かなり広いものだ。pcfxは演劇には疎いが、他の出演声優にはそこまでの揺さぶりを
感じ無かったのに、「広橋涼」にはくすぐったい感覚から戦慄まで全てを揺さぶられた。
「バンブーブレード」の「たまちゃん」の役もいいが、「キミキス」の「明日夏」や
「ヤンデレ」の「綾瀬」のような気さくな性格の少女の声、特に「ま」の発音の貯めの
あるアタック部分、及び「ね」の発音の抜き方とサスティン部分に痺れる。「た」が
跳ね上がる所にアクセントがあり、あまり作っていない自然でリアルな話し方がとても
いい。自然でありながら少女の中にある独り善がりな信念や思い込みがきちんと伝わって
くる。だがそこからはサディスティックになり過ぎず、狂気に強い抑制がかかって悪に
なりきっていない。ヤンデレに求められるのは狂気の醜さではなく狂気に至る執着心だ。
そこの加減を心得てあるあたりが心憎い。

pcfxは特に声優にこだわっていないため、「広橋涼」の出演作を追いかけているわけでは
ない。たまたま見ていたアニメやゲームで「お、この声いいな」と思ったキャラの声が
「広橋涼」だった。声に特徴があるのですぐに聞き分けられるようになり、それを
きっかけにして「ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD」を購入した。
ぎゃ~」も買った。バンブーブレードのCDも買ったのだが「あんこ入りパスタライス
の3人のコーラスが非常に気に入っており、「奇跡の組み合わせ」として墓場まで持って
いく曲の一つに入れている。

声といえば、ラジオなどでアナウンスやナレーションをしている女性の声にも敏感に反応
する。特に道路情報を語る抑揚のない事務的な話し方や、テレビなどでの同時通訳の
女性の声に執着を感じる場合がある。ニコニコ動画で「NASAが地球外生命について重大
発表を行う」という生放送をやった時、同時通訳の女性が二人いたのだが、「サ行」の
発音に特徴のある方の通訳者の声に萌えた。その事をpcfxがコメントしまくったところ、
多くの賛同者が出た。肝心のNASAの発表が肩透かしだったため、後半は「通訳萌え」の
話題がコメントの多くを占めていた。理解者がいて安心した。



嗅覚を優先する人にも、恐らくこう言った他人にわかりにくい性癖があるのではないかと
考える。こだわる匂い、執着する匂いなど。多くの人が視覚での興奮を優先させる中、
聴覚や嗅覚は少数派で理解されにくい性癖だ。それが触覚や味覚に頼る人になるともっと
理解の範疇を超え、「重度の変態」の烙印を押されるのだろう。

「声優」があるのならば「匂優」や「触優」、「味優」もあっていい筈であり、多様化
するニーズに応える企業も出てくるかもしれない。身につけた衣類に体臭を染みこませ、
それをソフトとして販売してクンカクンカさせる商売は既にあり、体を触らせて代金を
受け取るサービスもある。当然舐めさせるビジネスもある。それをアイドル化したり
スター性を持たせたりする魅惑のフェティッシュサービスの充実こそ、人類が次に進む
道であることは確かだ。

なにも視覚優先者だけが世界の主役ではないのだ。

原発の運営

2011年03月21日 | そのた
pcfxが中学生の頃、クラブ活動で「科学部」に入った。その中で化学班を作り、爆発や
発火や発煙を伴う、ちょっぴりお茶目でややドジっ娘な実験を楽しんでいた。

付近住民などの余計な通報により、警察・消防・救急の各車両が駆けつける大げさで心外
な案件となり、教師に「3冠を達成したのは創立以来お前らだけだ」として厳しい罰を
受ける不条理な扱いをされた。因みに怪我人も病人も大きな器物破損も出していない。
ちょっと校庭がコゲたり、教室で乾燥中の爆薬が反応したりした程度だ。キチンと安全
措置を取り計算して取り扱っていたのに、大騒ぎする素人には辟易した。

「学習発表会」という学園祭みたいな行事の時、化学班は「原爆と原発の仕組み」という
テーマを決めた。この時に核分裂や核融合の本を読み漁り、ウランやプルトニウム、重水
素や三重水素、放射線、危険物取扱法、ウラン鉱脈と採掘と抽出などの基礎を学んだ。
中学の3年間で無機化学、有機化学、核分裂反応と核融合反応の一般常識を会得した。

その後も化学が好きで勉強を続け、素粒子や波動や量子などが大好きな大人になった。
名古屋には「でんきの科学館」という中部電力が運営する私立の科学館がある。主に
子供用の施設なのだが、pcfxのような科学中年が行っても楽しめる。ここへ友人たちと
大人になってから出かけた事があり、当時「アトムシアター」という、巨大な原発の断面
模型にハーフミラーで画面を合成した展示物があった。そこでは原発の中に人物たちが
投影され原発の仕組みについて解説するという、非常にわかりやく、またハイテクな
ものだった。案内役として「博士キャラ」が登場し、「原発は二重三重の壁に守られて」
「絶対に外に漏れることはないんじゃ」「絶対に安全なんじゃ」「絶対」「絶対
安全」「安全」と説明する。あまりに「絶対」「安全」を強調して繰り返すので
友人たちと笑いを堪えるのが大変だった。

その時点で目をつけられていたのだろうが、シアターから外へ出て休憩所でタバコを吸い
ながら先程の「絶対・安全」について談笑していると、友人の一人が自販機で買った水の
ペットボトルを見て「浜岡のおいしい水」などと言い出すものだから、つい大声で笑って
しまった。するとスーツを着た人が二人やってきて、我々を「あからさまに」監視して
いる。「うは、やべー」と思ったが、しばらくおとなしくしてれば去るだろうと別の話題
に切り替えた。だがずっとこちらを見ながら「監視」している。居心地が悪いので再び
館内を見学して移動したが、距離を置いてずっとついてくる。結局でんきの科学館を出る
までつけまわされた。

