minority resistance

pcfx復活ブログ

コンシューマ機はどうあるべきなのか

2011年07月31日 | げーむ
3DSが突然1万円も値下げした。よほど任天堂も苦しい立場にあるのだろうが、「3Dモノは当面
メインフレームにならない法則」というのがある気がする。人間の目は正面に2つあり、位置の
差分から自然に立体視が可能となっている。つまり最初から立体視できる目を持っているわけだ。

現在のモニタで3D表示する場合、錯視させて無理矢理立体に見せる。見るという行為に余計な
行程をひとつ追加しているのだ。立体視に無理があるのは、この余分な行程が違和感を感じる
からであり、人間工学に基づいていないのが原因と考えられる。

元々立体視できる目を持っているのに、なぜ無理をして更に立体視しなければならないのかという
事で、それがウザったいわけだ。余程立体で見たくてたまらない映像でもない限り、その根気は
続かないだろう。例を上げればアダルトビデオくらいか。

「飛び出す絵本」というのがあるが、世の中の全ての絵本が飛び出すのは少々ウザい。また全ての
本がいちいち飛び出していたら物凄くウザい。「飛び出す週刊誌」「飛び出す文庫本」「飛び出す
辞書」など、飛び出さなくてもいいどころか、飛び出すなと叫びたくなるだろう。人間はごく
たまにしか飛び出すのを望んでいないのだ。

それでも立体モニタの時代は必ず来るだろう。しかしそれは平面のモニタが目に負担をかけて
立体視するタイプのものではなく、立体のモニタに立体像が浮かび上がるスタイルに限定される
と考えられる。立方体の透明な箱の中の映像を360度から眺められるような物だ。これなら
人間の目は通常の物を眺めるように立体映像を見る事ができる。
だがそのようなモニタの開発には、もう少々時間が必要だろう。


さて、pcfxは「バーチャルボーイ」を発売日に買ったクチだ。実は立体視が好きで好きで
たまらない種類の人間であり、じゃあ今までの前置きは何だったのかと問われれば、そんなのは
一般論だと開き直る。だが、立体視が好きだからこそ、その欠点も細かく指摘できるつもり
になっている。バーチャルボーイは「失敗作」だった。そんな事はわかってた上で購入
した。「今後のゲームはバーチャルボーイだけで発売されることになるぜ!」などとは
毛程も思っていなかった。何しろ赤一色のモニタで、双眼鏡を覗き込むようにゲームをする
というスタイルなのだ。流行るわけがない。

しかし他人に流行るかどうかなど問題ではない。「自分がやりたいかどうか」だけが問題で
あり、pcfxは「立体で見たい人」だ。買うしかあるまい。やるしかあるまい。他に選択肢など
ないのだ。そしてバーチャルボーイのゴルフやシューティングやピンボールを楽しんだ。
買ったことを全く後悔などしていない。お値段以上を遊んだ。満足した。

で、3DSのスペックが発表された時、ガッカリした。モニターがカラーになった事と、ハード
のスペックが上がった事以外は、完全にバーチャルボーイに負けている。迫力も臨場感も
ない、小さなモニターに奥行きをちょびっと感じるだけだ。あんなのを作るぐらいだったら、
まだバーチャルボーイ2として作ったほうがマシだったと思える。現在のハードの性能と
モニタでバーチャルボーイを作れば、売れたかどうかはともかくとして、立体視マシンと
しての完成度は抜きん出ていただろう。売れるのが重要だというのなら、現状の3DSが売れて
いるのかと言われたらお終いだ。つまり結果として、またコンセプトとして、3DSの評価は
「全然駄目」の一言に尽きる。そりゃ売れないわな。



さて、ゲームのコンシューマー機はどうあるべきなのかという事だが、結論を先に言えば、
もうゲーム専用機など必要ないということだ。携帯電話が通話専用機だったのは初期の頃
だけだった。ゲーム機はいつまで専用機を作るつもりなのかは知らないが、そんな単一の
目的にしか使えないものよりも、任天堂スマートフォンを作ったほうがよく、また据え置き
なら任天堂テレビを作ったほうがよいのは当たり前の話だ。もうゲーム機単体という発想から
ダメであり、ゲーム会社のライバルは業界内だけではないという現実に向きあう必要がある。
当然こんなことは言われなくても当事者が一番良く理解していると思うが、結局踏みきれずに
まだゲーム専用機を出しているのだから、立体がどうこうじゃなくてそこが問題なのだといえる。

現在、コンシューマ機の国内メーカーといえば、任天堂とソニーだけという構図になっている。
昔あれだけ乱立していたゲーム機メーカーはもう参戦していない。ライバル会社を駆逐した
結果、二極化の冷戦構造になって立ち往生している。任天堂が今回の失敗で倒産し、また
専用機の需要がなくなった事でソニーが撤退したら、コンシューマ機という概念自体が
終焉する。まるでソ連が崩壊して冷戦構造が終了した事によってあちこちで小競り合いが
勃発したように、スマホ市場やPCゲーム市場で弱小ソフトメーカーがチマチマゲームを
作る事になるだろう。

ここまでは「どうなるか」という話だったが、果たしてそれでいいのか。誰がそれを望んで
いるのか。そんなつまらない未来で楽しいのか。答えは否だろう。誰得未来像を邁進するのは
そろそろやめにしてはどうなのか。
ソフトのプラットホームはスマホとパソコンで十分だ。専用機を作る必要はない。スマホなら
割と簡単に作れるだろうが、1つ重要なものを忘れている。

いいかげん、日本の企業はパソコンOSを作ったらどうなのか。いつまで米国製OSを放置して
いるのか。国産パソコンはどうしたのか。どうして作ろうとしなくなった。マイクロソフトと
IBMに弱みでも握られているのか。ネットの規格さえ共通していれば、ハードやOSなど
好きなように作れる筈だ。ゲーム屋がゲーム専用機を作れないのなら、次のターゲットは
任天堂OSに任天堂パソコンだろう。この際ソニーでもいい。今からでも遅くない。というか、
もうそれを作るしかない。一社で不安というのなら、国内電機メーカーで共通規格とか
作ればいい。いつまで足の引っ張り合いを続けるのか。MSXの時代を忘れたのか。

どっちみちこのままだとコンシューマ機などなくなるのだから、運を天に任せて、最後に
デカイ花火を上げて散ってみてはどうだろう。思い切ってセガを巻き込むという手もある。
こういう思い切った事はセガが得意だ。京都の狭い商習慣など全部切り捨てる時だ。企業など
いつかは消えてなくなるものだ。株主など寄生虫だと思えば良い。


最後にもう一つ。ビデオゲームのブームは「戦いへの飢え」に支えられてきた。日本は戦争
できない国なので、若者はゲームで戦っていたわけだ。その条件は変わっていない。また
日本は「愛への飢え」も顕著だ。若者はゲームで愛を満たしている。現実には手に入らない
「飢えを満たす」のがゲームという仮想行為ならば、「飢え」を徹底的に満たす物を作れば
いいのだ。若者が今何に飢えているのか、見てればわかりそうなものだ。ハードの性能はそれを
満たすために使えばいいだけの話である。


3DSの結論としては、「3DSの本当の性能を引き出したのはラブプラス3Dだけ」という結果が
待っており、それを最後に3DSは役目を終了するだろうという事だ。最初に出せばよかったのに。

韓流とかフジテレビとか

2011年07月30日 | そのた
pcfxは2chのハングル板で「李朴太郎」というコテハンを使ってたまに書き込みをしている。
日本人であるpcfxは子供時代に福岡市で育ったため、クラスに在日韓国人がいるのは珍しい
事ではなく、また海外旅行好きなので以前は韓国にもよく行っていたし、在日韓国人が経営
する企業に所属していたこともある。だから韓国人や在日に対しては、割と近い位置から観察
しており、一定の実体験を伴った理解をしているつもりだ。

コテハンとしての「李朴太郎」の思想的立ち位置は、「愛国左派」だ。若い頃に左翼系に
関わっていた過去もあり、しかし左翼の連中のあまりの理想主義と支離滅裂さに嫌気がさして
決別した。子供の頃に古い価値観の家系で厳しい教育を余儀なくされたために反抗して左に
転び、更に転んで「中庸」路線になったのだが、基本的には左派である。そんな「李朴太郎」
もハン板の在日には「ネット右翼」扱いされる。地域帰属という人間として普遍的なナワバリ
意識程度の「愛国心」も、在日の工作員からは「愛国心丸出しの国粋主義右翼」という
レッテルを貼られるのだ。


さて、日本は昔から「海外の文化のいいもの」を取り入れてきた。逆に言えば「海外のよくない
もの
」は取り入れてこなかった。この場合の「よいわるい」は思想や好みの話ではなく、単純に
性能が「優れているか劣っているか」という判断によってなされてきた。比較対象は、「今まで
自分たちが持っていたもの」だ。そして一旦取り入れてそのままではなく、改良や改造を重ね、
よりよいものに作り変える努力を行って来た。文字も仏教も鉄砲も自動車もハイテク製品も、
全てこの流れに乗って取り入れられ、改良され、そして素晴らしい昇華をされてきたのだ。

日本に取り入れられなかったものの代表といえばキリスト教だ。せっかくルイスフロイスが
信長に接近して、南蛮寺まで建ててもらったのまではよかったが、その後秀吉の時代に嫌われ、
家康の時代に放り出されて禁止された。タイミングも悪かったが、もしキリスト教が宗教や
哲学として、日本古来からある神道や仏教よりも優れていたのなら、おそらく日本の宗教学者
たちは取り入れたと考えられる。しかし実際の結果として、日本でキリスト教は教化できな
かった。一国の大名がキリシタンだった地域さえ全体には布教できず、長崎ですら全員が
キリスト教徒というわけではない。西欧の「科学」は取り入れたが、キリスト教は上手に
フィルタリングされて除外されたわけだ。つまり、キリスト教は「劣ったもの」という判断を
日本にされたと言うことができ、神道や仏教が宗教や哲学として勝利した事になる。


で、最近「韓流」という押し売りが世間を騒がせているようだ。前述したように日本は、
「優れていれば取り入れる」国なので、もし「韓流」が日本に既にあったカルチャーより
優れているのなら、当然取り入れられるだろう。だがそれはない。ありえない。どんなに
金を使ってゴリ押ししても失敗に終わるだろう

韓国にある程度の密度で行ったことがある人にはわかると思うが、韓国では80年代まで
有料の芸能鑑賞が満員御礼だったり大儲けできたりしたことは、ほとんどなかった。また
韓国のレコード会社の主な収益は、他社の音楽をコピーして販売した収益によっていた。
お互いにパクりあい潰しあい、有料コンサートには人が集まらず、女優やアイドルはそのまま
高級売春婦とイコールだった。いわばパトロンを見つけるための芸能活動だったわけだ。
そんなわけで韓国では芸能で食べていけないので、日本で売ることになるのはわかりやすい
流れだ。現在「韓流」とか言っているが、朝鮮人というのを伏せていただけで、既に日本の
芸能は半島の人が非常に多かった。今更な話だ。

