minority resistance

pcfx復活ブログ

人権と経済

2011年10月04日 | そのた
人類の、少なくとも先進国では概ね基本的人権が認められているようだ。この「人権」を律儀に守ると必ず
「最低限の生活保証」というものが必要となってくる。なぜなら最低限の生活保証ができないとなると基本的
人権が守られなくなり矛盾が生じるからだ。

「最低限の生活」をどこで線引きするかはいろんな解釈が出てくるだろうが、日本では「最低限文化的な生活」
と規定されている。衣食住に加えて「文化的」であることも保証されるようだ。実際はどうかしらないが。
また「最低限文化的」というのもいろんな解釈ができるが、まあ図書館が利用できてテレビが見られる程度
なのではないかと推測できる。

さて、これら「最低限の生活保証」というのが法治国家であり先進国であり民主主義国である矜持となっている
ようだが、これに矛盾する経済システムが「資本主義」だ。資本主義が完全に弱肉強食だとは思わないし、
幅のあるものだと理解しているが、基本的には弱肉強食そのものが資本主義経済の基本である以上、論理的には
矛盾するものだ。一方、矛盾しない経済システムに「共産主義」がある。

このように考えると、「最低限の生活保証」を行う「基本的人権」を認める国が「資本主義」であること自体に
矛盾があり、その矛盾を抱える国がある時期に「共産主義」に移行するのは当然の話であり、マルクスの
言うとおり「共産主義は資本主義の熟成の先にあるもの」という理論が正しいような気がする。いわば資本主義
は共産主義を達成する地盤作りの為にある過渡期のようなものだ。


で、現在アメリカで起こっている市民デモだが、国民皆保険制度にすら「自由」を標榜して反対する国民が
貧富の差に文句を言ってるわけだ。元々ユダヤ人が開発した「他人の財産を勝手に運用して利ザヤを儲ける」
というシステムの権化である「自由の国アメリカ」が自己矛盾に行き当った歴史的転換点だ。これはアメリカ
が一番最初に「資本主義の熟成」に達したという事ではないのか。金融のあらゆる手口を行使して儲け、そして
その限界点に至ったわけだ。アメリカに残された課題は、「どうやって自由と共産主義を両立させるか」という
前人未到のフロンティアの開拓だ。失敗すればソビエトの二の舞が待っている。

一方日本では「自由主義」の一員でありながら「社会主義」の要素が強いという国の歩みを辿ってきた。日本は
ことごとくアメリカを追従してきたようにも取れるが、実際はこの点でアメリカを社会構造が根本から違って
いたわけだ。「自由主義の上での資本主義」と「社会主義の上での資本主義」では、以前は自由主義の方が
うまくいっていたのだが、近年では社会主義の方がうまく行っている。これは資本主義の熟成によって日米とも
「基本的人権」も同時に熟成した結果、最低限の文化的生活を守るために「共産主義化」してきたので、
より共産主義に親和性の高い「社会主義」のシステムが有利に働いているということではないかと考えられる。
現在の日本一人勝ち(一人負けという見方もできるが)の円高傾向も、この点を各国が評価した結果とも
説明できる。


上記を一言で表すなら「際限ない自由は我慢するのが賢い」という言葉で要約できそうだ。エネルギー問題、
環境問題も然り。資源が有限なら自由も有限という事だ。エコだ節電だ省エネだというのなら、自由も節約
したりリサイクルしたり新しい自由源の開発をしなければならない。そこに最初に気がつくのは、やはり
資本主義と個人主義と自由主義の大三元をテンパイし、湯水のようにエネルギーをツモりまくったアメリカだ
ということだろう。まあ当たりが来ればアガれるのだが、来なければそれまでだ。

元々「経済それ自体」は大事なことではない。目的と手段の価値が入れ替わって、世界中が勘違いして追い求めた
手段が資本主義であり、もっと大事なものは「目的」だった筈だ。では人類に共通する価値の「目的」とは
なんだったのか。


それを皆で考えるという「余裕」は、手段に翻弄されている間は見えないものだ。そしてそれはテクノロジー
の開発が進まないと見えてこない「文化」の先にあり、それが見えている国は日米の二国しかなく、より
「手段」に翻弄されてない国である「日本」で見えやすいものだ。

「日本」に特有であり、近年世界から注目されている「文化」といえば「アレ」なのだが、その「アレ」の
どの一面や部分が「目的」なのかは、まだほとんどの人が気がついてない。気がつくと「ああそういうことか」
という程度の事なのだが、なかなか「アレ」を理解するのは難しく容易い事ではない。

皆さんも「アレ」の「ドコ」が「目的」なのか、考えてみてはいかがだろうか。とりあえず秋から始まる新番組
でも見ながら。

最近多い検索ワード20110921

2011年09月21日 | そのた
最近書きたいことがなくブログを書いてなかったが、このブログに到達した検索ワード
で多かったものをまた紹介する。


スラップファイト

やはり往年の名作だけあって検索が多い。またスラップファイトに関する情報も少ないので
ここがヒットしやすいのだろう。


原子力発電の問題点

まだこれといった改善がみられない福島原発。やはり不安な人は多いらしい。pcfxはこれに
ついて「原発の問題などまだ存在しない」と書いた。一見原発の問題に見える事象は大抵が
政治問題や経済問題や感情論だ。技術としての話になると「核分裂反応は制御できていない」
という意見が必ず出る。そのとおりなのだが、放射能汚染の危険と決別するのと引き換えに
不便な生活を積極的に導入しようという意見は聞かない。エネルギー問題の対案もでてこない。
脱原発デモなどという政治問題は原発の問題などではない。


ドラゴンに犯される

この検索ワードは実に多い。よほどドラゴンによる人間レイプの需要があるのだろう。いっそ
この需要を満たす作品でも作ろうかと考えてしまうほどだ。


浅井三姉妹 江の里

最近は何事もネットで調べてから出かけるという風潮なのだろう。しかし検索ワードには
「がっかり」という単語が付随している。確かに大した展示ではない。
自称・公共放送局による全然ダメな歴史ドラマの舞台になったというだけだ。


豊田 六所神社

霊験灼かで風光明媚な神社である豊田市松平郷の六所神社の検索は多い。最近は豊田市の
神社で行われているスタンプラリーで訪れた方もいるのだろう。このスタンプラリーは
豊田の文化会館にてスタンプ用紙をもらい、豊田市内にある神社のうち神楽殿のある
数十箇所を回って、舞台にある現代アートを見物しながらスタンプを押しまくるという
イベントである。10月の中頃くらいまでやっており、スタンプを集めるとなんかの景品が
もらえるらしい。pcfxも友人のTELと共に回っている。現在半分くらい集めた。


佐久島(の猫)

猫と戯れたいがために佐久島へ渡る人が多いらしい。しかし肝心の猫がどこに集まっている
のかの情報がないため、皆必死でググッているようだ。ブログにも書いたが、日中は集まって
いないことが多く、夕方にエサをくれる家の前に集まるようだ。場所は島の西側にある
「つるや」という雑貨屋さんで聞くと教えてくれる。行くのも帰るのも不便だが、とても
いい島なので是非訪れてもらいたい。島にある神社への参拝も欠かさずに。


李朴太郎

pcfxが李朴太郎というハンドルネームであると正体を明かしたため、このワードが多い。
2chのハングル板で書き込む時だけこのハンドルを使っている。最近は書き込んでないが。
ちなみにpcfxは日本人だ。李朴太郎の立ち位置は「笑韓」で、韓国は多くの外国の一つでしか
なく、笑わせてくれる国だという認識を持っている。在日韓国人に対しては帰化を勧めている。
なぜかというと、どうせ韓国に帰国したところで居場所などない人がほとんどだからだ。
また、韓国人である事にいつまでもコンプレックスを抱くくらいなら帰化して日本人になった
ほうが楽だ。歴史も捏造せずに済む。韓国が変わらない以上、韓国人であることをやめるのが
得策だという話。


名古屋市科学館(接客態度・スタッフ感じ悪い)

pcfxは今年の春にリニューアルした名古屋市科学館のスタッフの接客態度が悪すぎると書いた。
同じような感想をもった人が多いらしく、この検索ワードも多い。展示物の没個性やプラネタ
リウムの事など細かいことは色々あるが、その根幹にあるのは名古屋の文化事業への取り組み
方がヘタだということだ。西日本は歴史が古く、文化の重要性を認識している人が多い。
また東京は人が集まる首都なので文化事業もレベルの高いものが求められる。だが名古屋は
信長の昔から文化よりも実利という風潮があり、経済や工業は発達したが文化面が充実して
おらず、それが名古屋市科学館の運営に色濃く見えるということだ。
ボランティアスタッフを起用してコスト削減に努めているのは理解できるが、それは裏を
返せば経済面を優先して文化事業とはなにかということを置き去りにしている事になる。
名古屋人が他の地方でよく馬鹿にされるのは、文化に問題の根幹がある。

原子力発電の問題点

2011年08月09日 | そのた
以前にも原発について書いたが、もう少し踏み込んで考えてみた。

pcfxの考えは、「原発問題など存在しない」という事だ。今回の震災で被害に合われた方が
これを読むと憤慨するかもしれないが、まあ続きを聞いてほしい。

「原発問題など存在しない」というのは、「問題がまだそこに達していない」という事だ。
原発の問題点は、「ロクに制御できない核分裂反応を強引に実用化して発電所付近住民を危険に
晒している」という事だ。左翼活動家が言う「原発反対」の真意がどこにあるかは想像するしか
ないが、おおかた予想はできる。1つは政治的理由、もうひとつは無知ゆえの理由だ。中国か
朝鮮あたりから日本の技術向上を妨害、もしくは日本国内で分断工作せよとの意向を受けて、
金儲けでやっているか、「あぶない→やめるべきだ」という短絡思考のどちらかという事になる。
そのようなものは「原発問題」ではなく「政治問題」なのでお門違いといえる。


立場別で考えてみる。

「核分裂や放射性物質そのものに反対」の場合、自然界で起こっている化学反応を知らないだけの
無知なので、これは教育でなんとかするしかない。感情に走って短絡するというのなら、精神科
の出番だ。日本には健康保険があるので利用していただきたい。

「制御できない技術の急進的利用に反対」というのがノーマルな反対理由か。しかしそれでは、
量子論という不安定不確実な学術に基づいて電算・通信技術が成り立っている事にも反対しなけ
ればなるまい。コンピュータ技術でのエラーや故障は頻繁に起こっている。それによって時間的
または金銭的に損害を被っている人など世界中にいる。量子的振る舞いは偶然性と確率論の
上に成り立っている。世界中で火災が年中起こっているが、「炎」ですら人間は管理できて
いない。発火(または酸化)も「制御できない技術の急進的利用」にあたるのだが、これも
やめなければ辻褄が合わない。

つまり上記には問題などなく、それによって起こる「危険性」が問題になってくるのだが、
では、例えば「地球外に原発を作れば解決」なのか。地球の近所には「太陽」という核融合と
放射線祭り
のような天体があるのだが、これがひとたび暴れだすと地球上の生物など一瞬で
焼け死んだり、放射線で遺伝子が傷ついて奇形(または突然変異)だらけになるのだが、では
太陽は危険だから止めろ」というのか。あんな水爆のカタマリみたいなのをどうやって
止めるつもりなのか知らないが、無理なことをいうものではない。止めたら止めたで、やはり
地球生物は死滅することになるが、それでもいいのか。

これらでわかるように、「原発だから、制御できないから、危険だから」という意見は意味を
持たない


物事というのは、論理の着地点を一応決めてから話すべきものだと思うが、ではこの場合の
着地点とはなんだろうか。そもそもは電気エネルギーが必要という話だった筈で、その方法の
ひとつとして「原子力発電」があった。電気エネルギーを「効率良く・ローコストで・安全に」
取り出せれば解決なのかというと、ここで話を終わらせるとまた間違うことになる。なぜなら、
「どうして電気エネルギーが必要なのか」という根本的な問いが置き去りになっているからだ。

生物として遺伝子を未来に繋げていくだけならば、人間はこんなに数は必要ないし、電気
エネルギーも必要ない。さっさと不用な人数を殺戮して、残った人間が原始時代の生活に戻れ
それで事足りる。遺伝子カプセル論者は今すぐに人類を50億人ほど殺せばいいと思う。だが
それはできまい。物理的には可能だが、殺される方も黙っていないので、一旦その流れに
なったら滅亡レベルまで戦うことになる。目的は「遺伝子の保存」だった筈だ。