でんきの科学館には浜岡の原発と相互にカメラとモニターで様子を見れる装置があり、
そのカメラをリモートコントロールできるスイッチがあった。つまり浜岡原発の見学
コースにあるカメラを、でんきの科学館のコントローラーで動かせるわけだ。それを
使って浜岡原発内を移動しているスーツ姿の男をカメラでずっと追っていると、彼は
それに気がついたようで段々早足になっていき、カメラの届かない所に逃げてしまった。
しばらく見ていると、またモニターに彼の姿を見つけたので追い回していた。モニター
にはカメラに向かって何か抗議する彼が写っており、係員を呼び止めてカメラを指差し、
何か怒鳴っているようだった。

そんなことをして遊んでいると、こちらに係員がやってきて「イタズラは控えて下さい」
と叱られた。「え?これ触ったらいけないんですか?」と聞くと、「いえ、あの」と
モジモジしながら、「あちらの方、議員さんなんでちょっと」と言いにくそうに答えた。
電話でこちらに抗議してきたらしい。

そんな楽しいイベントもある「でんきの科学館」。名古屋にお越しの際は是非寄って
頂きたい。地下鉄伏見駅を出てすぐ。今はもうアトムシアターはないみたいだが、
他の展示物も夢と科学がいっぱいだ。原発がどんなに「絶対安全」なのかを、これでもか
と教えてくれる。もういいというくらい説明がある。親切な施設だ。団体予約をしていく
場合は案内人をつけてくれるので、せっかくだからマニアックな質問をたくさん用意して
いくと勉強になるかもしれない。しかも何と入場無料だ。そして歩いていけるほど近くに
名古屋市の科学館もある。現在改装中だが、改装が終わると最新型の設備を備えた最強の
科学館が完成する。博物館マニアのpcfxもワクテカで全裸待機している。


pcfxは原発に反対しない。むしろ推進したい。そして核分裂反応がどれほど制御しにくい
ものかも理論的には理解している。「制御できません」といって匙を投げてしまった国も
あるが、日本のエネルギー事情では原発と向きあうのは避けられないだろう。匙を投げ
たくても投げられない。もうどうやっても核分裂反応を制御しなければならないし、
そのための教育と研究と予算と安全措置は軍隊と同じように必要なものだ。だからもっと
予算を増やし、国家の最重要課題として優先的に推進していただきたい。その為には
電力会社は軍隊に編入されるべきであり、現在のような半公社的な生ぬるい人事制度では
困る。完全に特別職公務員として扱い、「原発大学」を創設して未来の原子力エリートを
養成し、管轄は軍隊の下に置くべきだ。核融合の研究も予算が足りない。世界でいち早く
エネルギー採算の合う核融合発電を開発し、将来の国益であるそのノウハウを軍隊で
守らなければならない。

原発を作る覚悟というのは、そこまでする必要があるものなのだ。軍隊とワンセットで
運営し、軍隊の規律で技術を守るのだ。まずは自衛隊を軍隊に戻すところから始めないと
本気で核分裂を取り扱う資格はない。そういう意味で現在の原発の取扱い方は間違って
いる。原子炉は電力会社で独自に運営するような装置ではないと考える。それは中学生の
頃のpcfxにダイナマイトを与えるようなものだ。

フェチ

2011年03月20日 | そのた
よく気軽に「自分は○○フェチだ」と言われるが、フェティッシュというのは性倒錯の
ひとつであり、「自分は変態です」と主張している事になるのだが、それでいいのか。

「それでいい」という人には最早言うべき言葉はないが、「変態扱いは心外だ」と
怒る人には最早つける薬はない。

またフェチにはDSMなどに心理学上の定義があり、その定義される範疇の人は「精神障害」
と認定される。物品に強い性欲を持つあまり、社会生活が困難な性的倒錯という位置付け
がなされている。例えば「私は毛皮フェチです」と言った場合、もう一日中毛皮を撫で
続け、毛皮をクンカクンカし、仕事も学業も家庭生活も放り出して始終まさぐっている
状態が「フェチ」と認定される。ここまでいくと「障害」であり、保護して治療する
必要がある。こういう人達を「フェチ」と呼ぶ。
他の学問でも「フェチ」という言葉を使うが、ここではそれに言及しない。


それを踏まえた上で、日本語では人間の体の一部などに強い性衝動を感じる性癖に関して
適当な言葉が一般化していないため、便宜上それを「フェチ」と呼んでいる。言葉狩りを
する意図はないのでそれはそれでよいと思うが、前提条件を知らずに使うと恥をかい
たり、人を傷つける恐れのある言葉だ。



ここからは気軽な「ファッション・フェチ」の話だ。

pcfxは「足フェチ」と言える。特に肉付きのいい若い女性がホットパンツを履いている
のを見ると、目を離すのに非常な努力を必要とする。また少女のほっそりして長く伸びる
にも特別な感情が湧き起こる。一口に「足」といっても色々な部分があるが、ホット
パンツのお姉ちゃんの場合は「太腿」「足の付根」に目が行き、前からよりも後ろから
見たアングルに執着する。それに対して少女の細く長い足の場合は、足全体の長さが
視界に入る事が必要である事から、近づき過ぎると全体が見えなくなり、魅力を感じ
なくなってしまう。この場合は中距離で眺める時に最大の幸福感が得られる。また、
ホットパンツのお姉ちゃんの場合は「色白」である事が条件になっており、日焼けした
肌や肌の色の濃い人種の人は適用外になる。病的に真っ白なほうがよく、当然肌には
張りがあり肉付きが良くなければならない。デニム地の短いホットパンツ限定であり、
そこら伸びる足に限るので、この嗜好にはホットパンツがワンセットになっている。
ホットパンツ色白ムチムチ姉ちゃんであれば、膝から下や腰から上などは比較的どうでも
よく、よほど醜くなければそれでよい。ほぼそこにしか興味がないからだ。

