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風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

ああ、空き家

2016-07-12 14:02:49 | Weblog

久しぶりに実家にいった。母が亡くなってからずっと空き家になっている。それなのに家の周りの紫陽花は綺麗に咲いて、近所の苦情により、泣く泣く大きな枝を切った柿の木がまだ生きてるというように葉をめいっぱい茂らせていた。

実家に行ったのは赤く熟したスモモの実が目当て。大きな木ではないがそれでも青い実が10個くらい確認できていた。

しかし、楽しみにしていたスモモはひとつもなかったのだ…。下に落ちた形跡なし、鳥がつついた形跡なし。誰かが取っていっちゃったみたい。あ〜がっかり。

そういえば、先日も裏に置いてあったヨドコウの物置が無くなっていた。近所の人もいつから無くなっていたのか知らない。夜のうちに誰かがトラックか何かで運んだとしか思えなかった。あれは捨てようと思っていたからいいけど。

空き家になるってこういうことなんだな。なんだか思い出が壊されていくみたいで寂しいなぁ。。。

父の戦争体験記

2015-09-08 11:24:55 | Weblog

父の戦争体験記が出てきました。少年だった頃、軍事工場で働いていた時のことが書かれています。20年前に地元の小学校の子供達に戦争体験を話して欲しいとお願いされた時の原稿です。平和がゆるがされ、今の不穏な情勢を亡き父はどう思うだろう。




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昭和17年北海道士別市から東京蒲田の興亜工業と言う軍事工場に入りました。飛行機の機関砲の弾丸一日4百個、朝8時から夕方5時まで、ご飯どんぶり一杯です。


戦争が始まりまして約10ヶ月位で日本は不利になったのです。だんだん戦争が不利になりますと食料が足りなくなります。ご飯も底の方に三はり位その上は豆粕です。それでも1ヶ月に1回くらいはお茶飲み会と言うのがありました。決められた食事では足りないのです。それで少ない金でサツマイモを買いましてよく生で食べました。

昭和20年3月9日本所深川大空襲、あの時は、B29、350機位、焼夷弾爆弾が夜空を真っ赤に染めていました。丁度私達は蒲田におりました。

そして4月15日、今度は蒲田が空襲されまして、私達は着の身着のまま羽田飛行場の側にあります森ケ崎高射砲陣地に行ったのです。

その空襲の最中に赤ちゃん産んだ女性もいたのです。人間の自然の力と言うものは本当に強いものだと知りました。

鉄板の焼けたのが赤くなって飛んできます。私達はただ地面に頭をつけておりました。

B29が焼夷弾を落とす時は大きな入れ物の中に焼夷弾35本入っております。途中で分解します。焼夷弾は長さ約35センチあります。その先に布が2本くらいついております。分解した時その先に火がつきます。だんだん燃えて管の中の油に火がついて中の油はこんにゃくのような油でぐらぐらに。だから家に落ちた時は火力で燃え上がります。焼夷弾1本あれば家庭のお風呂がたけたのです。

B29飛んで来て落ちる時もあります。夜ですと低空で5000メートル位で、たまに高射砲の弾丸があたりますと真赤な炎の塊となって落ちて行きます。
米軍の飛行機は先進国ですから非常に性能がいいので高度12,000メートルも飛んでいるのでは日本の高射砲ではあたりません。みんな下でバンと音がしておりました。私のいた蒲田も一夜明けますとまわりは焼け野原でした。どこをどう帰ったか4、5人で帰ったのですが、不思議にもまったくそのままでありました。

第二回目の空襲はもっとすごい大空襲でした。B29、100機、艦載機500機、波状攻撃して来るのです。

その頃の米軍はサイパン諸島にいたのです。航空母艦に帰っては爆弾積んで日本に行って落として、また帰ってまた爆弾を積んでその繰り返しです。ちょうど寄せては返す波みたいなものです。

飛行機と爆弾の落とした煙、焼夷弾の燃える煙、空は真っ黒、どこをどう見ても夜のようなくらい感じでした。

私の側に焼夷弾が落ちたことがありました。不発弾でした。中でジンジンという音がしておりました。まさに屁っ放り腰ということでしょう。軍手をはめその上にボロ(軍)手をはめて投げました。いや本当に怖かったのです。私達の寮も焼けました。寮の側に川があります。6メートル位の幅なのですが、その中を丸太のように死人が流れて行くのです。

そしてこの戦争のために数え切れない多くの人命が失われ、ありとあらゆる人類遺産が破壊されたのです。グアム島戦死者2万1000名あまり、サイパン島玉砕で戦死者4万3千余り。食料も本土から輸送船が途中で米軍のために米、水、その他のものが沈んで行ったのです。飲むに水なく、食べるに食なく、カタツムリや草の根を食べていったのです。

私もサツマイモを生で食べたり、えびがに(ザリガニ)を食べたり、お米を生で食べたり、その私達は蒲田で食べるものも無いので、皆さん成田山ご存知ですね、そこに行きますとまだ食べ物がありました。サツマイモの団子つまり芋団子ですね。えびがに(ザリガニ)の茹でたのもです。それはたまに行って食べるのが本当に楽しかったです。