ということは、人類はとりあえず減りたくない、死にたくない、そして不便なのは今更イヤ、
というのが共通の落とし所になるだろう。だがしかし、このまま人口が増え続けると、そのうち
に資源の枯渇、食料・水不足になるのは自明だ。この矛盾を解決する手段は二つだけだ。
ひとつは「肉体を必要としない知的生存」であり、もう一つは「地球外への居住」だ。

「肉体を必要としない生存」については「遺伝的な生存」と違って来るのでここでは置いておく
として、「地球外への居住」はこの世に「人権」というワガママな幻想がある限り、いつかは
達成しなければならない課題だ。


さて、一口に「地球外」というが、重力や大気圏突破などの障害を超えて、大量の人間や物資を
どうやって宇宙に運ぶのかが問題になる。現在のロケットなどでチマチマ運んでいたら燃料も
膨大に必要になるし、時間もかかりすぎる。つまり効率が悪いわけだ。それをなんとかクリア
したとして、今度は宇宙でどうやってエネルギーを作るかという問題が待っている。宇宙空間や
どっかの惑星・衛星に都合よく燃料になるものがあればいいが、なかったり取り出すのが困難な
場合、現存の技術で得られる、最も効率のよいエネルギー生産を使うことになるだろう。

それが「核分裂・核融合」での発電だ。つまり、この時のために必須な技術が「核分裂反応の
制御」である「原子力発電」であり、その技術を多分に応用しなければならない「核融合」
だということだ。当面の着地点はここだ。

宇宙に住むにしても、エネルギー生産区画が居住区とかけ離れ過ぎるわけにはいかない。利便性
と物資の限界を考えると、ある程度居住区画に近いところに発電区画を作ることになる。また
太陽からドバドバ出ている放射線も大気がないところでは十分にシールドしなければならない。
宇宙に住むというのは放射線だらけの所に住むということであり、それらを防ぐ技術を我々は
持たなければならない。そこにも「原子力発電」の技術が絡んでくる。


pcfxが主張する「原発問題など存在しない」というのはこのような事だ。太陽が制御できない
以上は、人類は明日にでも滅亡する可能性があるということであり、それならばキチンと
段階を踏んで、予算を潤沢に使いながら原発の研究を続ける必要がある。発電に使う事のリスク
など、太陽に比べればあって無きが如し
だ。原発が100%安全とは言わない。むしろ危険だ。
だが、このまま人口が増え続け、それを止める手段も減らす手段もなく、且つ現在の便利な
暮らしは捨てたくないというのであれば、引き換える対価としての原発のリスクは、その運用を
間違えない限り飲んでよい条件に思えるが、どうか。


で、それよりも先にやっておくべき事がある。「政治問題」「利権問題」「教育問題」だ。
核分裂の制御よりも簡単な事なので、真っ先に解決しておくべきだ。まず政治問題だが、
「原子力発電所」は軍隊が守らなければならない。その建設基準も軍事的な規格を必要とする。
技術流出防止も保安も軍隊で管理すべきレベルのものだ。ところが日本には「軍隊」がない。
いや、軍隊はあるのだがまともな指揮命令系統と法律がない。というわけで、そんな国に
「原子力発電所」など100年早い
のだ。まずは軍隊を明確に規定する法律があり、お飾りの
持ち回りが露呈した「総理大臣」などが最高指揮権を持つなどという命令系統を変えなければ
ならない。民主主義なので、時には左翼政権になる時もあるかもしれないが、そんな時に
左翼総理が「応戦しません」などと言えば国が滅びる防衛は思想の前にあるべきものだ。
では誰が最高指揮権を持つべきなのかというと、それは日本国と命運を共にするだけの存在と
価値がある「天皇」が持つべきだ。いつまでも戦争責任回避とか逃げていないで、ここらで
性根を据えて責任を持たせるべきだ。それがイヤなら、思想に振り回されないしっかりした
内閣の仕組みを作ることだ。現在日本には「将軍」がいない。これが一番の政治問題だ。

「利権問題」は論外だ。そもそもインフラを民間だけにするなど狂気の沙汰だ。アジアでの
統治者というのは「灌漑水利企画者」から始まっており、現在でも基本的には変わっていない。
その水道工事に、電気とガスと通信が加わっただけで、国家の基幹事業なのは同じだ。
統治者が基幹事業を民間に丸投げなどするから、国家観がブレて混乱するのだ。インフラ事業は
軍隊の管轄下にあるべき国の背骨だ。そこに多少利権構造が絡むのは大きな問題ではない。
民間に丸投げする方がよほど問題なのだ。

最後に「教育問題」だが、どんな集団でもエリート・中間・バカという三層に分かれるのが
人間なのだから、どんなにバカに教育を施した所で根本解決にはならない。「バカに分類される
と意見を言わせません
」という明確な差別が必要なのだ。選挙権の剥奪やネットの利用制限
程度で十分と思える。無論、その評価を誰がどのように行うのかという問題はあるが、そこは
判断基準の固定や世襲さえしなければ大した問題ではないと思われる。流動的で緩い法律で
十分であり、現在の偏差値基準の受験程度のもので解決できるはずだ。「放射線が何かよく
わからないけど、なんとなく危険だと思うしテレビでそう言ってるから原発はんた~い!

というレベルの人の意見などトラフィックにしかならないのだから排除すべきだ。わざわざ
民主主義の欠点である衆愚性を律儀に守ってやる事はない。痴呆老人の選挙権を左翼や創価学会
が利用してる現実が「真の人権侵害」
なのだ。

このように、「原発問題」というのは「まだ」存在していない。そこまで達していない低レベル
な状況である事を踏まえ、一つ一つ解決してからやっと純粋な「原発問題」に到達できるのだ。
どこの国であろうとこの条件は同じで、その目標は人類共通の未来問題「宇宙移民」だ。
人間の存在理由は単なる「遺伝子伝達カプセル」から「生存戦略生命体」に、とっくに
変わっているという事も忘れてはならない。何か神的な者に我々は「きっと何者にもなれない
存在なのかどうか、試されているのかもしれない。人類は道なりに進むしかないのだ。

韓国の反日

2011年08月05日 | グッズ
韓国にある程度足を運んだ事がある人にはわかると思うが、韓国は「全体的に反日」というわけ
ではない。このように書くと「そんなわけないだろ!国を挙げて反日じゃないか!」と日本人
なのに韓国人の得意技である「火病」を発症する人もいるようだ。ソウルだけでなく、地方都市
や田舎にも足を伸ばせば、「日本人」は大抵「珍しがられ、羨まれ、構われる」という経験を
する事になり、それは諸外国でのそれと大差ない。もし日本人とわかると直ちに石を投げてくる
ような国であれば、外務省が渡航を制限しているだろう。だから「深刻な反日」とはいえない。


韓国人の頭の中には「とあるルーチン」が強固に刷り込まれており、このルーチンは「戦争」
というキーワードを耳にすると勝手に動き出すようになっている。
「戦争→第二次大戦→日帝支配→自分たちは犠牲者」と自動的に連想する仕組みだ。もう一つ、
「日本」というキーワードに反応するルーチンがあり、「日本→韓国との比較→韓国は負けている
→勝たなければ」という自動連想が働く。これらは大抵の韓国人の頭に刷り込まれているが、この
ルーチンが敏感に作用する人とそうでない人がいる。教育程度の低すぎる人には刷り込めていない
し、高すぎる人はこのルーチンを多用しない。戦争世代の老人には事実を知られているので通用
しない。普通よりやや低能な韓国人に最も強く作用するルーチンだ。


で、現在の韓国アレルギーになった日本人は、この自動連想の性質を持って「韓国は反日だ」と
語るのだが、これを日本人に当てはめてみると「戦争→第二次大戦→原爆→自分たちは米帝の
犠牲者」「アメリカ→日本との比較→日本は負けている→勝たなければ」となる。よく似たもの
を日本人も持っているわけだ。無論お花畑左翼の連想はこれとは違うが、普遍的な日本人の連想
だろう。
ではこれをもって日本は「反米」なのかといえば、全く違う。「アメリカ文化かっちょええ!」
の時代があり、バブル期の「アメリカ人はバカだな」という見下しを経て、「まあアメさんも
色々大変だねえ」という価値相対化まで進んでいる。

「敗北ルーチン」は日韓双方に共通する自動連想だが、それは強国に対しての反感の原因には
ならない。現に日本人は「反米一色」になっていない。では韓国人から強く感じる「反日」は
どこから産まれているのだろうか。

pcfxはこの問題に関して「歴史的に根の深い問題」だとは思っていない。もっと軽薄で単純な
問題
だと楽観している。よく「恨」の精神だとか「ずっと属国」だとかが原因と言われて
いるが、それがさほど強力に作用するのなら、日本人は「和」の精神や「島国根性」によって
戦争などせず国内事情ばかり注視する「気弱な土人」のままであったろう。しかし現実には、
日本では武家政治が長年台頭し、アジア地域でいち早く西欧文化を取り入れた。だから民族的な
精神性はエフェクト程度には作用しているかもしれないが、決定的な原因にはなっていないと
考えている。

さて韓国の「反日」だが、韓国で耳にし、また直接言われる「反日感情発言」を聞いていると、
新興宗教にかぶれた人の話」によく似ていると感じる。昔「ライフスペース」という新興宗教
があり、その主催者や信者が「定説です」というフレーズを多用して話題になった事がある。
詳しくはググるなどしてもらうとして、「定説です」という言葉で思考停止する事によって、
世間の常識や合理性との矛盾の一切を捨て去る洗脳だ。まさに韓国人の「反日感情」がこの
「定説です」と同じで、韓国が置かれている相対的な立場の低さを思考停止するために作用
している。

ではこのような「思考停止」は韓国独自なものかといえば、全くそんな特殊性はなく、途上国民
には誰にでもある普遍的な「強がり」
に過ぎない。韓国はその「強がり」が多少強いだけで、
「俺たちの国も負けてないぞ」という感情はどこに行っても聞く言葉だ。この「強がり」は、
実行が伴っていれば「ハングリー精神」として国威発揚の原動力となるが、伴っていない場合は
単なる欺瞞となって発展は停滞、若しくは後退する。韓国の場合、産業の一部については周りに
お膳立てされながらも一応
は「発展」に作用したが、精神性や民度においては「停滞」に作用
した。しかしながら、その精神性や民度も、最近は少しずつではあるが前進している様子も
伺える。ネットや海外旅行・留学などによって、他国との相対化という「実行」が伴ってきて
いるのだろう。

韓国は「歴史捏造」が産業レベルまで進んでいるダメ国家だ。事実の改竄がマスプロダクトで
効率良く生産
されている。これは「マイナスの実行」にあたるため、これを進めればどんどん
後退していく事になる。どこの国でも、国際政治的に多少の歴史捏造をするものだが、それらは
大抵の場合、コッソリヒッソリ行われている。そして矛盾を指摘されると、何かと反論しながら
も時間をかけてコッソリヒッソリ修正して、いつの間にか事実に置き換えていく事で後退を
防いでいる。しかし韓国が素直に歴史認識を国際基準に合わせると「中国の一地方でしかない」
という事実や、歴代の王が中国の地方官僚に土下座する立場でしかなかった事を認める事に
なるので、油断していると未だに領土拡大の野望に明け暮れている中国に今度こそ飲み込まれて
しまう。

よく「フリーチベット」を叫ぶ人がいるが、立場はチベットもネパールも韓国も同じなのだ。
昔は中国にとって東側の領土よりも西側の方が政治的に重要だったので、朝鮮半島の地方領主に
任せる程度で放置されてきたが、現在は東側も重要になってきているので危険性は上がってきて
いる。そのように考えると、北朝鮮とも停戦状態が続く崖っぷちの韓国の「強がり」は、日本に
対してではなく「中国」に向けられているものになる。だが、長年中国の属国だった韓国では
中国に楯突くのに慣れていないし、また抵抗を感じる。そこでとりあえず、吠えやすい「日本」
に対してワンワン吠えるのだ。だから韓国の「反日」などは、特に意味があるわけではない
言うこともできる。これはアメリカに対しても同じで、韓国では反米も根強いが全力でアメリカ
に楯突くと怖いので、これも日本に吠えることで大部分を代理行為としている。