ホットパンツ姉ちゃんにしろ少女の細く長い足にしろ、それが好きになったのには理由が
ある筈である。小学生の時に好きだった女の子は大抵痩せ型であり高身長だった。つまり
足が細く長かったのだ。体育の時などにブルマから伸びた細くて長い足が印象に残って
いるのだと考えられる。小学生だから胸はない。顔以外にセックスアピールを感じると
すれば、体操着から最も肌の露出面積が大きいのは足だ。それが刷り込まれたのは想像に
かたくない。中学生の時に好きだった女の子は色白でムチムチだった。これも同様に、
肌の露出部分が大きかったのが体操着で、ブルマから真っ白な肉付きの良い足が出て
いるのが刷り込まれた。

第二次性徴が現れる時期にこのような刷り込みが行われ、2つの嗜好ができたのは明白
であるが、pcfxはブルマフェチではない。どちらかというとゼッケンを付けた体操着
シャツの方に目が行く。ブルマに特にこだわらなかった理由は不明だが、シャツの方は
「ゼッケンに名前が書いてある」という部分に強く惹かれるので、恐らく好きだった子
の個体確認を文字列で行うという習慣が身についたものと思われる。「山田花子」と
ゼッケンに書いてあれば、純情な少年の心は「好きな女の子の名前が書いてある」という
だけで心拍数が上がった。それが刷り込まれたのだろう。

少女の細く長い足はその全体像が必要であり、中距離から眺めるのが至福というのは、
まだ純情なため好きな子を遠くから眺めた結果である。対してムッチリした白い足は
視点が膝から上、腰から下であり、主に太腿と尻を注視した結果だといえる。つまり
視点が近く、それだけ接近して見ていた事を指す。その理由は自らの第二次性徴を自覚
し、より積極的に対象に近づこうと行動した事による。実際、その頃のマラソンなどでは
その女の子の後ろを走って眺めていたのだ。だからホットパンツのお姉ちゃんを後ろから
見るのが好きなわけだ。ブルマに執着しなかった事以外は全て論理的な説明がつく。

あえてブルマに関して説明をつけるなら、pcfxは転校が多く、小学校を3回、中学校を
2回転校した。学校によってブルマの色はまちまちであり、また学年で違うことも
あった。これによってブルマの色に関する固定化がされず、印象が曖昧になったのでは
ないかと想像できる。逆に言えば、ブルマフェチの方は転校経験がなく、また全学年で
ブルマの色が共通だったために印象が固定化されたのではないかと考えられる。


pcfxにはロリ属性があるが、ロリだけが対象なわけでもない。若い姉ちゃんにも反応は
する。だがババアは完全に対象外だ。また「ギャル外観」も無理だ。清楚で若く初々
しい外観であれば上限年齢はある程度伸長される。この嗜好を分析すると、年齢が重要
なのではなく、「清楚で初々しい」という事に執着していることがわかる。しかし清楚で
初々しい女というのは大抵が若い女であり、特に初々しいのは少女時に限られている場合
が多い。つまり選択肢がほぼ少女に限定される事になってしまうのだ。これは内的要因
に外的要因の条件が重なった末の引き算的な結果であり、ロリ属性だからといって一方
的に責められるものではない。清楚で初々しい女が多ければロリに傾倒する必要もない
からだ。おそらく日本人男性の多くにこのような傾向があり、ロリコン大国になったもの
と思われる。日本人男性が平均的に求める女性像と、実際の平均的な女性像が食い違った
結果の疎外だといえる。

清楚の象徴として「髪型」がある。服装と違って体の一部であり、外観を決める思想や
責任感は服装よりも髪型に強く現れる。pcfxは「おかっぱ」に強い魅力を感じる。また
その一方でボーイッシュな短髪にも惹かれる。やはりこの2つに共通するのは初々しさ
であり、おかっぱも短髪も伝統的には幼い女性の髪型である。パーマヘアやソバージュ、
カール、ウェーブには魅力を感じない。これは外見を強く意識し、自分で外見を工夫する
という大人の女、つまりババアの思想からくる髪型である。それに対しておかっぱや
短髪は「子供だからこれでよい」という大人の都合による強制に服従しているという
受動的な精神を彷彿とさせ、従順な性格をしているという現れとなる。早い話が男に
とって言うことを聞く都合のいい女だという象徴だ。


犬顔・猫顔という区別の仕方がある。美人である事を前提にした区別だ。美人でない場合
は「サル顔」「ブタ顔」「ウマ顔」「カバ顔」など、犬猫以外の動物に例えられる。
人間にとって親しみやすい身近な動物の二大巨頭が犬猫であり、その他の動物は経験則で
外見が親しみにくいという理由だろう。犬猫以外の動物に親しむ機会が強い家畜農家など
では、また違った区別が脳内で行われると思われる。

pcfxは「犬顔」が好みのようだ。「犬顔・猫顔」の定義は曖昧なままなので、感覚的な
判断だが、おそらく目が丸くて輪郭も丸いのが猫顔で、それ以外の美人が犬顔なのでは
ないだろうか。
pcfxの好みの顔は芸能関係で言うと「原田知世」「広末涼子」あたりだ。やはりどちらも
清楚で初々しいタイプであり、厚化粧の派手さはない。その安心感が顔の好みになって
おり、化粧をゴテゴテにした顔はpcfxにとっては「未開民族」と同じ野性を感じさせ、
近くの部族が攻めてきたのかと警戒し、槍を持って追い回すかブタ何頭で和解するのか
迷う事になってしまう。