韓国では長らく日本の文化を韓国国内で放送するのは禁止されていた。だが法の抜け道を
使って日本で流行っているものをコピーし、あたかも韓国オリジナルであるかのように
国内で売る事が続けられた。一方で韓国の伝統から進化した「韓国オリジナル」の芸能音楽も
あったのだが、それらは庶民の低級なものとして扱われ、日本芸能のコピーをそれと知らずに
崇める風潮がずっと続いていた。日本では2002年ワールドカップまで韓国に関心がなかった為、
それらはほとんど紹介されてこなかった。実際にはおニャン子クラブのパチもの、光ゲンジの
パチものなど、劣化コピーだらけの韓国芸能が韓国のティーンエイジャーの心を掴んでいた
のだった。

日本人の核家族化、個人主義化が進み、茶の間で家族揃ってテレビを見なくなり、またテレビ
番組を見るために家に帰るという風潮がすっかりなくなって、昔のような「国民的アイドル」
が存在できなくなったのがバブル時代頃だった。テレビの用途はテレビ番組をリアルタイムで
見る事から、録画した番組だけを見るように変わり、更にゲーム機を接続してテレビ番組その
ものを見なくなった。また韓国で日本の文化が限定付きで解放され、長らく情報鎖国状態
だった韓国人は、日本の芸能を直に見るようになって、「日本の芸能は韓国のものに似ている」
という意識になった。無論韓国がパクっていただけなのだが、それに気がついていない人は現在
でも多い。逆に日本が真似していると思っている情弱だらけなのが実情だ。

そして、「これなら日本でも韓国の芸能が売れるのではないか」という勘違いが生まれ、当初
売り込みをしていたのだが、所詮劣化コピーがオリジナルの国でウケる筈もなく、以前通り
日本人のフリをした韓国人や在日を使う事が続けられた。但し、唯一の例外があったとすれば、
「韓国オリジナルの芸能」が、ごく一部で一瞬だけ注目を浴びた事があったくらいだ。それは
イ・パクサ」の「ポンチャック歌謡」だった。

日本人観光客相手のバスガイドをしていた「イ・パクサ(李博士)」は、バス内で歌う日本人
から日本の歌謡曲を覚え、それらをメドレー形式で伝い継ぐ「ポンチャック」という韓国歌謡
の伝統と融合させた。音楽が次々に変わっていくのでいちいちミキシングしていられない。
だから盲目のキーボード奏者、キム氏が奏でる安いプリセット伴奏にのって、どこまでも
好き勝手に
歌いあげる奔放さが、20世紀最終末から21世紀の始まりまで、キワモノ好きの好事家
にウケたのだった。電気グルーヴや明和電機とのコラボ、アダルトビデオ監督のバクシーシ
山下が監督したPVなど、その顔ぶれと扱いは、コア中のコアなものだけに人気となった。

この「韓国オリジナル」である「ポンチャック」の路線で、正統的に頑張れば、あるいはいつか
日本でも「本当の韓国」を好調にセールスできたのかもしれない。だが、韓国の選択は結局、
日本からパクッた劣化コピー」を無理やり日本で販売するといった流れになってしまった。
そして「韓流ドラマ」が「センスが古くて逆に懐かしい」という中途半端なウケ方をして
しまったために、韓国の芸能関係者を勘違いさせてしまった。「こりゃイケるぞ!」とばかり、
あれもこれもと国家ぐるみでセールス攻勢をかけ、穴の開いたメディアのテレビ局の株を違法な
レベルまで買いまくって、ご覧の有様になっている。


ところで、ホリエモンがニッポン放送(フジテレビの親会社)を買収しようとした時期は
2005年。冬のソナタが日本で放送されたのは2003年。再放送は2004年だ。そして韓国が日本の
メディアに攻勢をかけたのもその頃だ。この時期の奇妙な一致に関連があるのかないのかは
アレだが、詳しくはフジテレビの株がこの時期以降、誰に買われたのかを調べればわかるだろう。
当時のフジテレビのホリエモンに対する態度は「明らかに過剰反応」しており、その後不可思議
なライブドアの吊し上げと殺人事件(自殺にされているが)が起こった。ライブドアの中にも
フジテレビの中にも、怪しい人が跳梁跋扈していた。面白い偶然の一致もあったものだ。


さて、テレビにもコンビニにも「キモい」ほど韓国芸能が押しかけているのを、ある程度韓国
に理解のある「愛国左派」のpcfxが見た時、その感想は「いやいや、無理だろそれは」という
苦笑いになる。韓国が金を使って本気でやればやるほど気の毒になってくる。客観的に見て、
「日本の従来より優れた芸能」ではないからだ。その売り方もゴリ押しで不快だし、当人たち
もどこかダサい。

日本は逆に突き抜けてAKBのように「ワザと可愛くない娘をまぜた、素人使い捨てアイドル集団」
という末期的な商売をしており、本物の歌手のCDが全然売れない時代に電子音ソフトが歌うCDが
売れる所まで進んでいるのだ。訓練を積んだプロが素人と並び、多様性に対応したミクロな市場
を個々に成立させようとしている時期に、全く見当違いな物を売りに来たマヌケ商人が韓国芸能
だ。高性能低価格のパソコンが並ぶ現在の大手家電屋に、PC98ですらないエプソン互換機を
50万円で売り込みに来るようなものだ。店に高額なテナント料を支払い、情弱団塊オヤジにすら
鼻で笑われる商品を、「今売れてます!大人気です!」と声を枯らしてセールスさせられる
バイト君が気の毒でしか無い。

日本で売りたければ、日本の従来品よりも優れたものを売るしか無い。アップルやソフトバンク
嫌いがiphoneを買ったように、優れたものなら理解して買う日本人は必ずいる。だがしかし
それは、日本がそれより優れた製品を作るまでの短い間だけだ。
韓国芸能は現在、信長期で利用されており、もう少しすると秀吉期になって嫌われ始め、やがて
家康期になると排斥されるだろう。秀吉期に逆に征伐されに行かれないように、引き際も肝心だ。秀吉の大早計は日本人にとっても利益にならない。

化物語 八九寺真宵の魅力

2011年07月30日 | グッズ
友人のTELとは四半世紀に渡る付き合いだが、好みのリアル女性のタイプやマンガ・アニメの
キャラの好みが一致したことはほぼない。ことごとく違う。こんだけ一致しないというのは
確率論から言っても稀有な事象だろう。これらの発端はドラクエでフローラかビアンカかという
話で始まって、以後ずっと続いている。このブログを通して読んでいる方は、pcfxとTEL、
どちらがどっちを取ったか想像してほしい。一見さんはこの件は読み飛ばしてもらえばいい。

答えはこの記事の最後に書く。



化物語が放映されていた当時、TELにドライブ中に聞いてみた。


P「化物語だとやっぱあのキャラだよね」

T「ああ、戦場ヶ原ひたぎ、ね」

P「いや違うだろ、そこは八九寺真宵だろ」

T「ねえよ!戦場ヶ原の一択だろ」

P「お前アホだろ」

T「お前がアホだろ」


やはりこういう結果になった。わかっていた事とはいえ、これまた見事に食い違う。

戦場ヶ原ひたぎの魅力もわからんでもない。だがそれはそれ。真宵の魅力には遠く及ばない。
ていうか、あんなヤンボーグ(ヤンデレ文房具)とは比較にならないというのがpcfxの見解だ。


pcfxが八九寺真宵を好きなのは、ロリ属性という根本原因は当然の事として、まず真宵の口調が
「どこまでも丁寧語・敬語」という、女性に対する理想の幻想が理由に挙げられる。女性が
最も使うべき美容語は何かと問われれば、言うまでもなくそれは丁寧語であり敬語だ。異論が
あるというのなら聞かせてもらいたい。それら美しい丁寧語・敬語を、小学生である真宵は
流れるように操る。ともすればハスッパになりやすい小学生高学年の女子が、またここまで流暢
に話せるということが、真宵の知性の豊かさと行き届いた両親の躾を証明する。つまり真宵は
基本的にお嬢様の資質を持つという事だ。

しかしそれだけなら大して珍しくない。ここからが大事な所だ。そのお嬢様然とした基本性能は
もう一つの真宵の性格である「バカで獰猛」という、矛盾した性格でぶち壊しになっている。
知性はあるが知恵はない。躾はあるがすぐに逸脱する。知恵のなさや逸脱は子供には普遍的に
ある特性であり、もしそこに知性や躾がなければただの野生児か池沼という事になる。知恵とは
現実に即した応用力であり、年齢に応じて経験が不足している児童が必ず持つ欠点だ。


真宵には特殊能力などない。高校生と本気でケンカすればパンツ丸出しで倒れる。その倒れ方
にはいささかの淑やかさもない。大股を開いて地面にひっくり返る。本気で倒れている。
本能レベルで慎みという所作が根付いていない。全くの子供であり、保護すべきという母性を
引き出すだけだ。

真宵の服装もまた子供らしい。サスペンダー付きのスカートも、幼児体型でまだ腰が十分発達
していない事を表している。背中の大きなザックは「かたつむり」という要素だ。そこにある
名札から5年生だという事がわかり、10歳から11歳の女児という事を明確にする。キャラの
オープニングで登場する服装は体操服・スクール水着・晴れ着がある。また真宵の動きは体力が
有り余ってじっとしていられない多動な子供そのものの落ち着きのなさで、ヒザの絆創膏からも
元気一杯な活発さを感じ取れるようにデザインされている。

真宵のオープニング曲は、視聴者のターゲットを30代から40代に焦点を合わせており、ベース
ラインは80年代のテクノ、イントロなどは矩形波のモロな電子音、及びオーケストラヒットを
多用し、ターゲットの年齢層を直撃するように設計されている。実にあざといやり方だが、
その目論見は皆中している。いわばロリコンのオッサンをゴルゴ13が片っ端から狙撃している
ようなものだ。pcfxも眉間から出血した。どうしてくれる。


非常に知性的な話し方をする真宵だが、小遣いやアイスに簡単に釣られる。「代償」という
概念が希薄な子供には隙があり、その隙を悪い大人は利用する。隙が多いキャラには「可能性」
という期待が込められ、その「可能性」という誘惑によって女性の本来の地位が確立する。
アニメでは主人公が話を聞き出す為に隙を利用しており、この場合主人公と視聴者が二重に
利用できるように仕組まれている。実に巧妙である。

真宵の声は声優の「加藤英美里」が担当している。他に可愛らしい声を出せる声優など今時
海砂利水魚だというのに、わざわざクセのある加藤英美里を起用している。ノイズが混ざり、
ハスキーで篭もる、どちらかというと男児の声に向いているタイプの声優を当てたのは、
「女の子」よりも「子供」という性格を強調したかったのではないかと推測できる。

真宵の目は赤い。生物学的には赤い目というのはアルビノを表すが、白ウサギやハツカネズミ
などを表す場合もある。真宵の攻撃は主に噛む・爪であり、また八重歯が発達している。
これらを総合すると「小動物」を象徴しており、それらは子猫に収束する。だが真宵は残念な
ことにカタツムリの怪異であり、純粋に子猫にはならない。そこにこのキャラの「現代的な
アンバランス」が生じている。

真宵は発育が良いらしい。クラスでも発達している方だそうだ。主人公が真宵と取っ組み合い
をしている最中に直接確認したようだ。この設定は、ターゲットのロリコンの中でもミドル層
(9~13歳を好む層)にアピールしている。9歳以下を好む層には胸などは無用のものであり、
13歳以上を好む層には子供が強調されすぎている。これらの周到に用意された罠は非常に完成
されたものであり、あまりに出来すぎているものだから、かえって罠にかからない人もいる
ことだろう。また、ターゲットを絞り込みすぎた為か、キャラの人気ランキングの1位という
わけではない。