それら日本への八つ当たりも、いつまでも続くものではない。最近の「韓流」というウザい
プロモーションは、「韓国を認めて下さい」という、「ポスト反日」の活動だ。しかしそこは
日本と違って下から出るのが苦手な国であり、また日本よりも積極的なので、あのような形
なってしまっている。日本文化は外国に「見つけられて」浸透していったが、韓国の現在の
文化は「日本製と見分けがつかない」または「劣化日本文化」なので、積極的に見てもらう
必要がある。だからとにかくメディアに露出しないと始まらないのだ。

これらのプロモーションが成功したとして、日本人が「韓流」をどう認識するようになるか
というと、「ああ、あの三流芸能ね」という認識が定着するだけのことだ。頑張っても「二流」
止まりだ。「韓国は二流・三流」という認識なら現在のそれと変わらないが、なぜ韓国が
そんなに必死に無駄な事をするのかというと、とにかく「韓国」という国のイメージを、
「比較にならない程低劣な国」から「微妙だけどまあまあな国」にレベルアップしたいようだ。
日本人ならこういうとき、「誠心誠意、真心込めて、地道に一から努力して」という行動を
取るものだが、韓国人にはそのような精神はないので「とりあえず対等か、上から叩きつける
ように強引に、できるだけ楽に、過程は飛ばして結果重視で
」という態度になる。だから
一方で竹島を不法に実効支配しながら日本人に親しまれようとする矛盾があっても気にして
いない。だが日本人がその整合性を見逃す筈はなく、韓国の国家プロジェクトである「韓流」
も失敗に終わり、「やっぱ韓国は三流だな」という日本人の認識は揺らがない結果になるだろう。

そして「こんなに頑張ったのに韓国を認めない日本人」に逆恨みするのが韓国人のいつもの
パターン
だ。今回もそうなるだろう。だが一方で、徐々にではあるが反省点を分析できる
韓国人も増えている。先日日本人の政治家が鬱陵島を視察しようとした事で起こった騒ぎでも、
今回は日本人の政治宣伝にしてやられた」と感想を述べる韓国人もいたようだ。その一方では
「テコンドーで日本人を懲らしめる」「唐辛子を空港にばら撒いて暴れる」などの伝統的な
韓国反応もあったが、冷静に分析でき、それを表明できる段階に韓国人が露出しはじめたのは、
韓国の夜明けも近い事を表している。現在は過渡期にあるようだ。


「反日」といえば「中国」もそのような傾向があるが、現在中国と韓国は、どちらが先に
「反日」という装置を使わずに国内統治を制御できるかを競争している立場にある。「反日から
の脱却」ができた時、はじめて日本と同列に立つ事ができる。最初から反日でなかった国から
すれば、「なにを今更」と見えるだろうが、近い国というのはなかなか和睦できないものだ。
「戦争の被害者」という立場を誇張しなくてもやっていけるようになった時、アジアで一番
困った民度の人たち
がやっとアジア標準レベルになり、日本も脱亜論の地勢的矛盾から解放
されるのだ。えらい遠回りで徒に時間がかかっているが、避けられない道だ。


そして「韓国の反日」が政治的安定によってようやく収まった時、韓国人が抱える問題は皮肉
にも「日本の反韓」であり、「どうして日本人はいつまでも韓国を恨むのか」と不思議に思い、
その原因を知った時に反省や謝罪ができるかというと無論できる筈もない。「いつまで過去に
拘るのか」と厚顔無恥に言い放って益々「日本の反韓」が強まっていくのだ。このパラレルな
憎しみの構造は繰り返していくだろう。だから日韓関係は友好的にはならないという前提
元で落とし所を見つけるべきであり、お互いに距離を保つしかないのだ。

次の大戦が終わるまでは。

ニュートン9月号

2011年08月03日 | マンガとかアニメとかほんとか
年中「宇宙宇宙」言ってる宇宙偏重科学雑誌「Newton」。この夏創刊30周年を迎えた、日本で
最もクールな理系雑誌だ。前回8月号の記事も書いたが、この度9月号が発刊されたのでまた
紹介する。30周年おめでとうございます。あと70年は頑張って下さい。



何かと文章や数字が行列しがちな科学雑誌にあって、「Newton」は「グラフィカルサイエンス
マガジン」を自称するだけあり、その誌面はイラストに満ちあふれている。よくもまあこれだけ
毎月描くものだというほどイラストだらけであり、しかもその多くは宇宙に関するイラストだ。
前回pcfxが「宇宙のイラストだらけで真っ黒け」と書いたからかどうかは知らないが、今回の
9月号は少し黒さが抑えられたようだ。まあそれでもまだ黒いのだが。現在はCGで比較的楽に
描けるようになったが、昔は職人が全部手で書いていたのだ。そしてその量は現在とさほど
変わらない。

「Newton」の¥1000という価格は雑誌としては少々高いが、宇宙だらけのイラストを眺めるだけ
でもその価値はあるといえる。例え九九がウロ覚えで水の化学式が書けないような人でも、
何となく波動関数がわかるような気がしてくる不思議な理系養成雑誌が「Newton」だ。

イラストが多いのでお子様からお年寄りまで楽しめる。内容が理解できるかどうかが重要なの
ではなく、常に科学に目を向けさせ、科学だけが物事を解明する手段だという認識を持続させる
のが、教育と教養の最重要課題だ。一旦それを刷り込めば、あとは勝手に好奇心が動き出して
止まらなくなる。


さて9月号だ。創刊30周年で、2号連続で大特集されているのが「大宇宙」の特集だ。今回は
後編ということで、前回8月号から踏み込んだ詳細と総括に進む。ていうか、「Newton」は
一年中「宇宙宇宙」の雑誌なので、今更宇宙特集とか言われても「またかよ」という感じ
なのだが、「Newton」の編集者がよほどの宇宙フェチらしくて、もう宇宙と結婚する勢いなので
仕方がない。8月号と同じく、おまけで小冊子がついてくる。これ一冊あればホーキング博士と
同等な宇宙認識が持てるという、インテリジェントブーストな付録だ。この「Newton」のおまけ
が「アンドロメダ萌えグッズ」とかになったら面白いのだが、このご時世なのであり得るかも
しれない。表紙に初音ミクがデカデカと載る「Newton」も見てみたい。


9月号の中身だが、それは買って読んでほしい。図書館ならタダだし、試しに立ち読みもアリ
だが、とにかく内容は自分の目で見るのが大事だ。しかしそれだけでは何なので、さわりだけ
少し書く。

「大宇宙」というタイトル通り、宇宙はとんでもなくデカい。デカいだけならまだいいのだが、
これまた物凄い長期間営業している巨大デパートだ。しかも基礎建設は一瞬で完成。そして
137億年を経た今も尚、拡張工事の真っ最中だ。あんまり昔に出来たので、初期の頃にテナント
を出したショップが今もあるのか店長ですらわからず、あんまりデカいので、自分の自宅も
デパート内にあったりする。普通の建築と違い、このデパートは「何もない所から急にできた」
という常識ハズレな建築法で建てられた。

「そんな非科学的な」と思うかもしれないが、あらゆる科学的根拠とされる宇宙の法則は、
実は非科学的なのだ。何が間違っていたかというと、人類が考えた今までの科学が間違って
いたのだ。正しい科学では「宇宙は何もないところから急にできる」のだ。何でもアリアリで
イケイケでゴーゴーな科学が正しいらしい。100倍のオッズの競馬に100円を賭けて当てると、
普通の競馬場では1万円もらえるが、正しい科学の競馬場ではいくら当てても配当がマイナスに
なって請求書が送られてくる事がある。今日のおやつがマイナス1個のリンゴだったり、
父ちゃんの給料は給料袋を開けるまでいくら入っているか経理ですらわからない。そういう
わけのわからない世界に自分たちは存在しているので、宇宙が何もない所から急に作られても
不思議じゃないですよ、という事を証明するために世界中の理系エリートな人たちが日夜
頭を捻っている。まるでギャグマンガだが、恐ろしい事に皆んな真面目にやっているのだ。

で、宇宙の始まりも宇宙の終わりも、誰かが見たわけでもなく、全部計算によって導き出した
答えだ。これが当たっているのか外れているのかは、誰も見たわけではないので判断の仕様が
ない。計算が間違っているかどうかを検算して判断するしかないが、計算のエリートが出した
答えなので、せいぜいカシオの電卓で四則計算くらいしかしない庶民は、√とかの記号が出た
時点で計算を早々に諦める人が続出する。まあ計算キチガイがそういうのなら、俺らが考える
よりも正しいのだろうと信用するしかない。


「Newton」9月号の特集は最後に、宇宙がどのような終焉を迎えるのかという予想で結んで
終わる。ここのところは面白い記事なので、是非雑誌を読んでほしい。10の100乗年後くらいに
宇宙がどうにかなってしまうらしいが、10の100乗年後とかいわれても困る。

人類が現在までに発見している物質やエネルギーは、まだ極一部らしい。法則というジグソー
パズルの完成枠は大体わかってきているのだが、完成するのには足りないピースがまだ
机の下だとか絨毯の隙間だとか犬の宝物入れなどにたくさん隠されているようだ。だから
パズルの盤面上だけをどんなに探してもピースは見つからないし完成もしない。それら見えない
ピースの絵柄によっては、完成した時の一枚の絵の内容が、想像していたのとえらく違う
ものになるかもしれない。今のところ盤面にあるピースから想像する絵はモナリザなのだが、
実は完成すると萌えアニメのパンチラかもしれないのだ。そのくらいまだわかってない事が
多い中途半端な方法論が現在の科学だ。だから過信したり信仰したり全財産突っ込んだりしては
いけないという事だ。

さて、「Newton」も宇宙の大特集をやって少しは気が済んだのか、9月号の後半は生物関係に
誌面を割いている。pcfxの願い通りになっているので気味が悪いが、やはり夏だけあって
恐竜関係が多い。夏休みで子供が自由研究だとかヒマだったりとかするので、やっぱ夏休みと
いえば恐竜だ。また夏と言えば昆虫だ。子供はヒマがあるとすぐ虫を捕まえようとする。猫と
いっしょだ。夏休みの昆虫の代表はカブトムシだが、「Newton」9月号にはアリについて
おもしろい記事がある。あとは原発の問題に関心が集まっているので、放射能と体について
科学雑誌らしい解説が載っている。B&Bやネイチャーからここ2ヶ月のおもしろいトピックも
あり、充実の内容で便利で楽しい。


「Newton」の編集長は「水谷仁」氏で「科学のエライ人」だが、さすが編集長のあとがき、
いいことをさらっと書いてある。”一説には宇宙の「宇」の字は空間、「宙」の字は時間を
あらわすといいます”とのことだ。もう最初から「宇宙」は「時空」だったというわけだ。
空間と時間を同じように取り扱う事に一般人は慣れていないが、「宇宙」の一言で要約して
もらえるとわかったような気がするから便利だ。

また、ともすれば合理主義の成果主義の研究主義に走りがちな科学だが、水谷編集長の
誌面作りの根底には「人間への愛」があり、それを感情的にではなく心理学的に表現する
手法は、科学者としても編集者としてもベストソリューションといえる。まさに科学雑誌の
編集長たるにふさわしい人物だ。高価な理系雑誌が30年も休刊せずに続いているのも、人間
をおいてきぼりにしない編集長とスタッフの努力あっての結果だと断言できる。

大抵の本屋に置いてあり、年間購読もでき、最近では電子書籍にも対応している。多数の特集
を持つムックもあり、子供から大人まで楽しみながら知恵がつく。月末か月初めには書店に
並ぶので、是非一度は手にとって、隅から隅まで読んで子供と一緒に知恵熱でも出してみる
のもいいだろう。

コンシューマ機はどうあるべきなのか

2011年07月31日 | げーむ
3DSが突然1万円も値下げした。よほど任天堂も苦しい立場にあるのだろうが、「3Dモノは当面
メインフレームにならない法則」というのがある気がする。人間の目は正面に2つあり、位置の
差分から自然に立体視が可能となっている。つまり最初から立体視できる目を持っているわけだ。

現在のモニタで3D表示する場合、錯視させて無理矢理立体に見せる。見るという行為に余計な
行程をひとつ追加しているのだ。立体視に無理があるのは、この余分な行程が違和感を感じる
からであり、人間工学に基づいていないのが原因と考えられる。

元々立体視できる目を持っているのに、なぜ無理をして更に立体視しなければならないのかという
事で、それがウザったいわけだ。余程立体で見たくてたまらない映像でもない限り、その根気は
続かないだろう。例を上げればアダルトビデオくらいか。