女性は化粧の力を過信する傾向がある。しかし男性は女性の化粧を使って自分を騙して
いるのだ。自分を騙せない、自分に正直な男性は、女性の化粧に騙されまいとする。
化粧の濃い女性を見ると化粧前と化粧後にギャップがありすぎると判断し、避ける傾向
がある。すぐに騙される男性ほど化粧前と化粧後のギャップに無頓着であり、そのよう
な男性は女性にとって都合がいい相手なので、化粧作戦は理にかなった論理的手段と
いえる。

その点から言えばpcfxは自分に正直な騙されにくいタイプであり、多くの女性にとっては
都合が悪く扱いにくい男なのだろう。だからそういうタイプの女性から避けられ、結果と
して騙す必然性がない清楚な初々しい女性が周囲に残る。そのほとんどが若い女性、
若しくは少女であり、それが好みになっていったと考えられる。



自分のフェチを語ったところ、それは第二次性徴期に刷り込まれたもので、清楚で初々
しい少女が好みだというロリ属性を晒す結果になった。あまり自慢するような事では
ないが、そういうフロイトチックな自己分析結果になったのだから仕方がない。割と
キレイに分析できた気がするので清々しい。体面よりも論理的整合性のほうに安堵を
覚えている自分に安心感や信頼感さえ覚える。

あなたのフェチはなんだろうか。それはいつ刷り込まれ、どの部分が好きで、現在どの
ような嗜好になっているのだろうか。それを偽りなく分析できたら、恥ずかしくて他人の
フェチを責める気にもならないはずだ。他人のフェチを責める人は自らを分析できない
「バカ」だという事になる。フロイト先生に謝れ。DSMの前に夢判断からやりなおせ。

テレビと政治

2011年03月19日 | そのた
pcfxはテレビを見なくなって数年経つ。テレビを見なくなったのは、やはり「面白く
ない」というのがきっかけだった。見なくなったらどうなるのだろうと、試しに数日
テレビを見ない事にしたら、全く生活に影響がないという事がわかった。ネットで動画
サイトなどが充実しているので、ニュースも娯楽もネットで済ますようになった。
7月から地デジに移行するというが、チューナーを買う予定は全くない。
最初は世間の話題についていけなくなるのではないかという恐れもあったが、やってみる
と全く困らない。ネットの情報だけで困ることはなかった。

テレビを見なくなって数年経ち、たまにテレビをつけてみると、特に民法があまりに
せわしなくうるさい。CMも不快にしか感じない。数分と見ていられなくなる。ニュースを
見れば「番組編成」という枠で、つまりテレビ局の都合で語っているのが丸わかりで
あり、そんな都合を押し付けられる事に対して「なんでそんなものを見なければならない
のか」という気持ちになる。事実を淡々と述べればよいことで、盛り上がりとか感動など
はニュースに必要ない。何を重要と感じるかは見るほうが決定することであり、テレビ局
が選別しなくていい。

テレビを視聴するのは義務ではない。だから見なくていい。「テレビが面白くない」と
苦情を言っても仕方がない。面白くないものは見なければいいのだ。ニュースに偏りが
あると感じるなら、ネットで自分で情報を探せばいい。テレビ局をそこに介入させず
とも、通信社のサイトを直接見ればいい。

「テレビを見ない派」の意見は大方こんなところだろうか。



今回の震災でテレビにもいろいろ騒動があったようだ。大事件なので朝から晩まで全
キー局が震災特番ばかり放送する。スポンサーや放送局もCMを自粛した。その結果
テレビ局の収入がなくなり、経営に影響が出てくる。またCMの代わりに公共広告機構の
映像を延々と連続で流して視聴者が不快になっていると聞く。

そもそもここからおかしい。テレビ局の都合で勝手に放送しているのを、視聴者が勝手に
見ているのだ。同じ映像を何十回流そうとテレビ局の勝手だ。嫌なら見なければいい
のだ。そこに視聴者が文句をつける筋合いはない。有料放送であれば意見を差し挟む
権利もあるだろうが、「広告を見せる代わりに無料」という、元来あやふやな仕組みの
放送が、さほど期待に値する結果を出してくれるはずがないのだ。誰にも楽しませる
義務はなく、公平公正である必要もない。まず存在意義から希薄なのだ。

そんなテレビ局がいくつも乱立したのもおかしい。いや、時代背景を考えると、過去には
存在意義があったのかもしれない。だが今現在は必要ないし、あってもいいがそんなに
数はいらないだろう。広告主にしたって、あまりにチャンネルが多いと広告の意味が
薄いだろうし金もかかるだろう。

また、本来なら広告主が番組の内容に完全に口出しするべきではないのか。トヨタなら
「トヨタの車がどんなに素晴らしいか」という番組を自分で作り、それだけを延々放送
するのが基本だろう。ところがそんな番組は誰も見ないので、「誰もが見るような番組」
を代行して作らせ、それに金を払ってる。丸投げするならするでよいが、スポンサーは
金を出したのだから番組に責任を持つ必要がある。番組がつまらなければ、それは制作
会社が悪いのでもテレビ局が悪いのでもなく、資金を出したスポンサーに責任がある。