因みに「病気とされるペドフィリア」はDSM(アメリカ基準の心理学)では13歳以下を対象年齢
としている。しかし日本の社会認知基準では18歳まで児童であり、欧米よりもレンジが広い
一方で、欧米よりもロリ文化が発達しているという矛盾がある。人種も体格も発育も宗教も
文化的背景も違うものに、世界基準を当てはめるという馬鹿げた行為は非科学的で無理がある。
科学的根拠や論理整合性のないものに振り回されるのを「原始的」という。


八九寺真宵という少女は、実はすでに死んでいる。怪異に取り憑かれたのではなく、怪異
そのものだ。妖怪のようなものであり、猫娘とか一反木綿の仲魔だ。家に帰る途中に交通事故
にあい、家に帰りたいという欲求からカタツムリの怪異になったらしい。この気の毒な設定は
同情心と保護欲を掻き立て、さらにこのキャラクターに引き込まれる原因を作る。主人公らの
協力によって家に帰ることができたが、成仏する事なく「地縛霊」から「幽霊」に昇格して
未だ彷徨っている。成仏しなかった理由は定かではない。ただ、戦場ヶ原が主人公に告白する
現場に居合わせた折、真宵は不機嫌とも白けたとも取れる表情で祝辞を述べた。

八九寺真宵の話は、戦場ヶ原と主人公のストーリーの「ついで」に語られる。その様子は
大人の会話の中で、そこに子供がいるというのに、まるでいないかのように語る様子と
似ている。主人公と戦場ヶ原の心の接近がメインテーマであり、真宵の話はその材料になって
いるだけだ。「子は鎹」というが、「かすがい」扱いされる子供の立場を考えると、それは
まるで道具だ。まさに真宵の扱いは主人公と戦場ヶ原の結びつきの道具であり、その大人の
都合を最重要とするエゴの残虐をもって、pcfxは戦場ヶ原ひたぎを「そこは違うだろ」
言ったのであり、TELはメインテーマ通りに八九寺真宵を「ねえよ!」と言うことになった。
そしてお互いを「アホ」と罵り合うわけだ。


さて、ドラクエのフローラとビアンカの話の答えだが、ここまで説明すればどちらがどちらを
選んだかは明白だと思われるので、答えを書くまでもないだろう。pcfxとTELは今でもこの件で
罵り合うが、その罵倒に終わりも解決もないのだ。人間関係はリキッドで安定するものであり、
ガスでは見失い、ソリッドで物別れになる。日本語の「水に流す」系の言葉はエントロピーの
増減を人間関係に応用した熱力学的情緒表現だ。

サスケvsコマンダ

2011年07月30日 | げーむ
1980年に「漢のゲーム企業」SNKがアーケードに放った、オリジナリティ溢れるゲームが
「サスケvsコマンダ」だ。この「vs」について、pcfxは「バーサス」と読んでいるのだが、
「ブイエス」と読む人も大勢いるようだ。好きに読めばいいと思う。

1980年といえば、31年前だ。41歳の人は当時10歳、31歳の人は産まれた頃、21歳の人は生まれる
10年前となる。41歳の人が5歳の頃、このゲームに使われたCPU、6502が作られた。日本ではZ80が
優勢だったが、6502はファミコンが互換機を採用した事で一躍メジャーCPUとなった。

初期レトロゲームで和風ゲームと言えば有名なのが、「平安京エイリアン」、「侍」と、この
「サスケvsコマンダ」だと言える。時代背景は「平安京エイリアン」が平安時代、「侍」は
江戸時代、「サスケvsコマンダ」は戦国時代だ。将軍から「敵の忍者からワシの命を守れ」
と命令されたサスケは「はい、将軍」と応える。



セリフは英語だ。敵の忍者は日本語で話すので、やはりサスケと将軍は英会話をしていたと
思われる。理由は不明だ。

舞台は京都。大文字焼きと五重の塔、そして三日月をバックに戦いが繰り広げられる。



敵の忍者は「下忍」「中忍」「上忍」と別れており、小さくてかわいいのが下忍だ。pcfxは
この「ゲニン」という響きが気に入っており、実際の立場よりかなり卑下したイメージであり
単なる階級分け以上の悪意を感じる。「このゲニンがッ!!」と呼ばわれると、割と精神的
ダメージが大きい気がする。忍者でなくてよかった。ゲームではザコ敵として登場する。



前半のボスが「中忍」であり、「中」という名前の中途半端さの通り弱い。「中」の中途半端さ
は他にも通じるものがある。「中尉」「中佐」「中将」も中途半端な印象があり、「とっとと
大尉とか大佐とかになれよ!」という苛立ちを感じる。「中学生」も「子供なのか大人なのか
ハッキリせえや」というむず痒さだし、とにかく「中」はイラッとする存在だ。

「上忍」ともなるとその変装も巧みとなり、山伏のように笠を被っている。繰り出す忍法も
やっかいなものになり、最終奥義である「変身春花の術」ともなると、ガマガエルに変身し、
その上分身し、広域誘導弾である春花で攻撃してくる最難関の術だ。この春花は画面最下部に
ゆっくりと落ちてくるが、その間サスケにX軸を合わせてくるのでうまく動かないと追いつめ
られてしまう。だから早いところボスに苦無を当てたいのだが、分身しやがるので当たらない。
ボスのボーナスは早く倒すほど得点が高い。時間切れもある。



サスケが負けると、サスケが石に躓いてコケるシーンとなり、中忍が下忍を大勢引き連れて
きてバカにされる。



pcfxが子供の頃通っていた博多のゲーセン「アサヒ」では、このゲームがアップライト型の
筺体で稼働していたのだが、基板冷却用のファンが逆に取り付けてあった。筺体裏面から
吸気し、側面が他の筺体と密接していた為、そこへ排気できずに、他の唯一の穴である
コンパネから排気するという謎の現象が起こっていた。その結果、レバーの隙間などから風が
吹き付ける事になり、当時は「手汗を乾かす画期的な装置」と思い込んでいた。他所の
ゲーセンでもこのタイプの筺体の約半数くらいがコンパネから風を吹き出していたため、
工場でテキトーに組み立てられていたのだろうと推測している。コンパネにこのゲームの
キャラクターなどがデザインされていた為、SNKオリジナル筺体だったと思われる。

8ビット黎明期に斬新な要素を盛り込んだ印象深いゲームであり、当時他所のゲームのコピー
基板を平気で作るメーカーが多かった時代、それまであまりなかったBGMもシーン毎に
盛り込まれた、画面・音共に記憶に強く残る名作だ。現在の多くの古参ゲーム会社の
成り立ちは、多くがデッドコピーから始まったといっても過言ではない。現在ではPSPで
SNKアーケードクラシックスゼロ」に収録されて遊べるようになっている。40歳以上の
プレイヤーは是非購入して、良き日の思い出に浸ってみてはいかがだろうか。尚、基板も状態
次第ではまだ動く。動かない基板でもコンデンサなどを取り替えると動く可能性があるので、
諦めずにチャレンジしてみてほしい。当時のハードは思いの外頑丈だ。モニタはまだジャンク屋
に適合品が残っているので、今のうちにいくつか買っておくのもいいかも知れない。温泉旅館
などにある古いゲーム筺体を交渉して買うという手もある。諦めるのはまだ早計だ。

kashmir氏のマンガ

2011年07月27日 | マンガとかアニメとかほんとか
一介のニワカファンであるpcfxは、数年前にkashmirの「百合星人ナオコサン1巻」を在日
イギリス人のオッサンに勧められて読んだのをきっかけにして、現在では掲載雑誌を買うまでに
病状が進行している。長らく本気で、全身全霊で読むべきマンガ失っていたpcfxに射した、
一筋の光明だった。他にも割と好きなマンガ家はいるが、魂のレベルで好きと言える作家に
出会ったのは幸運であった。そんなタダのニワカがkashmir作品を語ってみる。

過去のkashmir作品は万人に勧められない。だがこのブログを好んで読んでいるようなタイプの
ヒネた人間にはお勧めできる。現在の作風は「メジャー作家」という拡大路線にあるので一見
とっつき易いように見えるが、毒は潜伏している。また真っ直ぐな精神の人や若い人には、
kashmir作品は「単なるギャグマンガ」や「おもしろストーリーマンガ」として映るだろう。
その根底にある病魔や悪魔を感じ取る事は難しいと思われる。だがそれはそれで正しいし、見当
ハズレというわけでもない。現在はその方向に推移しているからだ。また作者の無意識の荒廃を
表現させつづけるように期待するのは、ファンとしては残酷ともいえる。

深読みしすぎると、それこそ見当ハズレな事になるので避けなければならない。作者が描きたい
ものを描きたいように描ける余裕が出版界にあればそれで幸いとしなければならない。本当に
そうかどうかも、一般読者にはわからない。ともかく余計なお世話なのだ。

それをわかっていながら、あえて余計な事を書いているのだが、この規制の厳しいご時世に、
このタイミングでkashmir氏がメジャーに出てきた事は偶然ではあるまい。作家本人、編集者、
及び読者は、この理不尽な規制だらけの出版界に抗いたいという欲求を持っていて、他の作家が
次々とお仕着せの規制に下っていく中、違う方向で規制に反抗する最終兵器を温存したいのだ。
乳首やパンツや幼女に修正を加えるという魔女裁判対策の中、幼女ギャグという仮面を被った
謎のテロリストがkashmirである。迷彩と商業のために世間を謀っているが、果たしてその
実態は、無意識に苦痛と絶望を人より多く抱えて生きる人だ。まあこれは想像なんだけど。
本当はのほほんと好きなものを描いてるだけかもしれないけど、「ぼくのかんがえたkashmir」
はこうなのだから仕方が無い。

ツイッターをはじめてみて、早速kashmir氏のツイートを読み始めた。無論メジャー作家なので
本当に言いたいことを書くわけにはいかないだろう。ヘタな事を言うとすぐに叩かれる世の中
だから有名人は慎重にならざるを得まい。kashmir氏は律儀な人らしく、単なるニワカファンの
pcfxにも返信をくれる事がある。忙しい身の上だろうに、どこの馬の骨とも知れない者に、
大変ありがたい事である。pcfxは唯、kashmir氏の健康を願うばかりだが、病弱なようで心配に
なる。


kashmir氏のコミックスのそれぞれの読者の感想などをネットで拾い読みしていると、デイドリ
路線が好きな人と、◯本・ナオコサン路線が好きな人にわかれている事がわかる。最近はそれ
ぞれの作風が入り交じってきているので難しいが、pcfxは後者だ。だが、作者の本音が最も
素直に出ているのはデイドリな気がする。宗教観や宇宙観が語られる所に、素のままを感じる。
「彼女はUXO」についてはまだコミックスが出てないからか、あまり語られてない上、pcfxも
ほとんど読んでいないのでここでは語らない。