「飛び出す絵本」というのがあるが、世の中の全ての絵本が飛び出すのは少々ウザい。また全ての
本がいちいち飛び出していたら物凄くウザい。「飛び出す週刊誌」「飛び出す文庫本」「飛び出す
辞書」など、飛び出さなくてもいいどころか、飛び出すなと叫びたくなるだろう。人間はごく
たまにしか飛び出すのを望んでいないのだ。

それでも立体モニタの時代は必ず来るだろう。しかしそれは平面のモニタが目に負担をかけて
立体視するタイプのものではなく、立体のモニタに立体像が浮かび上がるスタイルに限定される
と考えられる。立方体の透明な箱の中の映像を360度から眺められるような物だ。これなら
人間の目は通常の物を眺めるように立体映像を見る事ができる。
だがそのようなモニタの開発には、もう少々時間が必要だろう。


さて、pcfxは「バーチャルボーイ」を発売日に買ったクチだ。実は立体視が好きで好きで
たまらない種類の人間であり、じゃあ今までの前置きは何だったのかと問われれば、そんなのは
一般論だと開き直る。だが、立体視が好きだからこそ、その欠点も細かく指摘できるつもり
になっている。バーチャルボーイは「失敗作」だった。そんな事はわかってた上で購入
した。「今後のゲームはバーチャルボーイだけで発売されることになるぜ!」などとは
毛程も思っていなかった。何しろ赤一色のモニタで、双眼鏡を覗き込むようにゲームをする
というスタイルなのだ。流行るわけがない。

しかし他人に流行るかどうかなど問題ではない。「自分がやりたいかどうか」だけが問題で
あり、pcfxは「立体で見たい人」だ。買うしかあるまい。やるしかあるまい。他に選択肢など
ないのだ。そしてバーチャルボーイのゴルフやシューティングやピンボールを楽しんだ。
買ったことを全く後悔などしていない。お値段以上を遊んだ。満足した。

で、3DSのスペックが発表された時、ガッカリした。モニターがカラーになった事と、ハード
のスペックが上がった事以外は、完全にバーチャルボーイに負けている。迫力も臨場感も
ない、小さなモニターに奥行きをちょびっと感じるだけだ。あんなのを作るぐらいだったら、
まだバーチャルボーイ2として作ったほうがマシだったと思える。現在のハードの性能と
モニタでバーチャルボーイを作れば、売れたかどうかはともかくとして、立体視マシンと
しての完成度は抜きん出ていただろう。売れるのが重要だというのなら、現状の3DSが売れて
いるのかと言われたらお終いだ。つまり結果として、またコンセプトとして、3DSの評価は
「全然駄目」の一言に尽きる。そりゃ売れないわな。



さて、ゲームのコンシューマー機はどうあるべきなのかという事だが、結論を先に言えば、
もうゲーム専用機など必要ないということだ。携帯電話が通話専用機だったのは初期の頃
だけだった。ゲーム機はいつまで専用機を作るつもりなのかは知らないが、そんな単一の
目的にしか使えないものよりも、任天堂スマートフォンを作ったほうがよく、また据え置き
なら任天堂テレビを作ったほうがよいのは当たり前の話だ。もうゲーム機単体という発想から
ダメであり、ゲーム会社のライバルは業界内だけではないという現実に向きあう必要がある。
当然こんなことは言われなくても当事者が一番良く理解していると思うが、結局踏みきれずに
まだゲーム専用機を出しているのだから、立体がどうこうじゃなくてそこが問題なのだといえる。

現在、コンシューマ機の国内メーカーといえば、任天堂とソニーだけという構図になっている。
昔あれだけ乱立していたゲーム機メーカーはもう参戦していない。ライバル会社を駆逐した
結果、二極化の冷戦構造になって立ち往生している。任天堂が今回の失敗で倒産し、また
専用機の需要がなくなった事でソニーが撤退したら、コンシューマ機という概念自体が
終焉する。まるでソ連が崩壊して冷戦構造が終了した事によってあちこちで小競り合いが
勃発したように、スマホ市場やPCゲーム市場で弱小ソフトメーカーがチマチマゲームを
作る事になるだろう。

ここまでは「どうなるか」という話だったが、果たしてそれでいいのか。誰がそれを望んで
いるのか。そんなつまらない未来で楽しいのか。答えは否だろう。誰得未来像を邁進するのは
そろそろやめにしてはどうなのか。
ソフトのプラットホームはスマホとパソコンで十分だ。専用機を作る必要はない。スマホなら
割と簡単に作れるだろうが、1つ重要なものを忘れている。

いいかげん、日本の企業はパソコンOSを作ったらどうなのか。いつまで米国製OSを放置して
いるのか。国産パソコンはどうしたのか。どうして作ろうとしなくなった。マイクロソフトと
IBMに弱みでも握られているのか。ネットの規格さえ共通していれば、ハードやOSなど
好きなように作れる筈だ。ゲーム屋がゲーム専用機を作れないのなら、次のターゲットは
任天堂OSに任天堂パソコンだろう。この際ソニーでもいい。今からでも遅くない。というか、
もうそれを作るしかない。一社で不安というのなら、国内電機メーカーで共通規格とか
作ればいい。いつまで足の引っ張り合いを続けるのか。MSXの時代を忘れたのか。

どっちみちこのままだとコンシューマ機などなくなるのだから、運を天に任せて、最後に
デカイ花火を上げて散ってみてはどうだろう。思い切ってセガを巻き込むという手もある。
こういう思い切った事はセガが得意だ。京都の狭い商習慣など全部切り捨てる時だ。企業など
いつかは消えてなくなるものだ。株主など寄生虫だと思えば良い。


最後にもう一つ。ビデオゲームのブームは「戦いへの飢え」に支えられてきた。日本は戦争
できない国なので、若者はゲームで戦っていたわけだ。その条件は変わっていない。また
日本は「愛への飢え」も顕著だ。若者はゲームで愛を満たしている。現実には手に入らない
「飢えを満たす」のがゲームという仮想行為ならば、「飢え」を徹底的に満たす物を作れば
いいのだ。若者が今何に飢えているのか、見てればわかりそうなものだ。ハードの性能はそれを
満たすために使えばいいだけの話である。


3DSの結論としては、「3DSの本当の性能を引き出したのはラブプラス3Dだけ」という結果が
待っており、それを最後に3DSは役目を終了するだろうという事だ。最初に出せばよかったのに。

韓流とかフジテレビとか

2011年07月30日 | そのた
pcfxは2chのハングル板で「李朴太郎」というコテハンを使ってたまに書き込みをしている。
日本人であるpcfxは子供時代に福岡市で育ったため、クラスに在日韓国人がいるのは珍しい
事ではなく、また海外旅行好きなので以前は韓国にもよく行っていたし、在日韓国人が経営
する企業に所属していたこともある。だから韓国人や在日に対しては、割と近い位置から観察
しており、一定の実体験を伴った理解をしているつもりだ。

コテハンとしての「李朴太郎」の思想的立ち位置は、「愛国左派」だ。若い頃に左翼系に
関わっていた過去もあり、しかし左翼の連中のあまりの理想主義と支離滅裂さに嫌気がさして
決別した。子供の頃に古い価値観の家系で厳しい教育を余儀なくされたために反抗して左に
転び、更に転んで「中庸」路線になったのだが、基本的には左派である。そんな「李朴太郎」
もハン板の在日には「ネット右翼」扱いされる。地域帰属という人間として普遍的なナワバリ
意識程度の「愛国心」も、在日の工作員からは「愛国心丸出しの国粋主義右翼」という
レッテルを貼られるのだ。


さて、日本は昔から「海外の文化のいいもの」を取り入れてきた。逆に言えば「海外のよくない
もの
」は取り入れてこなかった。この場合の「よいわるい」は思想や好みの話ではなく、単純に
性能が「優れているか劣っているか」という判断によってなされてきた。比較対象は、「今まで
自分たちが持っていたもの」だ。そして一旦取り入れてそのままではなく、改良や改造を重ね、
よりよいものに作り変える努力を行って来た。文字も仏教も鉄砲も自動車もハイテク製品も、
全てこの流れに乗って取り入れられ、改良され、そして素晴らしい昇華をされてきたのだ。

日本に取り入れられなかったものの代表といえばキリスト教だ。せっかくルイスフロイスが
信長に接近して、南蛮寺まで建ててもらったのまではよかったが、その後秀吉の時代に嫌われ、
家康の時代に放り出されて禁止された。タイミングも悪かったが、もしキリスト教が宗教や
哲学として、日本古来からある神道や仏教よりも優れていたのなら、おそらく日本の宗教学者
たちは取り入れたと考えられる。しかし実際の結果として、日本でキリスト教は教化できな
かった。一国の大名がキリシタンだった地域さえ全体には布教できず、長崎ですら全員が
キリスト教徒というわけではない。西欧の「科学」は取り入れたが、キリスト教は上手に
フィルタリングされて除外されたわけだ。つまり、キリスト教は「劣ったもの」という判断を
日本にされたと言うことができ、神道や仏教が宗教や哲学として勝利した事になる。


で、最近「韓流」という押し売りが世間を騒がせているようだ。前述したように日本は、
「優れていれば取り入れる」国なので、もし「韓流」が日本に既にあったカルチャーより
優れているのなら、当然取り入れられるだろう。だがそれはない。ありえない。どんなに
金を使ってゴリ押ししても失敗に終わるだろう

韓国にある程度の密度で行ったことがある人にはわかると思うが、韓国では80年代まで
有料の芸能鑑賞が満員御礼だったり大儲けできたりしたことは、ほとんどなかった。また
韓国のレコード会社の主な収益は、他社の音楽をコピーして販売した収益によっていた。
お互いにパクりあい潰しあい、有料コンサートには人が集まらず、女優やアイドルはそのまま
高級売春婦とイコールだった。いわばパトロンを見つけるための芸能活動だったわけだ。
そんなわけで韓国では芸能で食べていけないので、日本で売ることになるのはわかりやすい
流れだ。現在「韓流」とか言っているが、朝鮮人というのを伏せていただけで、既に日本の
芸能は半島の人が非常に多かった。今更な話だ。

韓国では長らく日本の文化を韓国国内で放送するのは禁止されていた。だが法の抜け道を
使って日本で流行っているものをコピーし、あたかも韓国オリジナルであるかのように
国内で売る事が続けられた。一方で韓国の伝統から進化した「韓国オリジナル」の芸能音楽も
あったのだが、それらは庶民の低級なものとして扱われ、日本芸能のコピーをそれと知らずに
崇める風潮がずっと続いていた。日本では2002年ワールドカップまで韓国に関心がなかった為、
それらはほとんど紹介されてこなかった。実際にはおニャン子クラブのパチもの、光ゲンジの
パチものなど、劣化コピーだらけの韓国芸能が韓国のティーンエイジャーの心を掴んでいた
のだった。

日本人の核家族化、個人主義化が進み、茶の間で家族揃ってテレビを見なくなり、またテレビ
番組を見るために家に帰るという風潮がすっかりなくなって、昔のような「国民的アイドル」
が存在できなくなったのがバブル時代頃だった。テレビの用途はテレビ番組をリアルタイムで
見る事から、録画した番組だけを見るように変わり、更にゲーム機を接続してテレビ番組その
ものを見なくなった。また韓国で日本の文化が限定付きで解放され、長らく情報鎖国状態
だった韓国人は、日本の芸能を直に見るようになって、「日本の芸能は韓国のものに似ている」
という意識になった。無論韓国がパクっていただけなのだが、それに気がついていない人は現在
でも多い。逆に日本が真似していると思っている情弱だらけなのが実情だ。

そして、「これなら日本でも韓国の芸能が売れるのではないか」という勘違いが生まれ、当初
売り込みをしていたのだが、所詮劣化コピーがオリジナルの国でウケる筈もなく、以前通り
日本人のフリをした韓国人や在日を使う事が続けられた。但し、唯一の例外があったとすれば、
「韓国オリジナルの芸能」が、ごく一部で一瞬だけ注目を浴びた事があったくらいだ。それは
イ・パクサ」の「ポンチャック歌謡」だった。