ではスポンサーは金を出すだけではいけないのかというと、別に出すのはかまわない。
好きに出せばよかろう。提供した番組がつまらなくても別によい。ただ誰も見ない
だけだ。誰も見ないものに金を出す必要はなく、そんな無駄な出費を企業がする必要は
ない。経営責任を問われるだけの結果となる。


どこに問題があるのかわからなくなりそうだが、今回の震災で皆が気がついたことが
ある。「テレビ放送局」は運営のコストがかかりすぎるのだ。主要帯の電波を塞ぎ、
アンテナを立て、大勢の人間が働く。そして電力を多く消耗する。そんな莫大なエネル
ギーが本当に必要だろうか?という疑問を、今回皆が持ってしまったのだ。震災の
報道を、通信会社とネットだけで配信した場合、そのコストは比べものにならないほど
違う。震災で電力が不足している折ならなおさら「テレビ局」は必要ないのだ。有事の
際に必要がないのなら、平時はもっと必要ないといえる。

もちろん情報インフラは複数の種類があったほうがいい。だがそれならテレビ局など
「国営」と「軍事」と「民間」の3つで十分だ。国営なんだか公共なんだか民営なん
だかわからないような「NHK」は必要ない。100%税金で運営する放送局が日本にない
というのも変だ。あってしかるべきだ。また軍が運営する放送局がないのも国家として
おかしい。震災や有事の時こそ軍放送が必要になってくる。娯楽だけを担当する民間の
放送局は1つくらいで十分だろう。そして民間は電力不足などの際には潔く放送を中止
すればいいのだ。その間のロスについてはスポンサーと相談すればいい。

日本には必要な放送局がなく、不必要な放送局だけある。NHKは「公共放送」だという
位置付けらしいが、昔はともかく今はもう貧乏くさい中途半端な「公共の放送局」など
必要ないのだ。しかも貧乏くさいシステムなのにも関わらず、使ってる金は巨額だ。
言ってみれば「仮設住宅を純金で作っている」ようなものだ。物や金が無い時代に
「みんなで金を出し合って、ささやかな放送局をひとつ作りましょう」という事から
始まったのはわかるが、もうとっくに日本はそのような状況から脱したのだ。NHKは
80年代に放送を終了するべきだった。
また民放も数が多すぎるが、その割には「キー局」という謎の制度によって地方で勝手に
放送局を作れないようにしている。増やしたいのか減らしたいのかわからない。恐らく
統制の為なんだろうが、インターネットの出現によってそんな情報統制は意味がなく
なっており、単なる利権の害悪を垂れ流している。


震災で「CMを自粛」というのも意味がわからない。国営や軍放送ならともかく、広告で
成り立っている民放が資金源を自粛してどうするのか。自粛したくないが、広告主が
取り下げたのかもしれない。しかし元からそういう仕組みの経営なんだから仕方なか
ろう。だからここは「潰れてしまえばいい」のが正解だ。会社というのはいつか潰れる
ものだ。本当は地デジにすると決めた時点で放送局の整理をするべきだったのだ。

pcfxがテレビを見ないのは「面白くないから」だが、必要のないものを、莫大な無駄で
運営している利権に供与することもない。もっと必要のあるものに金と手間をかけるべき
であり、それが本当の「仕分け」ではないのか。襟を立ててる女がするべき事は本当は
そこにあるのではないのか。もっとも、できないから襟を立ててる女が割り当てられて
いるだけなのだろうが。

今日本に必要なのは強硬な独裁政治であり、衆愚の「民主主義」でも「現状維持」でも
ない。明確な国益の為に強力に仕分ける人が必要だ。落ち着いたらまた民主主義でも
なんでも始めればよい。時代によってクーデターは必要であり、その決断は日本の代表者
がするべきだ。代表者とは天皇であり、実行は軍隊しか行えない。天皇は国民と共に
あり、民意が天皇を動かす。政治家や官僚などは天皇の代理をしているだけであり、
彼らが使えないのであればいつでもクビにして吊るせばよい。それが本来の民主主義では
ないのか。

電気のない生活

2011年03月16日 | そのた
電気のない生活を何度かしたことがある。途上国を旅行していると、都市部でも停電は
ありがちなことだ。南インドに数ヶ月滞在していた時、泊まっているホテルで一日に
何度か停電になるのが普通だった。日本でも電気料金を払ってなくて止められたことが
あった。

そのような場合に不便なのは「夜の過ごし方」だ。日が暮れてから寝るまでの間がヒマで
しょうがない。話し相手がいない場合は特にヒマである。照明がないので本も読めない。
懐中電灯などを使えば本は読めるが、電気のない環境というのは電池も貴重だ。そう
何時間もつけっぱなしにはできない。
たった一人で海外の、それも僻地にいる場合は言葉が通じるわけでもなく、真っ暗な室内
でラジオでも聞いて過ごすしかない。ラジオも電池がもったいないが、せめてそれくらい
つけてないと精神的に辛く、消費電力が少ないのでギリギリ許容できる娯楽となる。

電気が使えなくなると、普段自分がいかに電気によってさみしい思いをしなくて済んで
いるのかがわかる。また、いかに自分が孤独なのかも見にしみてわかるのだ。平時は
テレビやネットのおかげで気が紛れて気がつかないものだが、電気がなくなると本来の
自分の境遇というものが突き付けられる。逆に言えば、電気のせいで人は孤独になって
いるともいえる。