あまり作家の実態を知りすぎると普遍的によくない結果になるのはわかっているため、この辺
で自重しようと思っているが、その反面ファン心理でもっと知りたいという欲求もある。本当は
直接会ってサインのひとつも貰いたい気持ちだ。だが、単なる一読者にできる事は著作物を
できるだけ買う事と、買うことに価値を見出し続ける事だ。義理や惰性で買うだけでは意味が
無い。何冊も同じ本を買うのもまた意味がない。無理に他人に勧めるのも違う。個々にkashmir
作品と縁起があって、それを気にいった時にはじめて意味が創出される。だからpcfxはこの
ようなブログで紹介をするだけに留めたい。


2011年7月現在、kashmir著作物は、

月刊「まんがタイムきららMAX」で連載中の「◯本の住人」が4巻
月刊「電撃大王」で連載中の「百合星人ナオコサン」が3巻
月刊「アライブ」で連載中の「デイドリームネイション」が3巻
及び隔月刊「チャンピオンREDいちご」で「彼女はUXO」が連載中だ。

アニメは「百合星人ナオコサン3巻」の初版特典としてOVAがついている。
また今後、別の形式でOVA作品が予定されている。


「◯本の住人」は、奇妙な内容の絵本を書く作家の兄とその妹を中心に話が展開するギャグ
4コマ漫画、といいたいところだが、それはそれとして実際の話の中心人物は破天荒な幼女の
「ちーちゃん」だ。ナオコサンよりも壊れている、kashmir最強のキャラクターだ。ボケと
ツッコミが顕著な、現在単純に最も爆笑できるkashmirマンガとも言える。

「百合星人ナオコサン」は、宇宙からやってきた「ナオコサン」がいろいろと騒ぎを起こしたり
余計なことをするギャグマンガで、kashmir作品の代表作となりつつある。ただのドタバタ
というわけでもなく、ゆっくりと、しかし確実に裏のストーリーが展開している。マニアックな
ギャグが随所に散りばめられており、虫眼鏡を使って細かい文字を一つ一つ拾い読みし、
そのネタを理解したくなるマニア泣かせの逸品だ。またヒロイン的役割の「みすず」は廃墟や
廃線、及び鉄道が大好きという作者の趣味が重ねられた側面もあり、静と動が共存している、
最もkashmir臭のある作品だ。

「デイドリームネイション」は、高校の漫研に突如降臨した神様と高校生活のストーリー
マンガだ。ストーリー展開がはっきりしている現在唯一の作品だ。無論ギャグ要素も多く、
ボケとツッコミが強調されている。表面上は最もマイルドな作品なので、ここから入る人も
多いようだ。

また、kashmir氏のサイトでは、過去のイラスト作品を閲覧することができる。pcfxはその中の
イラストで非常に気に入っているものが数点あり、その何れもダークでエロティックだ。
現在の作風とはまるで違うものも多いので驚くかもしれないが、pcfxはむしろこっちのほうが
好みだ。「絵に書いたような美少女」的なものより、より普通で素朴で暗黒性を露出している
少女像は、とある同じ趣味を持つ者同士に伝わる、「本物」を感じ取れる。



作品の傾向としては、pcfxの印象だと「吾妻ひでお」「筒井康隆」「ゆうきまさみ」などを
想起する。それらのエッセンスの隙間に幼女と鉄道と80年代のシューティングゲームをギチギチ
に詰め込んでフリーズドライにし、メープルシロップをかけた感じだ。甘くて冷たくてサッパリ
しているが、そのパフェは猛毒が仕込まれている上に、毒が効いてくる前に爆発する。

そんな危険なkashmir作品を、是非一度御試しあれ。

ドルアーガの塔

2011年07月27日 | げーむ
何が理不尽と言って、「ドルアーガの塔」ほど理不尽なゲームはない。当時の我慢強いゲーマー
ですら音を上げた者ばかりであった。ドルアーガの塔は1984年の夏にゲーセンに出回ったが、
当時は情報源がない時代だったし、毎日ゲーセンに行っていたわけでもない。pcfxが存在を
知ったのは秋も深まった頃だった。



「ドルアーガの塔」を初めてプレイした時のことをよく覚えている。「とにかく鍵を取って
扉から出ればいいんだろう」という、今までのゲームのつもりで進めていたのだが、途中から
敵が見えなくなったり、画面が真っ暗になったり、扉が見えなくなったりと、まるでバグだらけ
な展開になってくる。酷いゲームなのでやめようかと思っていた折、ゲーセンで先にプレイ
していた兄ちゃんは、ノートを見たり書いたりしていた。そのノートを後ろからチラっと見た
のだが、そこには何か攻略法のような事が書いてあった。そして自分の時は見えなくなっていた
敵やマップや扉が、その兄ちゃんのプレイでは表示されていた。

そこでやっと、それらの現象がバグではなかった事に気がついた。そしてこのゲームには、必ず
一面に1つ宝箱が隠されており、それぞれに出し方が決まっているという法則があったのだ。
それから戦いの毎日が始まった。当時中学生だったpcfxの財力は限られており、少ない小遣いの
中で、この不条理なゲームをいかに効率良くプレイするのかという事に、持てる力を全て
使って挑むことになった。

とはいえ金には限度があるので、他人のプレイを参考にする事も多かった。詰まっている面で、
プレイヤーの動きと宝箱の出現の因果関係を見て覚える。だが、自分よりも進んでいる人が
あまりおらず、特定のドルアーガゲーマーが店に来るまで、ひたすら待ち続ける毎日だった。
そうこうしているうちに高校生になり、pcfxが真っ先にしたことは、高校生でも雇っている
バイトを探すことだった。幸いにも学校の近くの喫茶店や印刷屋などが雇ってくれたので、
夕方から夜8時までバイト、そこからゲーセンに行き終電で帰宅。家でファミコン、学校で
睡眠という生活が始まったのだ。

当時のドルアーガノートを見ると面白い。苦戦した事がありありと記されている。必要ない
アイテムがあるという事に気がつかず、また25階の「宝箱なし」というトラップで長期間
悩んだ事、それを飛ばした事が後の階の宝箱出現の障害になっているのではないかという疑念
がいつまでもつきまとった事など、ボロボロになって破れまくりのノートが語る。なぜか
他のプレイヤーとの情報交換という事ができなかった。お互いにライバルであり、同じ時期に
同じくらいの進捗だったので、時には他のゲーセンに行って新しい情報を仕入れては、
少しづつ進んでいくのをお互いに盗み見するといった状況だった。

そんなこんなで、自力でやっと56階まで到達し、どうしても空箱しか出ない事に悩みぬいて
いたある日、いつものゲーセンのドルアーガの筐体に、見慣れない紙が貼ってあった。

「宝箱の出し方リスト」。

pcfxと、ライバルプレイヤーの落胆たるや、おわかり頂けるだろうか。数ヶ月を費やして自力
で挑んできた不条理ゲーム。使った金も相当な額に登っていた。その努力が全て無になった
瞬間だった。店側は親切のつもりだったのだろうが、余計なお世話だった。自分らよりも
先にクリアした人が何らかの方法で周知していたのだろうが、当時はネットも情報誌もない
時代だったので、多くの人が自力でクリアを目指していたのだ。ガッカリした。でも、もう
あきらめて、そのリストを見ながらとりあえずクリアし、ノートに書き写した。ノートの
最後には、「無念」の文字。ライバルのプレイヤーと、その時初めて言葉を交わした。

「あ~、なんか、終わったね」

「うん、せっかくここまで来たのにね」

「俺、もうこのゲームやめるわ。ここにももう来ない」

「自分も他所にいくわ」

短い会話だけを残して、二人は別の店を探した。ライバルは「ゴジラ屋」に、自分は「最前線」
に、それぞれ散っていった。たまに顔を合わせる事があったが、苦笑いを交わすだけだった。

57階以降は比較的簡単な条件であり、そのままでも数日内にクリアできたであろう。だから
実質は自力クリアと言っても過言ではない。pcfxは「ほぼ自力クリア」と公言してきたが、
実際にはこのような顚末だったわけだ。



「ドルアーガの塔」はpcfxにとって、最も入れ込んだゲームであり、またトラウマを残した
ゲームだった。虚しく響くクリア音楽とエンディングテロップが忘れられない。だがこの曲は
ナムコの小沢純子氏のデビュー曲であり永遠の名作だ。8ビット最強のCPU、6809が処理する
ナムコのオリジナル音源が、筺体を響かせて奏でる重厚で美しい曲は少年pcfxの脳に電撃を
食らわせた。またレコードに入っていた弦楽四重奏のエンディング曲が元々の原曲だという
事を、後から何かで読んで知った。ずっとアレンジだと思っていた。

このゲームが作られた経緯も何かで読んだが、確かマッピーの基板を流用してもう一稼ぎする
のが目的だったと聞く。だからこそ採算などあまり考えずに実験的な作品を投入できたらしい。
そのような事情など一般プレイヤーが知るはずもなく、通常のゲームとして始めてしまった
不運なゲーマーの一人がpcfxだったというわけだ。

「ドルアーガの塔」を攻略本を読んでプレイするのは、このゲームの面白さのほとんどを
なくしてしまう。だが、自力でプレイした者から言わせてもらうと、自力でプレイするのは
非常に困難であり、それは不可能と呼んでも構わない種類のものだ。それだけの努力をして
まで得られるものがあったとは言えない。だからこのゲームを攻略本を読んでプレイする事に
反対はしないし、むしろ推奨したいくらいだ。アクションゲームとしても十分に面白いのだ。
アイテムがクリアの絶対条件でなくともよかったとさえ言える。

だから「ドルアーガの塔」はそのゲームバランスにおいて「クソゲー」であると、苦労した
プレイヤーであるpcfxは堂々と言い切れる。但し「クソゲー」という称号はそのゲームの全て
を否定するものではない。「クソゲー」とは、他においしく料理し様のあった食材を、マズく
作ってしまったという意味であり、材料の否定ではなく調理法の否定だ。よりよい明確な
調理法を提示出来る場合にのみ「クソゲー」と言える。ドルアーガの塔の場合、アイテムは
補助的な立場に徹して、テクニックさえあればクリア可能なアクションゲームであったら正解
だった。だからこのゲームは純粋な「クソゲー」だと断言できる。無論、材料からダメな
ゲームとは一線を画している上、意図的にそのように作られたのだから異論もあるだろうが、
あえて愛を込めて「クソゲー」と呼ぶ。また「正解」だったドルアーガの塔などただの平凡な
アクションゲームであり、その評価は「クソゲー」以下だったろう。正解でなかったからこそ
「名作」であり「伝説」になり得たのだ。だからドルアーガは「クソゲー」でよかったのだ。



ドルアーガの塔は、ファミコン版に移植された時に攻略本がバカ売れした。攻略本なしでは
プレイ不可能なのだから当然だ。攻略本ブームを作ったのはこのゲームだとも言える。

欲しい情報が直ちに手に入る現在は、ある意味「チート社会」だ。ゲームのチートモードを
使用した経験があればわかるだろうが、ゲームの面白さは99%失われる。だから現在の情報
社会は、人生の面白さの99%を失っているようなものだ。野生動物は食糧確保に自分の時間
のほとんどを費やして生きるが、食糧確保が約束されたペットや人間はチートで生きている
ようなものであり、人生そのものを持て余す。持て余した結果、あまりにヒマなので何かを
していないと生きていられない。だから文化とはチート社会の暇潰しであり、高等な文化は
より高度なチートの上にある。一切の生活不安がない環境を持つ者はより高度な文化を手に
入れる可能性がある。だが手に入れるものは高度な暇潰しの方法に過ぎないのだ。