日本人観光客相手のバスガイドをしていた「イ・パクサ(李博士)」は、バス内で歌う日本人
から日本の歌謡曲を覚え、それらをメドレー形式で伝い継ぐ「ポンチャック」という韓国歌謡
の伝統と融合させた。音楽が次々に変わっていくのでいちいちミキシングしていられない。
だから盲目のキーボード奏者、キム氏が奏でる安いプリセット伴奏にのって、どこまでも
好き勝手に
歌いあげる奔放さが、20世紀最終末から21世紀の始まりまで、キワモノ好きの好事家
にウケたのだった。電気グルーヴや明和電機とのコラボ、アダルトビデオ監督のバクシーシ
山下が監督したPVなど、その顔ぶれと扱いは、コア中のコアなものだけに人気となった。

この「韓国オリジナル」である「ポンチャック」の路線で、正統的に頑張れば、あるいはいつか
日本でも「本当の韓国」を好調にセールスできたのかもしれない。だが、韓国の選択は結局、
日本からパクッた劣化コピー」を無理やり日本で販売するといった流れになってしまった。
そして「韓流ドラマ」が「センスが古くて逆に懐かしい」という中途半端なウケ方をして
しまったために、韓国の芸能関係者を勘違いさせてしまった。「こりゃイケるぞ!」とばかり、
あれもこれもと国家ぐるみでセールス攻勢をかけ、穴の開いたメディアのテレビ局の株を違法な
レベルまで買いまくって、ご覧の有様になっている。


ところで、ホリエモンがニッポン放送(フジテレビの親会社)を買収しようとした時期は
2005年。冬のソナタが日本で放送されたのは2003年。再放送は2004年だ。そして韓国が日本の
メディアに攻勢をかけたのもその頃だ。この時期の奇妙な一致に関連があるのかないのかは
アレだが、詳しくはフジテレビの株がこの時期以降、誰に買われたのかを調べればわかるだろう。
当時のフジテレビのホリエモンに対する態度は「明らかに過剰反応」しており、その後不可思議
なライブドアの吊し上げと殺人事件(自殺にされているが)が起こった。ライブドアの中にも
フジテレビの中にも、怪しい人が跳梁跋扈していた。面白い偶然の一致もあったものだ。


さて、テレビにもコンビニにも「キモい」ほど韓国芸能が押しかけているのを、ある程度韓国
に理解のある「愛国左派」のpcfxが見た時、その感想は「いやいや、無理だろそれは」という
苦笑いになる。韓国が金を使って本気でやればやるほど気の毒になってくる。客観的に見て、
「日本の従来より優れた芸能」ではないからだ。その売り方もゴリ押しで不快だし、当人たち
もどこかダサい。

日本は逆に突き抜けてAKBのように「ワザと可愛くない娘をまぜた、素人使い捨てアイドル集団」
という末期的な商売をしており、本物の歌手のCDが全然売れない時代に電子音ソフトが歌うCDが
売れる所まで進んでいるのだ。訓練を積んだプロが素人と並び、多様性に対応したミクロな市場
を個々に成立させようとしている時期に、全く見当違いな物を売りに来たマヌケ商人が韓国芸能
だ。高性能低価格のパソコンが並ぶ現在の大手家電屋に、PC98ですらないエプソン互換機を
50万円で売り込みに来るようなものだ。店に高額なテナント料を支払い、情弱団塊オヤジにすら
鼻で笑われる商品を、「今売れてます!大人気です!」と声を枯らしてセールスさせられる
バイト君が気の毒でしか無い。

日本で売りたければ、日本の従来品よりも優れたものを売るしか無い。アップルやソフトバンク
嫌いがiphoneを買ったように、優れたものなら理解して買う日本人は必ずいる。だがしかし
それは、日本がそれより優れた製品を作るまでの短い間だけだ。
韓国芸能は現在、信長期で利用されており、もう少しすると秀吉期になって嫌われ始め、やがて
家康期になると排斥されるだろう。秀吉期に逆に征伐されに行かれないように、引き際も肝心だ。秀吉の大早計は日本人にとっても利益にならない。

化物語 八九寺真宵の魅力

2011年07月30日 | グッズ
友人のTELとは四半世紀に渡る付き合いだが、好みのリアル女性のタイプやマンガ・アニメの
キャラの好みが一致したことはほぼない。ことごとく違う。こんだけ一致しないというのは
確率論から言っても稀有な事象だろう。これらの発端はドラクエでフローラかビアンカかという
話で始まって、以後ずっと続いている。このブログを通して読んでいる方は、pcfxとTEL、
どちらがどっちを取ったか想像してほしい。一見さんはこの件は読み飛ばしてもらえばいい。

答えはこの記事の最後に書く。



化物語が放映されていた当時、TELにドライブ中に聞いてみた。


P「化物語だとやっぱあのキャラだよね」

T「ああ、戦場ヶ原ひたぎ、ね」

P「いや違うだろ、そこは八九寺真宵だろ」

T「ねえよ!戦場ヶ原の一択だろ」

P「お前アホだろ」

T「お前がアホだろ」


やはりこういう結果になった。わかっていた事とはいえ、これまた見事に食い違う。

戦場ヶ原ひたぎの魅力もわからんでもない。だがそれはそれ。真宵の魅力には遠く及ばない。
ていうか、あんなヤンボーグ(ヤンデレ文房具)とは比較にならないというのがpcfxの見解だ。


pcfxが八九寺真宵を好きなのは、ロリ属性という根本原因は当然の事として、まず真宵の口調が
「どこまでも丁寧語・敬語」という、女性に対する理想の幻想が理由に挙げられる。女性が
最も使うべき美容語は何かと問われれば、言うまでもなくそれは丁寧語であり敬語だ。異論が
あるというのなら聞かせてもらいたい。それら美しい丁寧語・敬語を、小学生である真宵は
流れるように操る。ともすればハスッパになりやすい小学生高学年の女子が、またここまで流暢
に話せるということが、真宵の知性の豊かさと行き届いた両親の躾を証明する。つまり真宵は
基本的にお嬢様の資質を持つという事だ。

しかしそれだけなら大して珍しくない。ここからが大事な所だ。そのお嬢様然とした基本性能は
もう一つの真宵の性格である「バカで獰猛」という、矛盾した性格でぶち壊しになっている。
知性はあるが知恵はない。躾はあるがすぐに逸脱する。知恵のなさや逸脱は子供には普遍的に
ある特性であり、もしそこに知性や躾がなければただの野生児か池沼という事になる。知恵とは
現実に即した応用力であり、年齢に応じて経験が不足している児童が必ず持つ欠点だ。


真宵には特殊能力などない。高校生と本気でケンカすればパンツ丸出しで倒れる。その倒れ方
にはいささかの淑やかさもない。大股を開いて地面にひっくり返る。本気で倒れている。
本能レベルで慎みという所作が根付いていない。全くの子供であり、保護すべきという母性を
引き出すだけだ。

真宵の服装もまた子供らしい。サスペンダー付きのスカートも、幼児体型でまだ腰が十分発達
していない事を表している。背中の大きなザックは「かたつむり」という要素だ。そこにある
名札から5年生だという事がわかり、10歳から11歳の女児という事を明確にする。キャラの
オープニングで登場する服装は体操服・スクール水着・晴れ着がある。また真宵の動きは体力が
有り余ってじっとしていられない多動な子供そのものの落ち着きのなさで、ヒザの絆創膏からも
元気一杯な活発さを感じ取れるようにデザインされている。

真宵のオープニング曲は、視聴者のターゲットを30代から40代に焦点を合わせており、ベース
ラインは80年代のテクノ、イントロなどは矩形波のモロな電子音、及びオーケストラヒットを
多用し、ターゲットの年齢層を直撃するように設計されている。実にあざといやり方だが、
その目論見は皆中している。いわばロリコンのオッサンをゴルゴ13が片っ端から狙撃している
ようなものだ。pcfxも眉間から出血した。どうしてくれる。


非常に知性的な話し方をする真宵だが、小遣いやアイスに簡単に釣られる。「代償」という
概念が希薄な子供には隙があり、その隙を悪い大人は利用する。隙が多いキャラには「可能性」
という期待が込められ、その「可能性」という誘惑によって女性の本来の地位が確立する。
アニメでは主人公が話を聞き出す為に隙を利用しており、この場合主人公と視聴者が二重に
利用できるように仕組まれている。実に巧妙である。

真宵の声は声優の「加藤英美里」が担当している。他に可愛らしい声を出せる声優など今時
海砂利水魚だというのに、わざわざクセのある加藤英美里を起用している。ノイズが混ざり、
ハスキーで篭もる、どちらかというと男児の声に向いているタイプの声優を当てたのは、
「女の子」よりも「子供」という性格を強調したかったのではないかと推測できる。

真宵の目は赤い。生物学的には赤い目というのはアルビノを表すが、白ウサギやハツカネズミ
などを表す場合もある。真宵の攻撃は主に噛む・爪であり、また八重歯が発達している。
これらを総合すると「小動物」を象徴しており、それらは子猫に収束する。だが真宵は残念な
ことにカタツムリの怪異であり、純粋に子猫にはならない。そこにこのキャラの「現代的な
アンバランス」が生じている。

真宵は発育が良いらしい。クラスでも発達している方だそうだ。主人公が真宵と取っ組み合い
をしている最中に直接確認したようだ。この設定は、ターゲットのロリコンの中でもミドル層
(9~13歳を好む層)にアピールしている。9歳以下を好む層には胸などは無用のものであり、
13歳以上を好む層には子供が強調されすぎている。これらの周到に用意された罠は非常に完成
されたものであり、あまりに出来すぎているものだから、かえって罠にかからない人もいる
ことだろう。また、ターゲットを絞り込みすぎた為か、キャラの人気ランキングの1位という
わけではない。

因みに「病気とされるペドフィリア」はDSM(アメリカ基準の心理学)では13歳以下を対象年齢
としている。しかし日本の社会認知基準では18歳まで児童であり、欧米よりもレンジが広い
一方で、欧米よりもロリ文化が発達しているという矛盾がある。人種も体格も発育も宗教も
文化的背景も違うものに、世界基準を当てはめるという馬鹿げた行為は非科学的で無理がある。
科学的根拠や論理整合性のないものに振り回されるのを「原始的」という。


八九寺真宵という少女は、実はすでに死んでいる。怪異に取り憑かれたのではなく、怪異
そのものだ。妖怪のようなものであり、猫娘とか一反木綿の仲魔だ。家に帰る途中に交通事故
にあい、家に帰りたいという欲求からカタツムリの怪異になったらしい。この気の毒な設定は
同情心と保護欲を掻き立て、さらにこのキャラクターに引き込まれる原因を作る。主人公らの
協力によって家に帰ることができたが、成仏する事なく「地縛霊」から「幽霊」に昇格して
未だ彷徨っている。成仏しなかった理由は定かではない。ただ、戦場ヶ原が主人公に告白する
現場に居合わせた折、真宵は不機嫌とも白けたとも取れる表情で祝辞を述べた。

八九寺真宵の話は、戦場ヶ原と主人公のストーリーの「ついで」に語られる。その様子は
大人の会話の中で、そこに子供がいるというのに、まるでいないかのように語る様子と
似ている。主人公と戦場ヶ原の心の接近がメインテーマであり、真宵の話はその材料になって
いるだけだ。「子は鎹」というが、「かすがい」扱いされる子供の立場を考えると、それは
まるで道具だ。まさに真宵の扱いは主人公と戦場ヶ原の結びつきの道具であり、その大人の
都合を最重要とするエゴの残虐をもって、pcfxは戦場ヶ原ひたぎを「そこは違うだろ」
言ったのであり、TELはメインテーマ通りに八九寺真宵を「ねえよ!」と言うことになった。
そしてお互いを「アホ」と罵り合うわけだ。


さて、ドラクエのフローラとビアンカの話の答えだが、ここまで説明すればどちらがどちらを
選んだかは明白だと思われるので、答えを書くまでもないだろう。pcfxとTELは今でもこの件で
罵り合うが、その罵倒に終わりも解決もないのだ。人間関係はリキッドで安定するものであり、
ガスでは見失い、ソリッドで物別れになる。日本語の「水に流す」系の言葉はエントロピーの
増減を人間関係に応用した熱力学的情緒表現だ。

サスケvsコマンダ

2011年07月30日 | げーむ
1980年に「漢のゲーム企業」SNKがアーケードに放った、オリジナリティ溢れるゲームが
「サスケvsコマンダ」だ。この「vs」について、pcfxは「バーサス」と読んでいるのだが、
「ブイエス」と読む人も大勢いるようだ。好きに読めばいいと思う。