そんな時ほど他人の存在の有り難さを感じる時はない。話し相手でなくとも犬や猫がいる
だけで安心できる。電気のない状況というのは大抵静かなものだ。周囲の音がよく
聞こえる。隣近所の話し声や物音が聞こえるだけでも絶望的な孤独感から逃れる事が
できる。


ある国の山中で野宿していた。野宿などしたくなかったが、バスを降りるときに聞いた
「歩いて1時間」の筈のホテルに到着する前に、山の中で日が暮れた。知らない国の
山の中で、予定外に日が暮れるというのは恐ろしいものだ。日本なら、生えている植物
で大体の高度が予測でき、そのあたりにどんな野生動物がいるのかは想像できる。日本で
危険な動物は野犬・イノシシ・熊くらいのもので、出会いやすい季節や時間帯や場所を
勘案して避けることができるが、海外だとそれがわからない。だから日が暮れるともう
一歩も歩けなくなってしまう。そこで野宿だ。テントは持ち歩いてないので、簡単な
寝床を作る作業をせねばならない。シートに洗濯紐をくくりつけて木の枝に結び屋根を
作る。柔らかい枯れ草や落ち葉などを集めて敷き詰め、その上にもう一枚のシートを
敷く。火を起こし、一晩分に足りる枯れ枝などを集めにいく。バッグの中に残っていた
食べ物を出し、携帯鍋で沸かした湯を飲みながら黙々と食べる。ラジオをつけて野生
動物を警戒しながら寝袋に入るが、なかなか眠れない。一応長い枝を近くに置いて武装
する。たまに何かの動物の鳴き声が聞こえるが、それ以外は焚き火の音しか聞こえない。
とても不安で、とても寂しい。そんな夜はなかなか時間が過ぎていかない。
せめて仲間でもいれば話し相手になるし、交代で寝ることで安全も確保できるのだが、
一人だとそうもいかない。自分の一人旅を呪い、後悔し、よくわからない反省をする。

いつしか眠っており、気がつくと空が明るくなり始めている。荷物を片付けて出発する。
バス停から「一時間」の筈のホテルは、山を1つ越えたところにあった。途上国の田舎者
に道を聞くと大抵こうなるのは承知していたが、まだ本当にホテルがあっただけでも
よかったとしなければならない。道が反対だったり、山のはずが海に出たり、橋のない
川にぶちあたったり、いつの間にか国境を越えていて警備隊に銃を突き付けられた事も
あった。結局はバス停から6時間かかってその山小屋のようなホテルに到着した。

観光地でもない季節外れの辺鄙な山の中に「ニホンジン」が突然やってきたので、宿屋の
オヤジも当惑している。カウンターの中には散弾銃が用心のために置いてあり、オヤジは
それに何度も目配せをして警戒している。そして「外国人を泊めると警察に届出を
出さなければならないが、そんな経験はないのでやり方はわからないし、警察はだいぶ
遠いのですぐに行けない。だから帰れ」と言っている。途上国の治安の悪い地域では
よくある話だ。意地悪で言っているのではなく、面倒なことに巻き込まれたくないのだ。
中国との国境と近く、紛争地帯なので中国人を警戒する習慣がある。だからまず、自分は
中国人ではなく日本人で、その国とは友好関係にあるということを説明し、日本の電機
メーカーや車のメーカー名をズラズラ並べる。パスポートを見せ、こういう時のために
バッグに縫いつけてある日本国旗のワッペンを見せる。そしてトドメに札束を見せる。

大体はこれで宿泊OKとなる。辺境旅行ではほぼ毎回こんな調子なので、自分の中でセリフ
がマニュアル化されており、苦手な英会話もスラスラ出てくるのだった。とにかく安全で
金払いがよい事を強調し、部屋も割高な部屋を要求することがポイントだ。割高といって
も途上国の辺境だから、日本のカプセルホテルよりも安い。オヤジにカシオの安物の
デジタル腕時計でもプレゼントしておけば万全である。途上国の辺境でもカシオの名前
くらいは轟いている。オヤジは大喜びし、豪華な夕食にありつけるだろう。

そこに1週間滞在し、何をするわけでもなくブラブラする日本人に「ここに何しに来た
のか」と質問してくる。当然の事だ。観光地でもなければ観光シーズンでもない。
しかも山小屋のような宿屋に泊まっておきながら、山に登ることもないのだ。怪しさ
大爆発である。オヤジも自分も英語は得意でないので、あまり会話もない。だから毎夜
自室で一人だ。この宿には電気は来てないので、夕食が終わったら寝るしかない。
部屋にランタンはあるが、油は少ししか足してくれないので本を読む事もできない。
仕方ないのでラジオを小音量で流し、それを子守唄にしながら寝るのだ。


電気がない生活は不便なだけではなく、ヒマとの戦いが待っている。そして人との繋がり
の価値を再確認させる。本来人は孤独になることを恐れ、他人との同居に不自由や気兼ね
を感じても、それは孤独よりもマシなのだと自分に言い聞かせる。しかし電気によって
孤独の恐怖を忘れるようになると他人との同居などウザいだけであり、パーソナル
スペースを絶対のものにする習慣がついてしまう。そして災害にあった時などに己の
孤独を再認識して不安になってしまうのだ。電気によってもたらされた恩恵は計り知れ
ないが、電気によって疎外が進んでいる事も認識しておくべき事だ。非婚も少子化も
孤独死も地域や親子の断絶も、孤独を電気で紛らわせた結果起こっている。自分がどれ
ほど孤独に鈍感になっているかは、電子グッズを置いて遠くへ一人旅をしてみると
わかる。痛いほど孤独の辛さを実感できるだろう。ヒマな事は無駄のようで大事な事
なのだ。

今回の震災による停電で、このような事を実感している人も多いのではないか。対処は
2つあり、ヒマを耐えぬくだけの電池の備蓄をするか、人間関係を見直してパーソナル
スペースに人を入れる努力をするかだ。コストと取るか不便を取るかのイヤな2択だが、
これは孤独を避ける究極の選択だ。それでもきっと、多くの人が電池の備蓄を選ぶの
だろう。たぶんpcfxも電池を山ほど買う方を選ぶと思う。他人の干渉を廃して自我を通す
生き方は、孤独の寂しさをわかっちゃいるけどやめられない。そして後で必ず後悔する
のだ。


名古屋に住むなら?