いつかほとんどの人類がそれに気がついて、それを自己表出できるようになった時、チートに
制限をつけるようになるだろう。そこで文化は停滞してしまう。虚無主義が蔓延し、自殺率が
急激に増えるだろう。既に日本は現在そうなりかけている。今まで便利に使えたチートを捨てる
気にはならないが、チートのまま生きても面白く無い。そして社会不安がなくなったわけでも
なく、逆に一昔前よりも将来に不安が多くなった。それらのアンバランスが鬱の蔓延であり
ニートの増加であり自殺率の高さだ。ネット依存もチートによる精神的な安定を求めてのこと。
文化的な人間ほどその傾向にはまりやすい。

現代人に必要なのはチートの制限や生活の束縛などではなく、生活の不安を取り除く政治だけ
だと言ってよい。生活さえ保証されてチートの制限をしなければ、人類は勝手に新しいハードル
を自ら開発して、それを暇潰しにして精神の安定を図ることができる。それを阻害しているのは
政治であり、現在の世情不安だ。政治などあんな連中にやらせずにVIPPERに任せたほうがよほど
うまくやれるはずだ。もう政治家など必要なく、逆に旧体制はことごとく阻害要因になっている
という事を、文化的でない人々は理解していない。日本で革命が起こるとしたら、旧態の
イデオロギーの革命ではなく、本当の意味での「文化大革命」だろう。もう資本主義や共産主義
がどうとか、衆愚の民主主義や独裁がどうのとか、そんな些細なことに拘らずに根源的な文化の
効率化と整理が行われる。そしてそれは人的チートを利用して行われるのだ。

で、革命の末に日本人が真っ先にやることは、「新しい暇潰しの開発」であり、そのモデルと
なるのが「ドルアーガの塔などの不条理なクソゲー」であることは間違いない。政治や経済は
チートで「正解」を採択し、文化は「クソゲー」であるべきなのだ。その球根はネットの中に
既に顕著であり、オタク文化という芽を出している。盲目な者はそれが見えていない。最も
文化的な国で始まる革命は、最も文化的な者が起こすのだ。後の歴史には「オタク革命」と
記述されるだろう。その際の旗印は「クオックスのシルエット」だ。

チェルノブ 戦う人間発電所

2011年07月25日 | げーむ
CPUに68000と6502、音源チップは2203と3526及びPCMという、データイーストらしいバランス
の良い組み合わせで動くゲームが「チェルノブ」だ。1988年に登場した。

ゲームについては適当にググってwikiでも読んでもらうとして、ここでは基本知識があるもの
とした上で話を進める。



このゲームはとかく「チェルノブイリ原発事故」と一緒に語られる。このゲームが出ようと
出まいと、原発が危険なものであることに変わりはない。不謹慎厨はいつの時代にもいるが、
「良識」を軽薄に弄ぶ者は愚かであり、問題にすべきはパロディではなく技術開発と政治だ。
原発反対派や良識派がバカなのは、この基本をいつも見失っている点で証明される。



で、ゲーム自体は操作にクセのあるアクションゲームであり、プレイヤーキャラである
「チェルノブ」は走り続ける。レバーを入れなくても勝手に走るので後退ができないのだ。
この「後退できない」という要素が原発そのものであり、エネルギー需要に奔走する
インフラの象徴が見事なエスプリとなっている。このゲームがゲーセンに出回った当時、
マップ画面下部に表示される「Lets GO GO GO」という言葉がゲーマーの間で流行った。
GOが1つだと単に「進め」であり、2つだと「速く進め」で、3つだと「止まるな」という
ニュアンスになる。今はどんなに困難でも、核エネルギー開発なくして人類が人類たりえる
未来などない。現世は後退している場ではないのだ。



このゲームの得点要素に「円高ドル安」というものがある。コインが二種類あり、円コインの
ほうが得点が高い。チェルノブが仮にロシア人だったして、道に1万円札と100ドル札が合計総数
10枚落ちている場合、外資が欲しいロシアとしてはどちらが欲しいのだろうか。
因みにこのゲームを開発していた1987年の為替相場は大体140円台だった。



ゲーム自体の難度はさほど高くない。操作にさえ慣れればそのうちにクリアできる程度だ。
武器はそれぞれクセがあり、またジャンプもパワーアップしていくのでゲームの展開は
流動的だ。完璧にパターンを作らなくても臨機応変なプレイができる。

最終ステージでは、アメリカの象徴である「自由の女神」の頭部が破壊される。タイトル画面に
表示されるのがソ連の国旗である事を考えると面白い。またエンディングの最後に出る「エンド」と
巨大なカタカナが表示されるのも印象的だ。このゲームの国内版には、日本語・英語・ローマ字
と、このカタカナ表記が混在していて面白い。他社ではちょっと見られない、データイースト
ならではのデザインだ。





現在では基板・X68000・メガドライブでプレイできる。メガドライブ版はストーリーなどが
変更されてマイルドになっている。基板で遊ぶのがお勧めだ。

小谷城 江・浅井三姉妹博覧会

2011年07月24日 | ドライブとかりょこうとか
例によって友人TELの無計画ドライブで、本日たどり着いたのは滋賀県の「小谷城」である。
小谷城といえば「電波押し売り放送企業」が放送中の大河ドラマで注目されている所だ。

pcfxはドラマを見ていないが、いいかげん資料もロクに残っていない政略道具の「戦国の女」を
テーマにするのはやめたらどうかと思っている。あと、もう時代劇を演じる事ができる役者など
揃わないのだから、時代劇を作るのはやめたらどうかと思っている。今時の時代劇に出てくる
役者やタレントなど見ていられない。育てる気がないならやめちまえ。チャラい時代劇など
過去の作品の冒涜に過ぎない。


そういうスタンスのpcfxとTELが「江・浅井三姉妹博覧会」に行ったのだから、その視線は批判的
なものとなる。また、信長を裏切って朝倉側についた浅井家の無駄死にについても、二人とも
苦々しく思っているのでこれまた視線は冷ややかだ。時勢や大義がわからない者たちによる
愚かな選択などをいくら美化しても欺瞞でしかない。



さて、それはそれとして、小谷城の麓にある「小谷・江のふるさと館」に入場した。単館の
入場料は300円
だ。そして中はというと・・・まあ300円ならこんなものかという感じ
なので、ご自分の目で見てもらいたい。「小谷城という言葉を初めて知りました」という人
むけだ。




この「小谷・江のふるさと館」の周囲には仮設の飲食店・ステージ・土産物屋などがあり、
土産物屋には商魂たくましいグッズが並んでいる。ラインナップは「ニワカ歴史ファン向け」
となっており、携帯のデコシールやらTシャツやらタオルやら紙の陣笠やら。その図案もまた
ひどく初心者や外国人向けになっており、当時の有名武将の家紋が敵味方入り乱れたデザイン
見ると、嘆きを通り越して笑えてくる。客をバカだと思っているのか、バカをターゲットに
しているのかどっちかだろう。後者なら文句は言うまい。





そんなひどい商品の中で、pcfx的に気にいったのは「浅井三姉妹煎餅」だ。煎餅の味などを
土産物屋に期待していないが、パッケージのイラストがまた「いかにも」で清々しい。そして
イラストと中身が「ほぼ関係ない」のも素直でよい。「煎餅の包み紙だけ媚びましたテヘッ」
という萌えすら感じる。煎餅と饅頭をこうして売るのは日本の伝統芸能ともいえる。



他の、人を小馬鹿にした商品群はさておき、pcfxはこの「浅井三姉妹煎餅」を購入した。
イラストの作者名は確認できなかった。基本は少女漫画風であり、同時に今時の萌え絵の要素
を含んでいる。他の図案もこの施設の各所で見られる。





意外な事に、この「浅井三姉妹煎餅」の中身の煎餅はおいしかった。ネタで買ったのだが
なんか得した気分である。三種類の豆煎餅が入っており、どれもそれぞれの風味が生かされて
いる。価格も630円と普通だが、味のよさを考えると安くも感じる。もしここへ行くことが
あったら、土産にお勧めなのが「浅井三姉妹煎餅」だ。人によってはこのイラストを恥ずかしく
思うかも知れないが、なに、人生など恥の上塗りでしかないのだ。pcfx的には次女の初姫が
お気に入りだ。













さて、ここから小谷城跡に行くのだが、ルートは大きく2つある。1つは定時運行している
バスに500円払って乗るルート。もう一つは徒歩で登るルートだ。ここで注意してほしい
のは、この徒歩ルートは割とハードなので覚悟が必要だという事だ。注意書きもあるので
必ず読んで理解してから登ったほうがいい
。観光地のハイキングコースくらいに考えると、
結構後悔することになると思われる。だからちょっと高いがバスに乗るのをお勧めする。
このバスに乗っても一番上までは行かないので、小谷城を全踏破するのは結局徒歩での登山
が必要になる。バスルート周辺でやめておくのが利口というものだ。







再三言うが、徒歩での登山は注意してほしい。足場も悪く、急坂で距離も相当ある。普段から
鍛えて無い人がするものではない。帰りの下りも足を滑らせやすい。相応のシューズを用意
したほうがよい。あと、たまにクマも出るらしいので、覚悟も必要だ。ちなみにpcfxは途中で
ぽんぽんがいたくなった」のでリタイア下山した。友人のTELは元気者なのでピョンピョン
飛び跳ねながら
登っていったが、それでも相当きつい道だったと言っていた。普段強がりしか
言わないツンデレ男のTELが「きつい」というのは相当なものだ。因みに、登山口に書いてある
「距離の表示」は、あくまで途中までのものだということをキモに銘じてもらいたい。実際は
倍以上歩くことになる。信長が攻め落とすまで難攻不落といわれた名城跡はそれなりの立地
だったというわけだ。



また、博覧会の会場はここだけではない。周遊のバスが出ているので、全部見たい人はこれを
利用するのが吉だといえる。





8月6日には「小谷城下祭り」が行われるので、この日に行くとお得かもしれない。



そんなこんなで本日も12時間かけた外出だったが、帰りにTELがどうしても寄りたいと聞か
ないので「ホビーショップTAMTAM」入る事になった。そして、以前ゲーセンで4000円
かけても取れなかったプライズ景品の「イカ娘フィギュア」が、1380円で売っていたので
衝動買いすることに。まったく罪な商品ラインナップである。







プリルラ

2011年07月22日 | げーむ
バブルもはじけ終わった1991年に、非常にファンシーなゲームがゲーセンに登場した。それが
プリルラ」だ。タイトーがヤケになったのか、それとも何かを悟ったのかは知らないが、この
ゲームはある意味で多くのゲーマーに忘れられないトラウマを残した。



このゲームは1P側が男の子の「ザック」、2P側が女の子の「メル」なので、一人でプレイする
場合は2Pの「メル」を選ぶのがゲーマーの定石であった。[要出典]

現在から見ても絵柄がとてもカワイイので、秀逸なデザインだと言えるだろう。また「メル」で
プレイする場合に、攻撃を受けた声が非常に可愛らしく、コインを徒に消費してでもその声を
聞きたがる変態も多く存在した。
[要出典]「メル」の攻撃を受けた際の表情や、全ての残機を
失って昇天する姿もまた可愛らしく、やはりコインを無駄に消費してそれを楽しむ変態も後を
たたなかった。
[要出典]