1980年といえば、31年前だ。41歳の人は当時10歳、31歳の人は産まれた頃、21歳の人は生まれる
10年前となる。41歳の人が5歳の頃、このゲームに使われたCPU、6502が作られた。日本ではZ80が
優勢だったが、6502はファミコンが互換機を採用した事で一躍メジャーCPUとなった。

初期レトロゲームで和風ゲームと言えば有名なのが、「平安京エイリアン」、「侍」と、この
「サスケvsコマンダ」だと言える。時代背景は「平安京エイリアン」が平安時代、「侍」は
江戸時代、「サスケvsコマンダ」は戦国時代だ。将軍から「敵の忍者からワシの命を守れ」
と命令されたサスケは「はい、将軍」と応える。



セリフは英語だ。敵の忍者は日本語で話すので、やはりサスケと将軍は英会話をしていたと
思われる。理由は不明だ。

舞台は京都。大文字焼きと五重の塔、そして三日月をバックに戦いが繰り広げられる。



敵の忍者は「下忍」「中忍」「上忍」と別れており、小さくてかわいいのが下忍だ。pcfxは
この「ゲニン」という響きが気に入っており、実際の立場よりかなり卑下したイメージであり
単なる階級分け以上の悪意を感じる。「このゲニンがッ!!」と呼ばわれると、割と精神的
ダメージが大きい気がする。忍者でなくてよかった。ゲームではザコ敵として登場する。



前半のボスが「中忍」であり、「中」という名前の中途半端さの通り弱い。「中」の中途半端さ
は他にも通じるものがある。「中尉」「中佐」「中将」も中途半端な印象があり、「とっとと
大尉とか大佐とかになれよ!」という苛立ちを感じる。「中学生」も「子供なのか大人なのか
ハッキリせえや」というむず痒さだし、とにかく「中」はイラッとする存在だ。

「上忍」ともなるとその変装も巧みとなり、山伏のように笠を被っている。繰り出す忍法も
やっかいなものになり、最終奥義である「変身春花の術」ともなると、ガマガエルに変身し、
その上分身し、広域誘導弾である春花で攻撃してくる最難関の術だ。この春花は画面最下部に
ゆっくりと落ちてくるが、その間サスケにX軸を合わせてくるのでうまく動かないと追いつめ
られてしまう。だから早いところボスに苦無を当てたいのだが、分身しやがるので当たらない。
ボスのボーナスは早く倒すほど得点が高い。時間切れもある。



サスケが負けると、サスケが石に躓いてコケるシーンとなり、中忍が下忍を大勢引き連れて
きてバカにされる。



pcfxが子供の頃通っていた博多のゲーセン「アサヒ」では、このゲームがアップライト型の
筺体で稼働していたのだが、基板冷却用のファンが逆に取り付けてあった。筺体裏面から
吸気し、側面が他の筺体と密接していた為、そこへ排気できずに、他の唯一の穴である
コンパネから排気するという謎の現象が起こっていた。その結果、レバーの隙間などから風が
吹き付ける事になり、当時は「手汗を乾かす画期的な装置」と思い込んでいた。他所の
ゲーセンでもこのタイプの筺体の約半数くらいがコンパネから風を吹き出していたため、
工場でテキトーに組み立てられていたのだろうと推測している。コンパネにこのゲームの
キャラクターなどがデザインされていた為、SNKオリジナル筺体だったと思われる。

8ビット黎明期に斬新な要素を盛り込んだ印象深いゲームであり、当時他所のゲームのコピー
基板を平気で作るメーカーが多かった時代、それまであまりなかったBGMもシーン毎に
盛り込まれた、画面・音共に記憶に強く残る名作だ。現在の多くの古参ゲーム会社の
成り立ちは、多くがデッドコピーから始まったといっても過言ではない。現在ではPSPで
SNKアーケードクラシックスゼロ」に収録されて遊べるようになっている。40歳以上の
プレイヤーは是非購入して、良き日の思い出に浸ってみてはいかがだろうか。尚、基板も状態
次第ではまだ動く。動かない基板でもコンデンサなどを取り替えると動く可能性があるので、
諦めずにチャレンジしてみてほしい。当時のハードは思いの外頑丈だ。モニタはまだジャンク屋
に適合品が残っているので、今のうちにいくつか買っておくのもいいかも知れない。温泉旅館
などにある古いゲーム筺体を交渉して買うという手もある。諦めるのはまだ早計だ。

kashmir氏のマンガ

2011年07月27日 | マンガとかアニメとかほんとか
一介のニワカファンであるpcfxは、数年前にkashmirの「百合星人ナオコサン1巻」を在日
イギリス人のオッサンに勧められて読んだのをきっかけにして、現在では掲載雑誌を買うまでに
病状が進行している。長らく本気で、全身全霊で読むべきマンガ失っていたpcfxに射した、
一筋の光明だった。他にも割と好きなマンガ家はいるが、魂のレベルで好きと言える作家に
出会ったのは幸運であった。そんなタダのニワカがkashmir作品を語ってみる。

過去のkashmir作品は万人に勧められない。だがこのブログを好んで読んでいるようなタイプの
ヒネた人間にはお勧めできる。現在の作風は「メジャー作家」という拡大路線にあるので一見
とっつき易いように見えるが、毒は潜伏している。また真っ直ぐな精神の人や若い人には、
kashmir作品は「単なるギャグマンガ」や「おもしろストーリーマンガ」として映るだろう。
その根底にある病魔や悪魔を感じ取る事は難しいと思われる。だがそれはそれで正しいし、見当
ハズレというわけでもない。現在はその方向に推移しているからだ。また作者の無意識の荒廃を
表現させつづけるように期待するのは、ファンとしては残酷ともいえる。

深読みしすぎると、それこそ見当ハズレな事になるので避けなければならない。作者が描きたい
ものを描きたいように描ける余裕が出版界にあればそれで幸いとしなければならない。本当に
そうかどうかも、一般読者にはわからない。ともかく余計なお世話なのだ。

それをわかっていながら、あえて余計な事を書いているのだが、この規制の厳しいご時世に、
このタイミングでkashmir氏がメジャーに出てきた事は偶然ではあるまい。作家本人、編集者、
及び読者は、この理不尽な規制だらけの出版界に抗いたいという欲求を持っていて、他の作家が
次々とお仕着せの規制に下っていく中、違う方向で規制に反抗する最終兵器を温存したいのだ。
乳首やパンツや幼女に修正を加えるという魔女裁判対策の中、幼女ギャグという仮面を被った
謎のテロリストがkashmirである。迷彩と商業のために世間を謀っているが、果たしてその
実態は、無意識に苦痛と絶望を人より多く抱えて生きる人だ。まあこれは想像なんだけど。
本当はのほほんと好きなものを描いてるだけかもしれないけど、「ぼくのかんがえたkashmir」
はこうなのだから仕方が無い。

ツイッターをはじめてみて、早速kashmir氏のツイートを読み始めた。無論メジャー作家なので
本当に言いたいことを書くわけにはいかないだろう。ヘタな事を言うとすぐに叩かれる世の中
だから有名人は慎重にならざるを得まい。kashmir氏は律儀な人らしく、単なるニワカファンの
pcfxにも返信をくれる事がある。忙しい身の上だろうに、どこの馬の骨とも知れない者に、
大変ありがたい事である。pcfxは唯、kashmir氏の健康を願うばかりだが、病弱なようで心配に
なる。


kashmir氏のコミックスのそれぞれの読者の感想などをネットで拾い読みしていると、デイドリ
路線が好きな人と、◯本・ナオコサン路線が好きな人にわかれている事がわかる。最近はそれ
ぞれの作風が入り交じってきているので難しいが、pcfxは後者だ。だが、作者の本音が最も
素直に出ているのはデイドリな気がする。宗教観や宇宙観が語られる所に、素のままを感じる。
「彼女はUXO」についてはまだコミックスが出てないからか、あまり語られてない上、pcfxも
ほとんど読んでいないのでここでは語らない。

あまり作家の実態を知りすぎると普遍的によくない結果になるのはわかっているため、この辺
で自重しようと思っているが、その反面ファン心理でもっと知りたいという欲求もある。本当は
直接会ってサインのひとつも貰いたい気持ちだ。だが、単なる一読者にできる事は著作物を
できるだけ買う事と、買うことに価値を見出し続ける事だ。義理や惰性で買うだけでは意味が
無い。何冊も同じ本を買うのもまた意味がない。無理に他人に勧めるのも違う。個々にkashmir
作品と縁起があって、それを気にいった時にはじめて意味が創出される。だからpcfxはこの
ようなブログで紹介をするだけに留めたい。


2011年7月現在、kashmir著作物は、

月刊「まんがタイムきららMAX」で連載中の「◯本の住人」が4巻
月刊「電撃大王」で連載中の「百合星人ナオコサン」が3巻
月刊「アライブ」で連載中の「デイドリームネイション」が3巻
及び隔月刊「チャンピオンREDいちご」で「彼女はUXO」が連載中だ。

アニメは「百合星人ナオコサン3巻」の初版特典としてOVAがついている。
また今後、別の形式でOVA作品が予定されている。


「◯本の住人」は、奇妙な内容の絵本を書く作家の兄とその妹を中心に話が展開するギャグ
4コマ漫画、といいたいところだが、それはそれとして実際の話の中心人物は破天荒な幼女の
「ちーちゃん」だ。ナオコサンよりも壊れている、kashmir最強のキャラクターだ。ボケと
ツッコミが顕著な、現在単純に最も爆笑できるkashmirマンガとも言える。

「百合星人ナオコサン」は、宇宙からやってきた「ナオコサン」がいろいろと騒ぎを起こしたり
余計なことをするギャグマンガで、kashmir作品の代表作となりつつある。ただのドタバタ
というわけでもなく、ゆっくりと、しかし確実に裏のストーリーが展開している。マニアックな
ギャグが随所に散りばめられており、虫眼鏡を使って細かい文字を一つ一つ拾い読みし、
そのネタを理解したくなるマニア泣かせの逸品だ。またヒロイン的役割の「みすず」は廃墟や
廃線、及び鉄道が大好きという作者の趣味が重ねられた側面もあり、静と動が共存している、
最もkashmir臭のある作品だ。

「デイドリームネイション」は、高校の漫研に突如降臨した神様と高校生活のストーリー
マンガだ。ストーリー展開がはっきりしている現在唯一の作品だ。無論ギャグ要素も多く、
ボケとツッコミが強調されている。表面上は最もマイルドな作品なので、ここから入る人も
多いようだ。

また、kashmir氏のサイトでは、過去のイラスト作品を閲覧することができる。pcfxはその中の
イラストで非常に気に入っているものが数点あり、その何れもダークでエロティックだ。
現在の作風とはまるで違うものも多いので驚くかもしれないが、pcfxはむしろこっちのほうが
好みだ。「絵に書いたような美少女」的なものより、より普通で素朴で暗黒性を露出している
少女像は、とある同じ趣味を持つ者同士に伝わる、「本物」を感じ取れる。



作品の傾向としては、pcfxの印象だと「吾妻ひでお」「筒井康隆」「ゆうきまさみ」などを
想起する。それらのエッセンスの隙間に幼女と鉄道と80年代のシューティングゲームをギチギチ
に詰め込んでフリーズドライにし、メープルシロップをかけた感じだ。甘くて冷たくてサッパリ
しているが、そのパフェは猛毒が仕込まれている上に、毒が効いてくる前に爆発する。

そんな危険なkashmir作品を、是非一度御試しあれ。

ドルアーガの塔

2011年07月27日 | げーむ
何が理不尽と言って、「ドルアーガの塔」ほど理不尽なゲームはない。当時の我慢強いゲーマー
ですら音を上げた者ばかりであった。ドルアーガの塔は1984年の夏にゲーセンに出回ったが、
当時は情報源がない時代だったし、毎日ゲーセンに行っていたわけでもない。pcfxが存在を
知ったのは秋も深まった頃だった。



「ドルアーガの塔」を初めてプレイした時のことをよく覚えている。「とにかく鍵を取って
扉から出ればいいんだろう」という、今までのゲームのつもりで進めていたのだが、途中から
敵が見えなくなったり、画面が真っ暗になったり、扉が見えなくなったりと、まるでバグだらけ
な展開になってくる。酷いゲームなのでやめようかと思っていた折、ゲーセンで先にプレイ
していた兄ちゃんは、ノートを見たり書いたりしていた。そのノートを後ろからチラっと見た
のだが、そこには何か攻略法のような事が書いてあった。そして自分の時は見えなくなっていた
敵やマップや扉が、その兄ちゃんのプレイでは表示されていた。