2011年03月15日 | そのた
春は引越しの季節だ。転勤などで名古屋に来る方も多いかも知れない。他地域、とりわけ
東京などから名古屋に来る方に気をつけて欲しいのは「名古屋は車で移動するのが普通」
という変なルールがある事だ。

まず車の免許は必須だ。そして自動車の所持は半ば義務だ。車の免許を持ってないという
と変人扱いされる。同時に車を持ってないとやはりおかしな人扱いだ。これは大げさに
言っているのではない。名古屋の街というのは車で移動するのを期待して作られている。
他地域では駅を中心に街が構成されている。駅前商店街になんでもあるというのが普通
だ。ところが名古屋の駅前というのは実に簡素で、それよりも国道などの幹線道路沿いに
店が並んでいるのだ。だから幹線道路から外れている駅などはその周囲が実に寂しい。

「郊外ならともかく名古屋市内でそれはあるまい」と考える方もおられよう。しかし実際
にそうなのだから仕方がない。確かに名古屋市中心部ならばどこも賑わっている。電車や
バスもある。だが、名古屋人には「車に乗らなければ」という強迫観念があり、例え
名古屋市中心部に住んで名古屋市中心部の会社に通う若いサラリーマンでも、なぜか
多数の人が車を所持している。普段乗らなかろうが、駐車場に月3万かかろうが、安月給
でも車を持っている人が多いのだ。もうこれは名古屋の宗教であり、トヨタの影響なのか
どうか知らないが、とにかく車を運転するという事が常識の一つとなっている。

名古屋にもJRはある。だが東京と違い、その路線は南北にYの字で伸びているだけだ。
「名鉄」という私鉄もある。だがなぜかJRの路線と多くが重なっており、基本的には
JRと同じYの字路線だけだ。「近鉄」は名古屋駅以西までしかない。では名古屋人の足と
なる鉄道はないのかというと、メインは「地下鉄」になっているのだ。だから南北の
Yの字地域沿線以外に住む人は、普段「線路」とか「踏切」を見ることはない。JRや私鉄
は多くが高架になっているので意識の外だ。だから普段あまり行かない所に出かけた折、
たまたま踏切に差し掛かると「ああ、名古屋にも鉄道ってあったんだ」という変な感慨に
ふけることになる。それほど、多くの名古屋人にとっては「鉄道」は縁が薄いもの
なのだ。

普段から車で移動してる人でも、忘年会シーズンになると飲み会などで電車を利用する
機会がある。年に一回という人や数年に一回の人もいる。その場合、あまりに縁の薄い
乗り物なので切符の買い方すら忘れていることがある。これも誇張でもなんでもなく、
忘年会シーズンになると名古屋のサラリーマンの間で「いや~地下鉄なんて何年ぶり
だろう」「切符の買い方とか路線とかわかんなくてさー」という会話が普通に交わされる
ものなのだ。

地下鉄が名古屋人のメインの公共交通機関なわけだが、その路線は名古屋市の面積や
人口を考えると信じられないほどお粗末だ。ここ10年くらいでだいぶマシにはなって
きているが、それでも路線が少なく、乗り換えも不便で、しかも高いときている。
東京の電車賃に慣れた人にとって、その価格は暴利とも受け取れる値段だ。しかしこれは
仕方がない面もある。名古屋にも通勤や通学で電車を利用する人は大勢いる。だがそれは
通勤通学の時間帯だけしか利用者がいないという事を指す。東京などでは電車がメインの
交通手段なので、社用などでも電車を使って移動するが、名古屋人は一旦出勤すると、
社用での移動は車でするのだ。だから免許は必須となる。免許がないと仕事ができない。
それが前提なので名古屋の会社は駅から遠い立地であることも珍しくない。駅から遠い
ので通勤がどうしても車になってしまう。この循環が名古屋を特殊なものにしている。
社用での移動は車なので、昼間の電車のガラガラさ加減は酷い。鉄道会社は昼間の運賃
を稼げないので路線をなかなか増やせない。そして運賃は高くなるのだ。
名古屋市は人口の割に面積がやたらと広い。つまり人口密度が低く、全国順位でも46位
程度だ。だから公共交通機関の効率は悪く、名古屋市営の地下鉄などは数千億円の累積
赤字のまま営業を続けている。経営が黒字転換したのは、若者が車を買えなくなった平成
20年度からであり、それまでずっと赤字収支が続いていた。


名古屋市中心部の地下鉄駅、栄、名古屋、金山などは多くの通勤通学客で混雑している
ので、その場面だけ見ると普通の都市のようだ。旅行者や出張で来る人にはそう見える
かもしれない。だが一旦名古屋に住むと、車が必須になるという罠が待っているので、
名古屋に転勤などで来る人は覚悟が必要だ。大学で名古屋に来る人は車がないと寂しい
大学生活を送ることになってしまうだろう。