ゲーム全体については他の攻略サイトやWikiなどを参照してほしいが、他の多くの紹介者が
強調するように、このゲームのキモはラウンド3にある

「誇大妄想家」の妄想によって魔法的に変質した世界がラウンド3なのだが、これは誇大妄想と
いうよりも統合失調の幻覚だ。「おいおいタイトー大丈夫か?」とバブル後の経営や開発者の
精神衛生を気遣いたくなるゲーマーが続出し、一方で「タイトーが吹っ切れた!」と喜ぶ者も
また多かった。











これらの画面取り込みを使ったコラージュを、当時は「デジタイズ」と呼んでいた。タイトー
は以前にも画面取り込みの背景を使ったゲームを作っていたが、ここまであからさまに使用
したのは初めてだったと言える。それは2011年現在、20年の時を超えて伝説になっている事を
考えれば、このラウンド3をゲームに取り入れた制作者のセンスは正しかったわけだ。

このラウンド3には問題の部分があり、女性の巨大で半裸な足がニョッキリ生えて妨害して
くるシーンがある。



股間の部分に扉があり、プレイヤーキャラクターを扉の前に持って行ってアクションボタンを
押すと扉が開き、その向こうには肉体の一部分ではなく宇宙が広がっている。この哲学性に
感銘を受けたゲーマーも多く、「プリルラ」の根幹部分だとの説も流布されている。[要出典]


1991年はアーケードに於いて8ビットゲームが姿を消した頃であり、基板上には68000が一つ
ないし二つ並んでいた。「プリルラ」も68000を1つと、「Z80」を1つサブで搭載しており、音源
は「YM2610」を積んでいた。OPN系の4オペ4ch、SSGとPCM7chのバランスのいい音源チップだ。
そしてノイズを含めて全てステレオ出力という頼もしい性能を持つ。16ビット時代の象徴と
いうべきセットであり、ネオジオ基板に構成が似ているものだった。これらによって8ビット
時代と完全に差別化されたグラフィックとサウンドを表現できたが、同時に「コンピューター
臭さ」という味わいを失っていった。2011年の今日、シュタゲの8ビット版をわざわざ作る
のは、「コンピューター臭さ」という価値観の再認識なのだろう。

「トビマストビマス」というザコ敵のセリフギャグを理解できるゲーマーも少なくなった時勢
だが、坂上二郎氏も亡くなった今、昔を見つめ直すのも一興だろう。PS2のタイトーメモリーズ
に移植があるので、まだ遊べる。


SRD(スーパーリアルダーウィン)

2011年07月21日 | げーむ
比類なき奇ゲー会社である「データイースト」が、生物的進化をテーマにしたゲームの第二弾が
SRD」だ。前作の「ダーウィン4078」の続編であり、1987年にアーケードゲームとして登場
した。ゲーム内容は前作を踏襲しているが、進化や突然変異の方法が強化され、より複雑に
なっている。詳しいルールなどはググってもらいたい。



シューティングゲームとしては独特の難度があり、敵弾の速さや当たり判定の増大などで苦労
することになる。当たり判定の大きさによって敵弾に当たりやすく、相当訓練しないと進化と
退化をめまぐるしく繰り返し落ち着かない。じっくり各進化状態の攻撃を堪能できないのだ。
「イボル」も不必要なくらい出たり全然出なかったりで、前作のほうがバランスがよかったと
いえるだろう。

そのような難度を腕前で超えても、10面あたりで突如ゲームが終わってしまう。これには秘密が
ある
のだが、それも攻略サイトなどを参照してほしい。とにかく唐突な印象のゲームであり、
もう少しゲームバランスを整えて欲しかったのが残念なところだ。実はこのバランスを惜しんだ
人がおり、後年になってプログラムを改造してゲーム性を向上させた海賊版が存在したが、
その詳細は不明なまま忘れ去られた。これは海外版の単なるコピー基板とは別の物だ。


さて、pcfxがこのゲームに目をつけた所は、「地上を這い回る謎の生物」にあった。トカゲや
昆虫のようなものが地上から攻撃してくるのだが、これらを倒すと「DNA」なるアイテムを
落とす。この「DNA」を取ると、取った数によって、敵弾を喰らってPISTERまで退化せずに
途中で退化が止まる。つまり保険みたいなものだ。後半戦でかなり重要になる。

基本的にこのゲームにはメカのようなデザインの敵ばかり登場するが、この地上の謎生物だけは
見るからに「生き物」であり、それが「DNA」を落とすという所に、このゲームのサスペンスな
BGMとあいまってある種の「生々しい気味の悪さ」を感じる。進化がテーマのゲームなのに、
空中の的はメカメカしく、出すのは「イボル」というエネルギー体だけだ。このエネルギー体で
「進化」する所に、いきなりの「DNA」だ。DNAは進化こそしないが進化をある程度記憶する
というアイテムとして登場し、それを出すのが生物っぽい敵というところに、何か自機の持つ
気持ちの悪い、得体のしれない正体を感じてしまう。また、その生物っぽい敵を倒した後、
死体は消滅するが黒い影だけ残す。このシルエットも非常に不気味な印象を受ける。この演出
がpcfx的に非常にツボにはまり、このゲームが印象深くなったのだった。



このゲームは何かとゲームバランスの悪さを指摘されるが、背景の描写やBGM・効果音など、
斬新で奥深い良いところもたくさんある。pcfxはシリコン基板が背景になっている面が
気に入っており、またコンデンサや設計がいいのか、基板上の周波数が整っているので電源
さえ安定していれば非常に綺麗な解像度でグラフィックを楽しめるのだ。CPUを2つ使って
おり、音源もFM音源のデュアルになっている。CPUには8ビット最強といわれる「6809」を採用
しており、プログラムと共に8ビット時代の最後を飾るに相応しい出来だ。サブとして「6502」
も使っている。音源は音のクォリティとしてYM2203を、音数のためにYM3812を使っている。
これらのハード構成は見事な組み合わせであり、SRDの基板は8ビット&FM音源時代の象徴とも
いうべき芸術品だ。このあたりにデータイーストのもう一つの側面を見ることができる。

現在では基板でしか遊べないSRDだが、プレイする機会があれば是非、このゲームの謎を解いて
楽しんでほしい。ちょっと腕は必要だが、昨今の弾幕シューティングに飽きた貴兄には
ちょうどよい刺激になるだろう。

ポケットギャル

2011年07月20日 | げーむ
バブルが始まる頃の1987年に、「奇ゲー」の本家本元ともいえる比類なきゲーム会社、
「データイースト」がこの世に放ったビリヤードゲームが「ポケットギャル」だ。



この「ポケットギャル」はその名が示すとおりギャルが出てくる。前作の「サイドポケット」
のギャル強化版がこの「ポケットギャル」だ。ギャルはただ出てくるのではなく、プレイヤーが
条件を満たして勝利すると脱いでくれる。なぜ脱ぐのかはデータイーストが語らないまま、
シイタケ販売をしながら倒産してしまったのでわからない。大人なら察するべきだろう。

アーケードの「ポケットギャル」のハード構成は少し変わっている。CPUに「6502」を2基搭載し、
音源にはYM2203とYM3812、及びADPCMを実装する。1987年という時代にあって「6502」は非力
なCPUとなっており、ボールのブラウン運動を計算しながら音源の制御までを6502一つだけで
行うのにはムリがあったのだろう。サイドポケットシリーズの楽曲のセンスは、移植ものも含めて
定評があるが、このポケットギャルの曲はそのシリーズの中にあって独特だ。またギャルがアニメ
絵なのも独特だ。落ち着いたプレイ中のBGMと裏腹に、リザルトやクリアのBGMはチャカチャカして
おり、80年代のアイドル歌謡曲のようだ。音源ごとの音の使い分けなども、現在の耳から
でもよくできていると感心せざるをえない。匠の技だ。

この「ポケットギャル」は4軒のプールバーをハシゴし、得点の条件を満たしてプレイすると
それぞれの店のギャルが脱ぐというゲームだ。オマケとして、コインを投入するとバニーガールが
突如脱衣し、「やだ~」と顔を赤らめるシーンがある。霊長類と思えないほどビリヤードがヘタ
であっても、コインを投入すればとりあえず脱衣を見れるのだから親切設計である。デモ画面
でも一瞬だが脱衣する。お得だ。

得点の条件は「ミスなく連続で玉を入れる」と「番号を連続して玉を入れる」という2つの要素
の得点合計が、チャンピオンの得点を超えたらクリア、というものである。最初の「プールバー
KISS」では比較的ラフに打ってもクリアできるが、最終の「ホテル・オスカー」になると容赦の
ない得点設定になっており、ほぼノーミスで、全連番でポケットしないとクリアできない。
これをゲーセンでプレイすると、ホテルオスカーで連日何万円も使う事になりかねない。
対策としてはポケコンを使って軌道を計算させるという手もあったが、pcfxはなんとか自前の
脳だけでクリアすることができた。ゲームのクセを見抜けばなんとかなるものだ。



しかし理不尽だったのは、ホテル・オスカーのギャルはベリーショートのお姉さんであり、
pcfxの好みではなかったということだ。意地だけでクリアしたが、登場するギャルの中では
二番目の「クラブ・ロイヤル」のギャルが好みだった。また、上級のギャルほど年齢が高くなる
というのも、2011年現在の価値観と逆で面白い。

クリアするとギャル全員のプロフィールが明かされる。「プールバーキス」は「いずみ19歳」、
「クラブロイヤル」は「あみ21歳」、「クラブハスラー」は「リンダ24歳」、そして最後の
「ホテルオスカー」は「さつき26歳」だ。全員が並んで脱衣し、ウィンクしてくれる。
画面下部にスタッフロールがあるが、そんなものを見ているのはもったいない。



で、ギャルのうち3人が日本人名であることから、この試合は日本国内で行われていると想像
できる。また、チャンピオンの得点は彼女たちのベストスコアなのだろう。それを超えれば
実力を認めてプレイヤーに即惚れし、あまりに惚れたものだからその場で即脱ぎして誘惑する
という暴挙に出る。ということは周りに他の客はいないものだと想像できる。彼女たちの
セリフから察するに、恐らくその場で事に及んでいると推察され、ビリヤード場に普通は
ベッドなどない事から、ビリヤード台の上で行為に耽っていると考えられる。

あみ・さつきのセリフで「今夜?あいてますよ」「今夜は寝かさないわよ」とあるので、この
試合は夕方から宵の口に行われているものと思われる。ということは、この試合のために各
ビリヤード場は貸し切りになっているものと思われ、通常はビリヤード場に定休日はない。
売上を度外視しているので、彼女たちにはそれを決定する権限があるとすると店のオーナーで
ある可能性が高い。

エンディングでギャルが4人並んで媚態を振りまいているので、プレイヤーは4人の女を同時に
虜にしたジゴロという事になり、二つの玉突きに優れたプレイヤーだと言えるだろう。


ビリヤードゲームに脱衣要素を加味した奥深い設定の「玉突きジゴロゲーム」がポケットギャル
であり、その後続編も作られたが、ギャルのグラフィックがアメリカン過ぎてガッカリだ。
微妙な時代背景によるグラフィックがかえって絶妙な「ポケットギャル」こそが至高の
ビリヤードゲームだ。ゲーム自体も面白く、何度もプレイしたくなる名作である。