そこでやっと、それらの現象がバグではなかった事に気がついた。そしてこのゲームには、必ず
一面に1つ宝箱が隠されており、それぞれに出し方が決まっているという法則があったのだ。
それから戦いの毎日が始まった。当時中学生だったpcfxの財力は限られており、少ない小遣いの
中で、この不条理なゲームをいかに効率良くプレイするのかという事に、持てる力を全て
使って挑むことになった。

とはいえ金には限度があるので、他人のプレイを参考にする事も多かった。詰まっている面で、
プレイヤーの動きと宝箱の出現の因果関係を見て覚える。だが、自分よりも進んでいる人が
あまりおらず、特定のドルアーガゲーマーが店に来るまで、ひたすら待ち続ける毎日だった。
そうこうしているうちに高校生になり、pcfxが真っ先にしたことは、高校生でも雇っている
バイトを探すことだった。幸いにも学校の近くの喫茶店や印刷屋などが雇ってくれたので、
夕方から夜8時までバイト、そこからゲーセンに行き終電で帰宅。家でファミコン、学校で
睡眠という生活が始まったのだ。

当時のドルアーガノートを見ると面白い。苦戦した事がありありと記されている。必要ない
アイテムがあるという事に気がつかず、また25階の「宝箱なし」というトラップで長期間
悩んだ事、それを飛ばした事が後の階の宝箱出現の障害になっているのではないかという疑念
がいつまでもつきまとった事など、ボロボロになって破れまくりのノートが語る。なぜか
他のプレイヤーとの情報交換という事ができなかった。お互いにライバルであり、同じ時期に
同じくらいの進捗だったので、時には他のゲーセンに行って新しい情報を仕入れては、
少しづつ進んでいくのをお互いに盗み見するといった状況だった。

そんなこんなで、自力でやっと56階まで到達し、どうしても空箱しか出ない事に悩みぬいて
いたある日、いつものゲーセンのドルアーガの筐体に、見慣れない紙が貼ってあった。

「宝箱の出し方リスト」。

pcfxと、ライバルプレイヤーの落胆たるや、おわかり頂けるだろうか。数ヶ月を費やして自力
で挑んできた不条理ゲーム。使った金も相当な額に登っていた。その努力が全て無になった
瞬間だった。店側は親切のつもりだったのだろうが、余計なお世話だった。自分らよりも
先にクリアした人が何らかの方法で周知していたのだろうが、当時はネットも情報誌もない
時代だったので、多くの人が自力でクリアを目指していたのだ。ガッカリした。でも、もう
あきらめて、そのリストを見ながらとりあえずクリアし、ノートに書き写した。ノートの
最後には、「無念」の文字。ライバルのプレイヤーと、その時初めて言葉を交わした。

「あ~、なんか、終わったね」

「うん、せっかくここまで来たのにね」

「俺、もうこのゲームやめるわ。ここにももう来ない」

「自分も他所にいくわ」

短い会話だけを残して、二人は別の店を探した。ライバルは「ゴジラ屋」に、自分は「最前線」
に、それぞれ散っていった。たまに顔を合わせる事があったが、苦笑いを交わすだけだった。

57階以降は比較的簡単な条件であり、そのままでも数日内にクリアできたであろう。だから
実質は自力クリアと言っても過言ではない。pcfxは「ほぼ自力クリア」と公言してきたが、
実際にはこのような顚末だったわけだ。



「ドルアーガの塔」はpcfxにとって、最も入れ込んだゲームであり、またトラウマを残した
ゲームだった。虚しく響くクリア音楽とエンディングテロップが忘れられない。だがこの曲は
ナムコの小沢純子氏のデビュー曲であり永遠の名作だ。8ビット最強のCPU、6809が処理する
ナムコのオリジナル音源が、筺体を響かせて奏でる重厚で美しい曲は少年pcfxの脳に電撃を
食らわせた。またレコードに入っていた弦楽四重奏のエンディング曲が元々の原曲だという
事を、後から何かで読んで知った。ずっとアレンジだと思っていた。

このゲームが作られた経緯も何かで読んだが、確かマッピーの基板を流用してもう一稼ぎする
のが目的だったと聞く。だからこそ採算などあまり考えずに実験的な作品を投入できたらしい。
そのような事情など一般プレイヤーが知るはずもなく、通常のゲームとして始めてしまった
不運なゲーマーの一人がpcfxだったというわけだ。

「ドルアーガの塔」を攻略本を読んでプレイするのは、このゲームの面白さのほとんどを
なくしてしまう。だが、自力でプレイした者から言わせてもらうと、自力でプレイするのは
非常に困難であり、それは不可能と呼んでも構わない種類のものだ。それだけの努力をして
まで得られるものがあったとは言えない。だからこのゲームを攻略本を読んでプレイする事に
反対はしないし、むしろ推奨したいくらいだ。アクションゲームとしても十分に面白いのだ。
アイテムがクリアの絶対条件でなくともよかったとさえ言える。

だから「ドルアーガの塔」はそのゲームバランスにおいて「クソゲー」であると、苦労した
プレイヤーであるpcfxは堂々と言い切れる。但し「クソゲー」という称号はそのゲームの全て
を否定するものではない。「クソゲー」とは、他においしく料理し様のあった食材を、マズく
作ってしまったという意味であり、材料の否定ではなく調理法の否定だ。よりよい明確な
調理法を提示出来る場合にのみ「クソゲー」と言える。ドルアーガの塔の場合、アイテムは
補助的な立場に徹して、テクニックさえあればクリア可能なアクションゲームであったら正解
だった。だからこのゲームは純粋な「クソゲー」だと断言できる。無論、材料からダメな
ゲームとは一線を画している上、意図的にそのように作られたのだから異論もあるだろうが、
あえて愛を込めて「クソゲー」と呼ぶ。また「正解」だったドルアーガの塔などただの平凡な
アクションゲームであり、その評価は「クソゲー」以下だったろう。正解でなかったからこそ
「名作」であり「伝説」になり得たのだ。だからドルアーガは「クソゲー」でよかったのだ。



ドルアーガの塔は、ファミコン版に移植された時に攻略本がバカ売れした。攻略本なしでは
プレイ不可能なのだから当然だ。攻略本ブームを作ったのはこのゲームだとも言える。

欲しい情報が直ちに手に入る現在は、ある意味「チート社会」だ。ゲームのチートモードを
使用した経験があればわかるだろうが、ゲームの面白さは99%失われる。だから現在の情報
社会は、人生の面白さの99%を失っているようなものだ。野生動物は食糧確保に自分の時間
のほとんどを費やして生きるが、食糧確保が約束されたペットや人間はチートで生きている
ようなものであり、人生そのものを持て余す。持て余した結果、あまりにヒマなので何かを
していないと生きていられない。だから文化とはチート社会の暇潰しであり、高等な文化は
より高度なチートの上にある。一切の生活不安がない環境を持つ者はより高度な文化を手に
入れる可能性がある。だが手に入れるものは高度な暇潰しの方法に過ぎないのだ。

いつかほとんどの人類がそれに気がついて、それを自己表出できるようになった時、チートに
制限をつけるようになるだろう。そこで文化は停滞してしまう。虚無主義が蔓延し、自殺率が
急激に増えるだろう。既に日本は現在そうなりかけている。今まで便利に使えたチートを捨てる
気にはならないが、チートのまま生きても面白く無い。そして社会不安がなくなったわけでも
なく、逆に一昔前よりも将来に不安が多くなった。それらのアンバランスが鬱の蔓延であり
ニートの増加であり自殺率の高さだ。ネット依存もチートによる精神的な安定を求めてのこと。
文化的な人間ほどその傾向にはまりやすい。

現代人に必要なのはチートの制限や生活の束縛などではなく、生活の不安を取り除く政治だけ
だと言ってよい。生活さえ保証されてチートの制限をしなければ、人類は勝手に新しいハードル
を自ら開発して、それを暇潰しにして精神の安定を図ることができる。それを阻害しているのは
政治であり、現在の世情不安だ。政治などあんな連中にやらせずにVIPPERに任せたほうがよほど
うまくやれるはずだ。もう政治家など必要なく、逆に旧体制はことごとく阻害要因になっている
という事を、文化的でない人々は理解していない。日本で革命が起こるとしたら、旧態の
イデオロギーの革命ではなく、本当の意味での「文化大革命」だろう。もう資本主義や共産主義
がどうとか、衆愚の民主主義や独裁がどうのとか、そんな些細なことに拘らずに根源的な文化の
効率化と整理が行われる。そしてそれは人的チートを利用して行われるのだ。

で、革命の末に日本人が真っ先にやることは、「新しい暇潰しの開発」であり、そのモデルと
なるのが「ドルアーガの塔などの不条理なクソゲー」であることは間違いない。政治や経済は
チートで「正解」を採択し、文化は「クソゲー」であるべきなのだ。その球根はネットの中に
既に顕著であり、オタク文化という芽を出している。盲目な者はそれが見えていない。最も
文化的な国で始まる革命は、最も文化的な者が起こすのだ。後の歴史には「オタク革命」と
記述されるだろう。その際の旗印は「クオックスのシルエット」だ。

チェルノブ 戦う人間発電所

2011年07月25日 | げーむ
CPUに68000と6502、音源チップは2203と3526及びPCMという、データイーストらしいバランス
の良い組み合わせで動くゲームが「チェルノブ」だ。1988年に登場した。

ゲームについては適当にググってwikiでも読んでもらうとして、ここでは基本知識があるもの
とした上で話を進める。



このゲームはとかく「チェルノブイリ原発事故」と一緒に語られる。このゲームが出ようと
出まいと、原発が危険なものであることに変わりはない。不謹慎厨はいつの時代にもいるが、
「良識」を軽薄に弄ぶ者は愚かであり、問題にすべきはパロディではなく技術開発と政治だ。
原発反対派や良識派がバカなのは、この基本をいつも見失っている点で証明される。



で、ゲーム自体は操作にクセのあるアクションゲームであり、プレイヤーキャラである
「チェルノブ」は走り続ける。レバーを入れなくても勝手に走るので後退ができないのだ。
この「後退できない」という要素が原発そのものであり、エネルギー需要に奔走する
インフラの象徴が見事なエスプリとなっている。このゲームがゲーセンに出回った当時、
マップ画面下部に表示される「Lets GO GO GO」という言葉がゲーマーの間で流行った。
GOが1つだと単に「進め」であり、2つだと「速く進め」で、3つだと「止まるな」という
ニュアンスになる。今はどんなに困難でも、核エネルギー開発なくして人類が人類たりえる
未来などない。現世は後退している場ではないのだ。



このゲームの得点要素に「円高ドル安」というものがある。コインが二種類あり、円コインの
ほうが得点が高い。チェルノブが仮にロシア人だったして、道に1万円札と100ドル札が合計総数
10枚落ちている場合、外資が欲しいロシアとしてはどちらが欲しいのだろうか。
因みにこのゲームを開発していた1987年の為替相場は大体140円台だった。



ゲーム自体の難度はさほど高くない。操作にさえ慣れればそのうちにクリアできる程度だ。
武器はそれぞれクセがあり、またジャンプもパワーアップしていくのでゲームの展開は
流動的だ。完璧にパターンを作らなくても臨機応変なプレイができる。

最終ステージでは、アメリカの象徴である「自由の女神」の頭部が破壊される。タイトル画面に
表示されるのがソ連の国旗である事を考えると面白い。またエンディングの最後に出る「エンド」と
巨大なカタカナが表示されるのも印象的だ。このゲームの国内版には、日本語・英語・ローマ字
と、このカタカナ表記が混在していて面白い。他社ではちょっと見られない、データイースト
ならではのデザインだ。