さて、名古屋市に住むとして、どこがいいのだろうか。他所から来る人には土地勘も
なく、名古屋の住宅事情の情報も、東京などに比べて少ないので判断するのが難しい
だろう。結論から言ってしまえば、車を持つ覚悟があるのなら「どこでもよい」という
ことになる。もちろん、名古屋市北部に会社があるのに南部に住むなどの無駄は避ける
べきだが、車で片道1時間以内であればさほどのストレスにはならない。通勤時の混み
合う時間帯で片道1時間なので、その通勤圏はおよそ20km以内としておくべきだ。20km
となるとかなり広範囲になる。その中から家賃や便利さなどを勘案して好きに決めれば
よい。さほど大差ない。

車をどうしても持ちたくないのであれば、迷わず駅の近くの物件にするべきだ。名古屋は
バスも不便なことが多いので、乗り継いでなどと考えないほうがいい。なるべく会社の
近くで、駅まで徒歩10分以内の物件をお勧めする。多少家賃が高くても、後々絶対に
よかったと思えるはずだ。何度も書いているが、名古屋は車移動がデフォなので駅から
遠い物件が多い。車なしでそこを選ぶと、周りがみんな車で移動する事に必ずコンプ
レックスを感じるようになってしまう。悪いことは言わないので、駅から近い所に
しといたほうがいい。近ければ近いほどいい。

それらを踏まえた上で、お勧めの地域がある。このお勧めの基準とは、家賃の相場や
交通の利便、生活のしやすさ、住民の民度などを総合的に考えてのものだ。

名古屋市南東地域では「昭和区」の地下鉄鶴舞線「いりなか」「御器所」の周辺だ。
名古屋市中心部にも近く、学生街なので店舗も多い。名古屋市東部なら「名東区」で、
地下鉄東山線「一社」「上社」「本郷」、千種区と被るが「星が丘」もお勧めだ。
名古屋市北部なら地下鉄名城線「黒川」の周辺は住みやすい。中心部から外れるが
「天白区」地下鉄鶴舞線「平針」「原」あたりも良い。ポイントは会社や学校まで電車で
乗り換えなしで行ける路線駅の近くだ。

気をつけたほうがいいのは名古屋市南部、及び西部だ。既に居住している方に失礼を承知
で書くが、特に南区や中村区は避けるべきだ。中村区は名古屋駅がある地域だが、駅の
西部は治安や民度に問題がある。南区も同様だ。お勧めはしない。北部も黒川以北は
不便であり、東北部の守山区、南東部の緑区も交通に問題がある。



名古屋市郊外という選択肢もあるが、名古屋市中心部に通うなら避けたほうがいい。通勤
に時間がかかりすぎる。一戸建てを建てるのならともかく、分譲マンションや賃貸に
住むのなら名古屋市中心部に近い所に住むのをお勧めする。車を持たないのなら尚更
だが、車を持っていても通勤の渋滞でストレスを貯めることになる。あまり中心部に
近いと、道路の混雑で中心部から出るだけで時間がかかってしまうので注意が必要だ。
昼間の電車が空いてるのは、皆が車で移動するからだ。道路は混み合っているのが通常
なのだ。

車で移動するのを前提に郊外に住むと、いざ車が故障した場合などに非常に困ることに
なる。大都市の周辺なのに交通機関が発達してないので、名古屋市の隣接地域でもバス
が一日4本しかなかったり、駅まで数キロ歩くはめになったりと不便なのだ。また名古屋
は雪や大雨に弱く、悪天候時などに身動きがとれなくなってしまう事が多い。車以外の
交通手段も計算に入れておかないと後悔することになる。


220万人を超える大都市で東京と大阪の間にありながら、公共交通機関が発達してない
車原理主義の特殊地帯。それが名古屋だ。行きたい店は駅から遠く、免許を持ってない
と人扱いされ、郊外に住むと身動きが取れない。そんな名古屋に住む事になったら、
真っ先に「車を買うこと」だ。中古でも軽でもいいから、とにかく車を確保しないと
大都市で遭難しかねない。どうしても懐具合が寂しいのなら、最低でも原付バイクは
必要だ。但し原付に乗ると「名古屋走り」で有名なマナーの悪い車に怖い目にあわされる
のは覚悟せねばならない。

そんな名古屋で、もし免許も車も持たず、徒歩と自転車だけで、何のコンプレックスも
持たずに快適に生活できたとしたなら、それはあなたの心が非常に豊かで恵まれている
という事だ。本来目指すべきはこの境地なのだが、衆生は惑い、愚かである。トヨタの
お膝元で洗脳された衆生は、公共交通機関が不便だからと車を乗り回し、交通機関の
充実を求めない。最近になって若者が車を買わなくなり、ようやく危機感を感じている
ようだが、車のメーカーに務める若者すら車を買えないようにしてしまい、その一方で
未曽有の富を独占した。下請けをイジメ抜き、ワガママな納期で苦しめ、尊大な態度で
威張り腐った結果をビジネスモデルとして誇示する。その金は本来、名古屋市民が不便な
思いをせずに移動するのに使うべき金だったとも言える。名古屋人はトヨタに愛憎入り
交じる感情を少なからず持っている。


歪んだ都市名古屋だが、住んでみるとさほど悪い所ではない。買い物やファッションで
困ることはない
し、オタク趣味も大須で賄える。ありありあり、東京にも大阪にも
近い。大空港もある。物価もさほど高くない。住民はクセがあるが、慣れればどうという
事はない。食べ物は味噌だらけかもしれないが、他に選択肢はいくらでもあるので心配
ない。せっかく名古屋に来るのなら、住みよい環境を探して引越しのハシゴをするのも
悪くない。