カコスミ再開

2011年07月20日 | はいきょとか
pcfxは「過去の棲家」という廃墟サイトを運営している。「廃墟サイト」とは、全国津々浦々の
廃墟を巡って探索し、それを楽しんだり写真を撮影して公開するサイトだ。

「過去の棲家」は主に3人で行っており、代表は「電話男」こと「TEL(てる)」だ。pcfxも探索
に同行する事はあるが、メインはこの「TEL」が行っている。pcfxの役割は写真の編集や加工、
及びコメントをつけてサイトにアップする事だ。もう一人の探索構成員であるYOCHIもいる。

無論だが廃墟探索は違法になる場合もあり、また危険な探検でもあるので、お天道様の下で
堂々と容易に行うべきものではない。それなりのコンセンサスと準備と覚悟を持って慎重に、
またひっそりと行うものだ。面白いからといって気軽に廃墟探索をするのはお勧めしない。
むしろ「過去の棲家」としては、うかつな廃墟探索はやめて頂きたいスタンスだ。


2年ほど放置してそろそろ皆の記憶から消えた頃合いなので、カコスミを再開した。もう古い
シガラミとか全部リセットしてのスタートだ。「廃墟サイト」「廃墟探索者」の世界では、
以前に醜い内輪の争いがあった。なんか廃墟界を強引に掌握したい権力欲に塗れた人がおり、
そいつが派閥などを作って人間関係をややこしくした。また廃墟サイトをやってる人というのは
だいたい変わり者であり、中にはメンヘラな人も多い。だから余計に人間関係がこじれる。
そこに男女関係のもつれやら嫉妬やらが重なって、嫌気がさした我々は「過去の棲家」で相互
リンクを全て断る事にした。他の廃墟サイトの方との付き合いも特定の方のみとした。

さらに「心霊サイト」の人たちのテリトリーと「廃墟サイト」のテリトリーが重なる場合が
多く、そのややこしい廃墟界(笑)の人間関係に更に混沌を持ち込む。「過去の棲家」も元々は
心霊スポットを探索していたが、活動を続けるうちに「霊などいない」というスタンスに
変わり、またあまりにウザい人が多い「心霊サイト」の人々と縁を切っていった。

一時期雨後の筍のように発生した(我々もだが)廃墟サイトも、現在は少し落ち着いたようだ。
そのような状況もあり、またボチボチ活動を再開するか、という事になってこの度再開する
事になった。再開を待ち望んでいた方にはお待たせ致しました。

今まではWEBサイトだったカコスミだが、今回からブログ形式に変更した。前回まで使っていた
「過去の棲家ver.野菜炒め」は終了し、新たに「過去の棲家ver.プラズマムヒ」として開始
する。URLはこちら http://pcfx.blogzine.jp/

現在、カコスミとアクティブな繋がりのある廃墟サイトは「廃墟ちゃんねる」だけであり、
運営者の「楓」氏とカコスミの代表「TEL」は仲良くさせていただいている。

「廃墟ちゃんねる」と「過去の棲家」は廃墟界(笑)の反逆児という事になっているようだが、
それはそれで面白いので言い訳などはしない。

「過去の棲家」のポータルサイトは「過去の棲家<裏>」であり、裏口がメインの入り口
なので注意してほしい。サイトポリシーなどはそちらを参照してほしい。


そんなこんなでまた廃墟写真などをアップしていくが、またいつ中断するかもわからない。
また、カコスミのバージョンネームについてのご質問には返答しないのでご了承頂きたい。


このブログに到達した検索ワード2

2011年07月18日 | そのた
前回取り上げなかったワードで検索が多いものに、補足説明が必要かと思われるものを
ここに紹介する。


>ハーフミラー ダライアス

ダライアスの筐体(3画面のもの)のハーフミラー構造は、以下のようになっている。

1.一枚の横に長いハーフミラーを斜め45度に立てる
2.モニターは両脇を水平に、真ん中を垂直に設置する
3.すると水平に置いたモニターはハーフミラーで反射し、真ん中のモニターは透過する
4.モニターの位置を調整して、継ぎ目が見えなくなるようにする
5.うれしい






>名古屋に住むなら

◯以前にも書いたが、名古屋で住みやすい場所を簡潔にまとめる
(家賃・交通・利便・民度・安全などの総合評価)

地下鉄東山線沿線:星が丘・本郷・上社
地下鉄鶴舞線沿線:平針・原・御器所
地下鉄桜通線沿線:桜山
地下鉄名城線沿線:自由が丘・本山



◯住まない方がいい場所(個人的主観・経験則・実感)

南区・中村区全域(民度・安全×)

守山区・緑区(交通×)

名古屋市外(名古屋市内に住んでないと不便で多少差別がある)



◯気をつけたほうがいい場所(個人的主観・経験則・実感)

瑞穂区全域・今池・金山(民度・安全△~×)

中区(家賃高い)



◯絶対に避けるべき場所

名古屋駅以西(特に名古屋駅西口に近い地域)
*理由は書かないが、いいからやめときなさい。




>アーケードレトロゲーのFM音源について代表的なもの一覧


YM2151(OPM)FM*8(ステレオ) 4オペ

YM2203(OPN)FM*3 SSG*3(PSG*3)4オペ

YM3526(OPL)FM*9(FM*6+FMプリドラム*3~5)2オペ

YM3812(OPL2)(3526の上位互換・サイン波以外も発振)

YM3438(OPN2C)FM*6 (ステレオ)4オペ




>ナムコ 数字

ナムコフォント・ゼビウスフォントの事?独特のカッコイイフォントだったので他社でも
類似フォントが使われた。ググると色々でてくる。

ローマ数字の事?ゼビウスなどのタイトル画面の発売年月日をローマ数字で表示
しているが、3桁以上のローマ数字は馴染みが薄いので謎とされた面があった。


1984=MCMLXXXIV
1985=MCMLXXXV
2011=MMXI

また、マサチューセッツフォントを使った数字を指す場合もある。
(*グロブダなどに使われていたフォント)


シュタインズ・ゲートと今西錦司

2011年07月18日 | うちゅう
シュタゲを面白く鑑賞している。科学とか時空とか好きなpcfxとしては見たいジャンルの
作品だ。現在アニメの15話まで見ている。

シュタゲそのものは見てもらえばわかるので内容については詳しく書かない。是非ご覧下さい。


で、シュタゲでの時空連続体の表現は「世界線」という概念でくくられている。世界はロープの
ようになっていて、一つ一つの糸が撚り合わさっており、一本の糸が我々の時空だという仮定
に基づいている。時間を遡って過去を変えると世界線が移動し、辻褄が合うように再構成された
世界にジャンプするらしい。

で、これらは量子論・宇宙論などを元に作られたお話なので、実際にそうだとは限らない。
あくまで創作であり、物理学者でも真相を掴んでいるわけではない。宇宙や時空がどういう
大規模構造をしているのかは、まだ誰にもわかっていない。だからそこにはまだロマンがあり、
好きに想像を巡らせてもあまり突っ込まれない、当面最後のフロンティアだ。


pcfxもこれらを妄想するのが好きだ。そして生物科学も好きだ。生物の進化などの書籍や図鑑を
子供のように好む。バージェス動物群などは大好物であり、飽きもせずにアノマロカリスや
ハルキゲニアなどの復元図などを眺めて喜んでいる。


さて、日本に「今西錦司」という生物学者がいた。以前の彼の論を要約すると「進化とは、なるように
なった結果だ」というラマルク的なことになる。これは「論」としてはあまりにテキトー過ぎ、今西の名前を
聞いただけで失笑する学者もいたほどだが、今西錦司は後になってそれらを否定した。


で、この「なるようになった」というテキトー極まる論理なのだが、pcfxは「まさにその通り」
と考えている。一見、「なるようになった」という言葉は意味が分からないが、これを細かく
分解して考えると、「なる」という意思に基づいて「なった」という結果が産まれたという様に
も受け取れる。つまり「なりたい」と思ったように「なる」のだ。

ということは、「意思」というもののエネルギーや物理作用を認めることになり、「意思」は
物理法則に組み入れられなければならない。それを行うには、「意思」が客観的に観測可能で
あり、一定の条件下で一定の反応が見られなければならない。また他の物理法則との相関に
ついても説明できなければならない。

残念ながら現在の研究では「意思」が物理法則として影響を及ぼしているという事は確認
されていない。だからこの先は「SF妄想話」になっていく。だが科学は全て仮定から始まり、
いろんな辻褄をどんどん合わせていくうちに、なんらかの結果を導きだすようになるものだ。
だから「意思」は「物理」だと仮定して妄想することにも若干の意味はあるのかもしれない。


昆虫の擬態を見ていると、「こういう格好になりたいと思った結果、こうなったのではないか」
という姿の連中がいる事に気づく。例えば「葉っぱに非常に似ているカマキリ」などの写真を
見ると、「これ絶対、擬態したいという意思が反映されてるよね」と生物学的論拠なしで
直感的に思ってしまうことがある。これは科学とは言い難い。現在の生物科学では擬態の説明
に関して、「物凄いバリエーションのカマキリの中で、生き残りやすい形態の者が残った結果」
と説明される。葉っぱにしか見えないカマキリも、膨大なカマキリのバリエーションの一つで
しかなく、葉っぱに似ているから生き残ったのだというのだ。

しかし葉っぱにしか見えないカマキリが「バリエーションの一つ」というのなら、他にも珍奇
な形態をしたカマキリが山ほどいなければならないはずであり、生存に一見向いていないような
カマキリも今現在、多数発見されているはずだ。だが現在見られるのはカマキリの生存圏に
擬態しやすいスタイルのものばかりであり、そこには擬態の方向性を選択をした意思が介在して
いるようにしか見えないのも事実だ。即ち「エサに見つからないように周囲に紛れてぇ」という
意思だ。

元のモデルのカマキリが、このような擬態を身につけるチャンスは「突然変異」しかないと
いわれている。じゃあ突然変異とは何が原因で起こるのか。それはまだはっきりとわかっては
いない。その突然変異というのはなぜ、どのように起こるのかも、もっともらしい説明は
あるが普遍的な証明はされていない。


突然だが、「神様は存在する」という仮定で考えてみる。この時点でもうオカルトだが、しかし
仮定の話なのでおとなしく聞いてもらいたい。生物の設計者が「神様」だとすると、自分が
設計した生物からの要望・苦情・デバックの情報を管理したくなるのではないか。だから生物に
その通信手段を与えていてもおかしな話ではない。神様の元に「目立ちすぎてエサに逃げられる
のでなんとかしてぇ」とか「もしかして周囲の葉っぱとか枝とかに似てれば気づかれにくい
んじゃね?」とかの苦情や要望を、まだ人類が発見してない通信手段を使って回収したほうが
設計者としての利便性がよいのではないか。それらの情報を元に、改善を施した次のモデルを
投入するのだ。但し、なんでも意見を取り入れるわけでもない。他の生物との絡みや、その
モデルへの愛着、繁殖の加減、遺伝子設計上の限界やそれにかかる時間など、神様にだって
都合というものがあるのだろう。