現在では基板・X68000・メガドライブでプレイできる。メガドライブ版はストーリーなどが
変更されてマイルドになっている。基板で遊ぶのがお勧めだ。

小谷城 江・浅井三姉妹博覧会

2011年07月24日 | ドライブとかりょこうとか
例によって友人TELの無計画ドライブで、本日たどり着いたのは滋賀県の「小谷城」である。
小谷城といえば「電波押し売り放送企業」が放送中の大河ドラマで注目されている所だ。

pcfxはドラマを見ていないが、いいかげん資料もロクに残っていない政略道具の「戦国の女」を
テーマにするのはやめたらどうかと思っている。あと、もう時代劇を演じる事ができる役者など
揃わないのだから、時代劇を作るのはやめたらどうかと思っている。今時の時代劇に出てくる
役者やタレントなど見ていられない。育てる気がないならやめちまえ。チャラい時代劇など
過去の作品の冒涜に過ぎない。


そういうスタンスのpcfxとTELが「江・浅井三姉妹博覧会」に行ったのだから、その視線は批判的
なものとなる。また、信長を裏切って朝倉側についた浅井家の無駄死にについても、二人とも
苦々しく思っているのでこれまた視線は冷ややかだ。時勢や大義がわからない者たちによる
愚かな選択などをいくら美化しても欺瞞でしかない。



さて、それはそれとして、小谷城の麓にある「小谷・江のふるさと館」に入場した。単館の
入場料は300円
だ。そして中はというと・・・まあ300円ならこんなものかという感じ
なので、ご自分の目で見てもらいたい。「小谷城という言葉を初めて知りました」という人
むけだ。




この「小谷・江のふるさと館」の周囲には仮設の飲食店・ステージ・土産物屋などがあり、
土産物屋には商魂たくましいグッズが並んでいる。ラインナップは「ニワカ歴史ファン向け」
となっており、携帯のデコシールやらTシャツやらタオルやら紙の陣笠やら。その図案もまた
ひどく初心者や外国人向けになっており、当時の有名武将の家紋が敵味方入り乱れたデザイン
見ると、嘆きを通り越して笑えてくる。客をバカだと思っているのか、バカをターゲットに
しているのかどっちかだろう。後者なら文句は言うまい。





そんなひどい商品の中で、pcfx的に気にいったのは「浅井三姉妹煎餅」だ。煎餅の味などを
土産物屋に期待していないが、パッケージのイラストがまた「いかにも」で清々しい。そして
イラストと中身が「ほぼ関係ない」のも素直でよい。「煎餅の包み紙だけ媚びましたテヘッ」
という萌えすら感じる。煎餅と饅頭をこうして売るのは日本の伝統芸能ともいえる。



他の、人を小馬鹿にした商品群はさておき、pcfxはこの「浅井三姉妹煎餅」を購入した。
イラストの作者名は確認できなかった。基本は少女漫画風であり、同時に今時の萌え絵の要素
を含んでいる。他の図案もこの施設の各所で見られる。





意外な事に、この「浅井三姉妹煎餅」の中身の煎餅はおいしかった。ネタで買ったのだが
なんか得した気分である。三種類の豆煎餅が入っており、どれもそれぞれの風味が生かされて
いる。価格も630円と普通だが、味のよさを考えると安くも感じる。もしここへ行くことが
あったら、土産にお勧めなのが「浅井三姉妹煎餅」だ。人によってはこのイラストを恥ずかしく
思うかも知れないが、なに、人生など恥の上塗りでしかないのだ。pcfx的には次女の初姫が
お気に入りだ。













さて、ここから小谷城跡に行くのだが、ルートは大きく2つある。1つは定時運行している
バスに500円払って乗るルート。もう一つは徒歩で登るルートだ。ここで注意してほしい
のは、この徒歩ルートは割とハードなので覚悟が必要だという事だ。注意書きもあるので
必ず読んで理解してから登ったほうがいい
。観光地のハイキングコースくらいに考えると、
結構後悔することになると思われる。だからちょっと高いがバスに乗るのをお勧めする。
このバスに乗っても一番上までは行かないので、小谷城を全踏破するのは結局徒歩での登山
が必要になる。バスルート周辺でやめておくのが利口というものだ。







再三言うが、徒歩での登山は注意してほしい。足場も悪く、急坂で距離も相当ある。普段から
鍛えて無い人がするものではない。帰りの下りも足を滑らせやすい。相応のシューズを用意
したほうがよい。あと、たまにクマも出るらしいので、覚悟も必要だ。ちなみにpcfxは途中で
ぽんぽんがいたくなった」のでリタイア下山した。友人のTELは元気者なのでピョンピョン
飛び跳ねながら
登っていったが、それでも相当きつい道だったと言っていた。普段強がりしか
言わないツンデレ男のTELが「きつい」というのは相当なものだ。因みに、登山口に書いてある
「距離の表示」は、あくまで途中までのものだということをキモに銘じてもらいたい。実際は
倍以上歩くことになる。信長が攻め落とすまで難攻不落といわれた名城跡はそれなりの立地
だったというわけだ。



また、博覧会の会場はここだけではない。周遊のバスが出ているので、全部見たい人はこれを
利用するのが吉だといえる。





8月6日には「小谷城下祭り」が行われるので、この日に行くとお得かもしれない。



そんなこんなで本日も12時間かけた外出だったが、帰りにTELがどうしても寄りたいと聞か
ないので「ホビーショップTAMTAM」入る事になった。そして、以前ゲーセンで4000円
かけても取れなかったプライズ景品の「イカ娘フィギュア」が、1380円で売っていたので
衝動買いすることに。まったく罪な商品ラインナップである。







プリルラ

2011年07月22日 | げーむ
バブルもはじけ終わった1991年に、非常にファンシーなゲームがゲーセンに登場した。それが
プリルラ」だ。タイトーがヤケになったのか、それとも何かを悟ったのかは知らないが、この
ゲームはある意味で多くのゲーマーに忘れられないトラウマを残した。



このゲームは1P側が男の子の「ザック」、2P側が女の子の「メル」なので、一人でプレイする
場合は2Pの「メル」を選ぶのがゲーマーの定石であった。[要出典]

現在から見ても絵柄がとてもカワイイので、秀逸なデザインだと言えるだろう。また「メル」で
プレイする場合に、攻撃を受けた声が非常に可愛らしく、コインを徒に消費してでもその声を
聞きたがる変態も多く存在した。
[要出典]「メル」の攻撃を受けた際の表情や、全ての残機を
失って昇天する姿もまた可愛らしく、やはりコインを無駄に消費してそれを楽しむ変態も後を
たたなかった。
[要出典]







ゲーム全体については他の攻略サイトやWikiなどを参照してほしいが、他の多くの紹介者が
強調するように、このゲームのキモはラウンド3にある

「誇大妄想家」の妄想によって魔法的に変質した世界がラウンド3なのだが、これは誇大妄想と
いうよりも統合失調の幻覚だ。「おいおいタイトー大丈夫か?」とバブル後の経営や開発者の
精神衛生を気遣いたくなるゲーマーが続出し、一方で「タイトーが吹っ切れた!」と喜ぶ者も
また多かった。











これらの画面取り込みを使ったコラージュを、当時は「デジタイズ」と呼んでいた。タイトー
は以前にも画面取り込みの背景を使ったゲームを作っていたが、ここまであからさまに使用
したのは初めてだったと言える。それは2011年現在、20年の時を超えて伝説になっている事を
考えれば、このラウンド3をゲームに取り入れた制作者のセンスは正しかったわけだ。

このラウンド3には問題の部分があり、女性の巨大で半裸な足がニョッキリ生えて妨害して
くるシーンがある。



股間の部分に扉があり、プレイヤーキャラクターを扉の前に持って行ってアクションボタンを
押すと扉が開き、その向こうには肉体の一部分ではなく宇宙が広がっている。この哲学性に
感銘を受けたゲーマーも多く、「プリルラ」の根幹部分だとの説も流布されている。[要出典]


1991年はアーケードに於いて8ビットゲームが姿を消した頃であり、基板上には68000が一つ
ないし二つ並んでいた。「プリルラ」も68000を1つと、「Z80」を1つサブで搭載しており、音源
は「YM2610」を積んでいた。OPN系の4オペ4ch、SSGとPCM7chのバランスのいい音源チップだ。
そしてノイズを含めて全てステレオ出力という頼もしい性能を持つ。16ビット時代の象徴と
いうべきセットであり、ネオジオ基板に構成が似ているものだった。これらによって8ビット
時代と完全に差別化されたグラフィックとサウンドを表現できたが、同時に「コンピューター
臭さ」という味わいを失っていった。2011年の今日、シュタゲの8ビット版をわざわざ作る
のは、「コンピューター臭さ」という価値観の再認識なのだろう。

「トビマストビマス」というザコ敵のセリフギャグを理解できるゲーマーも少なくなった時勢
だが、坂上二郎氏も亡くなった今、昔を見つめ直すのも一興だろう。PS2のタイトーメモリーズ
に移植があるので、まだ遊べる。


SRD(スーパーリアルダーウィン)

2011年07月21日 | げーむ
比類なき奇ゲー会社である「データイースト」が、生物的進化をテーマにしたゲームの第二弾が
SRD」だ。前作の「ダーウィン4078」の続編であり、1987年にアーケードゲームとして登場
した。ゲーム内容は前作を踏襲しているが、進化や突然変異の方法が強化され、より複雑に
なっている。詳しいルールなどはググってもらいたい。



シューティングゲームとしては独特の難度があり、敵弾の速さや当たり判定の増大などで苦労
することになる。当たり判定の大きさによって敵弾に当たりやすく、相当訓練しないと進化と
退化をめまぐるしく繰り返し落ち着かない。じっくり各進化状態の攻撃を堪能できないのだ。
「イボル」も不必要なくらい出たり全然出なかったりで、前作のほうがバランスがよかったと
いえるだろう。

そのような難度を腕前で超えても、10面あたりで突如ゲームが終わってしまう。これには秘密が
ある
のだが、それも攻略サイトなどを参照してほしい。とにかく唐突な印象のゲームであり、
もう少しゲームバランスを整えて欲しかったのが残念なところだ。実はこのバランスを惜しんだ
人がおり、後年になってプログラムを改造してゲーム性を向上させた海賊版が存在したが、
その詳細は不明なまま忘れ去られた。これは海外版の単なるコピー基板とは別の物だ。


さて、pcfxがこのゲームに目をつけた所は、「地上を這い回る謎の生物」にあった。トカゲや
昆虫のようなものが地上から攻撃してくるのだが、これらを倒すと「DNA」なるアイテムを
落とす。この「DNA」を取ると、取った数によって、敵弾を喰らってPISTERまで退化せずに
途中で退化が止まる。つまり保険みたいなものだ。後半戦でかなり重要になる。

基本的にこのゲームにはメカのようなデザインの敵ばかり登場するが、この地上の謎生物だけは
見るからに「生き物」であり、それが「DNA」を落とすという所に、このゲームのサスペンスな
BGMとあいまってある種の「生々しい気味の悪さ」を感じる。進化がテーマのゲームなのに、
空中の的はメカメカしく、出すのは「イボル」というエネルギー体だけだ。このエネルギー体で
「進化」する所に、いきなりの「DNA」だ。DNAは進化こそしないが進化をある程度記憶する
というアイテムとして登場し、それを出すのが生物っぽい敵というところに、何か自機の持つ
気持ちの悪い、得体のしれない正体を感じてしまう。また、その生物っぽい敵を倒した後、
死体は消滅するが黒い影だけ残す。このシルエットも非常に不気味な印象を受ける。この演出
がpcfx的に非常にツボにはまり、このゲームが印象深くなったのだった。



このゲームは何かとゲームバランスの悪さを指摘されるが、背景の描写やBGM・効果音など、
斬新で奥深い良いところもたくさんある。pcfxはシリコン基板が背景になっている面が
気に入っており、またコンデンサや設計がいいのか、基板上の周波数が整っているので電源
さえ安定していれば非常に綺麗な解像度でグラフィックを楽しめるのだ。CPUを2つ使って
おり、音源もFM音源のデュアルになっている。CPUには8ビット最強といわれる「6809」を採用
しており、プログラムと共に8ビット時代の最後を飾るに相応しい出来だ。サブとして「6502」
も使っている。音源は音のクォリティとしてYM2203を、音数のためにYM3812を使っている。
これらのハード構成は見事な組み合わせであり、SRDの基板は8ビット&FM音源時代の象徴とも
いうべき芸術品だ。このあたりにデータイーストのもう一つの側面を見ることができる。

現在では基板でしか遊べないSRDだが、プレイする機会があれば是非、このゲームの謎を解いて
楽しんでほしい。ちょっと腕は必要だが、昨今の弾幕シューティングに飽きた貴兄には
ちょうどよい刺激になるだろう。