それらの問題にあまり抵触しないと思われたものに、優先して新モデルが与えられるのが所謂
「突然変異」だ。神様の事情を知らない我々には「突然」に見えるが、実際は適切なタイミング
によって支給されているのだ。

神様はカマキリの事だけ考えているわけではないだろう。他の昆虫や哺乳類や魚類など、無論
人間についても同時進行で改良設計を行っており、割と忙しい身なのかもしれない。最新モデル
の霊長類、人類に関しては、「大脳を大きくして記憶能力や識別能力を向上させるとどうなる
んだろう?
」と、ちょっと遺伝子いじくって作ってみたら、「なんか100万年くらいの間に勝手
にいろんな物を作り始めちゃったよ、どうするよこれ。こないだの恐竜みたいに詰みそうだから
一回絶滅させとく?じゃあウィルスコード挿入しま~~。あれ?こいつら薬つくりやがった!
Uzeeeeeee!もう戦争で殺し合え!死ね!
」と思っているのかもしれない。


神様がどんな人か知らないが、最小評価で考えると、地球という生物開発エリアを与えられた
研究者あたりの立場になる。上司から、「地球にある元素を使ってなんか面白いもの作れ」と
いわれて、なんらかの目標を達成するために、いろんな生物の遺伝子を日夜いじっている。

生物から「意思」という通信手段を使ってデータを集めている。この「意思」は易々と傍受
されたくないので、ちょっと賢くなった人類程度にはまだまだ利用できない帯域を使って
通信している。まだ人類は重力子などのダークエネルギーを観測出来ていないので、その
あたりを使っているのだろう。


で、生物は「強く願う」という行為によって神様にデータを通信できるチャンネルを持つ。
それが確実に反映されるわけではないが、神様の都合に合致すれば、まもなく「突然変異」
などの方法を使って「願いが叶う」。だが、その「願い」が、身体的な物だけとは限らない。
ある程度の知能を持つ生物になると、遺伝子に関係ない願いをスパムメールのように神様の
メールホルダに送りつけるようになる。人類などは調子乗って、「過去を変えたい」などと
時空を超える願いを送りつける始末だ。通常はこのような「時空遡及願い」は「迷惑メール
ホルダ」に自動的に格納されるのだが、地球の生物管理をしている係の神様の設計ミスが
原因で、自分の研究エリア、即ち地球の環境そのものが詰んでしまうような方向になった
場合(恐竜の大繁殖や人類の科学技術など)、またそれらを環境の変異(全球凍結など)
だけで対処できないようになった場合に、その神様は時空管理局の神様に泣きつくことに
なる。

やっべ~人類が重力子見つけちゃったよ。このままだと重力子が時間を制御してる仕組み
がバレちまうな。そうすると連中、テキトーな時間跳躍実験して時空の連続をメチャクチャに
するだろうな。なぁ~頼むよ、こいつら早くなんとかしてくれ~


泣きつかれた神様も、自分の管理してる領域を荒らされたくないので、仕方なく人類の研究を
妨害する工作を手伝う事になる。物理学者だけを選択的にを皆殺しにするわけにはいかない
ので、量子論に関わった研究者の脳の調子を狂わせる程度の干渉を行う事にする。

その結果が、「量子論に関わると脳や精神や人格がおかしくなる」という普遍性だ。また、
科学という枠内だけではダークマターの発見に到達できないというトラップを仕掛けている。
科学と相反するオカルト分野も視野に入れなければ、重力子の発見に至らないという、非常に
意地の悪い矛盾ルーチンをソートしているのだ。また、その研究を続けるには精神の安定や
人類の脳の構造限界を超える技術も同時に必要になるので、肉体を持った人類の生身の脳だけ
では理解に至らないというブラックボックスも仕掛けてある。

つまりこうだ。今まで置き去りのまま放置されていた宗教の分野での精神世界開発、心理学や
脳生理学の研究、脳の制御をコンピューターに移行させる技術、及び量子物理学の統合を
成し遂げないと、なんで重力だけがおかしな挙動をするのか理解できない。なぜなら、「意思」
は重力波を使って神様と通信を行っているからだ。神様はブレーン宇宙の外側に存在するので、
重力しかそれを超える物理手段がないからだ。そして「意思」を知るにはオカルトの研究を進め
なければ理解されない。

オカルトを、いつまでも「オカルト扱い」して非科学的なものに封じ込める思考停止を続ける
事はできなくなる。「神様はいるかも知れない」のではなく、「神の所在を探しに行く」
というアプローチが必要になる。幻覚を見る薬を飲んだり、統合失調な妄想で神を語るのでは
なく、そのようなオカルトやファンタジーな手法を一切廃した手段で神を「真剣に探す」事が
必要になる。




などという妄想を、現在割とヒマなpcfxはシュタゲを見ながら考えているのだがどうか。
やはり量子論などに生半可に関わると、脳や精神がおかしくなるのかもしれない。ミクロの
世界が不確実なら、ミディの世界は例外ばかりであてにならず、マクロの世界は逆に融通が
きかない。どこまでいっても確実なものはなく、神様にも限界というものがあるのだと考える
と、pcfxの妄想話も捨てたものではないという気がしてくるから、宇宙というのは不思議だ。


中山道馬籠宿

2011年07月17日 | ドライブとかりょこうとか
友人TELの気まぐれドライブに付き合い、行き先も定かでないまま本日行ってきたのが「中山道
の馬籠(まごめ)宿」だ。

TELとはもう四半世紀の付き合いになるが、彼の考えていることは常にpcfxの想像の外にある。
今日も午後一時に電話してきて「今向かってる」とのこと。彼の車に乗りとりあえず走りだす。
毎回ここでpcfxは「どこいくの?」と質問するが大抵無駄である。決まってないのだ。


ここでTELについて少し補足説明をしておく。彼は一年中どこかで車を走らせているが、それが
商売上絶対に必要というわけではない。趣味とも言えない。なぜなら食事や睡眠を趣味として
語れないように、彼のドライブはあまりにも恒常的過ぎており、もう趣味の域を逸脱している。

pcfxが知る限り、彼の最長連続運転距離は、名古屋から仙台までの距離を車で日帰りした時だ。
しかしそのくらいなら、普通の人でも高速を往復すればできそうなのだが、実際にはTELは、
名古屋から神奈川まで行き友人を拾い、そこからすぐに仙台まで飛ばし、仙台市から山の中に
突入していった挙句「廃墟探索」をし、そのまま神奈川まで戻って友人を降ろし、その足で
名古屋まで帰ってくるのだ。ほぼ一日中ケロっとして運転している変態である。

*往復1668km


このように息をするように運転をするTELなので、pcfxと行動を共にする場合も、普通だと泊り
になるような行程は日帰りとなる。彼に付き合っていると距離感というものの普遍性が壊れて
いく。「小旅行とはどの程度のものか」という概念を見失っていくのだ。



さらに「走ること自体が目的」なので観光地に行っても温泉旅館に泊まるでも、土地の名物を
食べるわけでもない。泊まらず日帰りであり、食事はファーストフードかコンビニ飯だ。彼が
珍しく「温泉行ってきた」という場合でも、それは温泉旅館や民宿に泊まったという事ではなく、
「その土地のスーパー銭湯に行ってきた」だけだ。


さて、そんなTELとのドライブなので、pcfxはいつしか「ここへ行こうぜ!」とか、「名物食べ
ようぜ!」とか、「温泉旅館に泊まってゆっくりしていってね!」とかは考えなくなった。
否応なしに行き先はTELの気まぐれになり、コンビニでおにぎりを買い、日帰りで深夜に帰宅だ。

今回も同じようにTELの気まぐれで午後出発し、行き先を聞いても答えず、飯はコンビニである。
そんなキチガイドライブをもう何年も繰り返して慣れた。





で、行き着いた先は岐阜県中津川市にある、中山道の木曽11宿の最南端に位置する「馬籠宿
だった。TELが最初からここを目的地にしていたとは考えられない。いつも無計画だからだ。
おそらく適当に国道19号を走っていて思いついたのだろう。いつもそうだからだ。



この「中山道馬籠宿」は作家の「島崎藤村」の縁の地であり、島崎藤村といえば「破戒」が
有名だろうが、pcfxは「新生」が代表作だと思っている。性的な意味で。



道路から頂上の展望台に向かった坂道に和風な建築が立ち並び、そのほとんどが土産屋か飲食店
という商売っ気まるだしな小径だ。特にコレといったものがあるわけではないが、観光客で
賑わっている。小径には水が流れ、ところどころに鯉が飼ってあったりしており、途中途中で
買い食いしたり土産屋を冷やかしたりしながら展望台まで歩く。









展望台の辺りには昔の奉行が書いた定書のフェイクがあったり、この季節に行くと目にも鮮やか
な真っ青の紫陽花があったりして好事家には超ウケる。眺めもいい。思わず手の平に似た葉っぱ
を乾燥させたものに火をつけて口元に持って行きたくなる風景がそこにある。







観光客は大別して「子供連れの家族」「ちょっとアレなカップル」「老夫婦」「やたら長玉の
レンズをつけたカメラマン風の男」「あまりの軽装で年齢が怪しい老人」「湯けむり系OL」など
が多く、我々のような男同士の二人連れは珍しい。だが二人でバシャバシャ写真を撮ったり
ムービーを撮りまくっても怪しまれない。なぜならそのような怪しい男が割と多いからだ。
我々の目的はさておき、彼らはなにが目的でここへ来ているのだろう。撮った写真をどうする
のだろう。謎が多い人物たちである。



とにかくそこらじゅうが茶店でありお食事処なので、時間さえ外さなければ飲食に困ることは
ない。この季節なのでメインの食べ物はソバであり、メインのおやつはかき氷のようだ。今回は
珍しい事に、TELが「その辺で冷たい物でも食べるか」などと言い出した為、今日明日に地震や
天災や戦争が起こる前触れではないかと心配になる。



そこら中にある茶店から「喫茶かっぺ」を名前だけでチョイス。名前の冴えなさとは裏腹に、
ここのかき氷は絶妙な製法で作られておりオススメだ。夏期に馬籠宿にお越しの際、ご休憩は
この「喫茶かっぺ」でかき氷をお試し頂きたい。無論だがこの店に宣伝料などもらっていない。
pcfxは自分でいいと思った店しか紹介しない。







このかき氷は、氷自体の味、削り、食感も一味違う。まるで厳冬期のウラジオストック北部の
ブリザードアイスのような鋭さがあり、それでいて練乳とよく馴染む上、使っているシロップも
市販の安物のようなきつい酸味や嫌味がない。今回は氷イチゴのアイス乗せを選んだのだが、
このアイスも「その辺のアイスクリームを適当に義務感で乗せました」というようなやる気の
なさが微塵もなく、風味豊かな味わいのアイスクリームは、食べ終頃のドロドロに溶けた
かき氷の中にあってもその存在感を色濃く主張するものだ。これで¥550は安い。是非是非の
オススメである。雪女もビックリだ。



半ズボンの社交的な老紳士がカメラを持ってウロウロしてもさほど怪しまれない観光地、それが
「中山道 馬籠宿」であり、二人とも黒づくめの格好をしている我々もさほど怪しまれない。
歩いて次の宿場町まで行くもよし、坂道を歩いて登るのが超カッタりぃ人は展望台まで一気に
脇道を車で登るもよしだ。休日に行き先に迷ったら、ここへ行ってみるといい。