今でも50年前が昨日のように思い出されますが、京浜蒲田という駅です。そこは死人の山でした。その臭いが鼻について離れませんでした。私はしばらく山梨に疎開しました。東京と山梨に連絡員がおりましたがP51という小型飛行機にやられました。

戦争が終わって東京に帰っても、たまに米軍の飛行機が飛んでくると先入観でまた撃たれるのではと思わず腰をかがめたものでした。でも白人の飛行士は手を振って行くのです。

いよいよ田舎に帰ることになりました。9月3日間かかって北海道に帰りました。家に着きますと母親も父親もただびっくりしておりました。私が仏さんになっておりました。ご飯をたくさん食べた時の幸せ、今でも思い出します。

これからは皆さんの時代です。一生懸命勉強して良く遊び、身体をつくり、悔いの無い人生、また、素晴らしい人生を作り上げてください。

皆さんの貴重な時間を頂きまして本当にありがとうございました。

母の葬儀

2014-10-31 11:30:03 | Weblog
29日の前夜式、30日の告別式と無事に母の葬儀を終えることが出来ました。親族もキリスト教の葬儀に理解してくれたようで何も言われることはありませんでした。中には良いお式だったといってくれたかたもあり、ほっとした思いでおります。皆様のお祈りに感謝です。

私達も初めてのキリスト教葬儀でしたが、母の好きだった「主に任せよ、汝が身を」「人生の海の嵐に」を歌い、前夜式では、長男と従姉妹、私がそれぞれに母の思い出を語り、参列者と分かち合いました。

また、この葬儀を私たち家族のゆかりの教会で執り行えたのも感謝なことです。この教会の中に長男がお世話になったフリースクールOO学園があるからです。司式をして下さった牧師先生はこのフリースクールの元園長先生で、先日、母にバプテスマを授けてくださった方なのです。母は生前、孫を受け入れてくれたこのフリースクールに感謝しているとよくいっていましたから、きっと喜んでいるでしょう。14年前、父の葬儀の後パニックを起こすようになった長男は今はすっかり落ち着いているのも感謝です。彼はおばあちゃんが今笑っているように感じるのだそうです。ナイーブな次男はずっと泣いていましたが…。

今母は神様とともに御国で父とともに安らいでいるでしょう。

母が天に召されました。

2014-10-26 11:24:13 | Weblog

今日、11時2分、母が天に召されました。

皆様、お祈りをありがとうございました。

これからキリスト教の葬儀を進めますが、親族の中では私は初穂で初めてのキリスト教の葬儀になります。理解のない者もおります。


どうか親族、母の友人に理解が得られますようお祈りいただけますようお願いします。

母の闘病記3

2014-10-25 11:22:55 | Weblog

今日の母は昨日とは打って変わってほとんど反応がなく、私のこともわかってないようだった。意識が飛んでると言うのだろうか、目を大きく見開いているけれど焦点が合ってないし、時々、顔をゆがめたりする。

食事も咀嚼をするものの飲み込むのがやっとで、喉に引っ掛けてしまう。吸引を2度ほどしてもらった。昼、夜とあまり食べてない。

歯をガチガチさせたり、口を大きく開けたり、アーアーと叫ぶ。あまりの変わりように戸惑ってしまった。


やはり、痛み止めの薬からくるものらしい。

本当に昨日は病床洗礼のために主が備えられた日だったんだとつくづくおもった。

でももう一度、母と話したい。

神様、苦痛があるのなら取り除いてください。あなたが絶えずそばにいて平安を与えて下さいますように。明日は落ち着いていますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

母の闘病記2

2014-10-23 11:17:15 | Weblog

朝、目覚めると夜中病院から呼び出しがなかったことにホッとする。

母は手はかすかに手すりをつかめるほど。点滴をやめたので手の浮腫はひいてきている。この頃嬉しいことは時々意識がはっきりしているときに出来る会話。
「まだ(私)生きてるの?」にはじまって
「今日も可愛いね。いい娘だ。」「今が一番幸せ」「ありがとう。みんなに宜しく言ってね。」長男を見るとやはり嬉しそうに笑う。「OOちゃはいい男だね。ありがとうね。」「もうすぐ楽になるからね」


この頃母の目は空中をみている。その瞳はとても澄んでいる。

掃除婦さんが掃除をしに来た時、母は起きていたそうだ。そして、壁を見ながらこんなことをいったのだという。「女神様が見える。今お話してる。」それは天使?マリア様?それを聞いて胸がいっぱいになった。それというのも3日前地獄の夢を見たと言って自分は地獄におちるのだと怯えていたからだ。お母さんはイエス様を信じたんだから絶対地獄なんか行かない天国にいくんだよと説明しお祈りしたのだった。神様が護ってくださっているんだと嬉しくて泣きたくなった。

「今日を一番いい日にするの。2人の記念日にするの。2人で協力しあってね。」そして長野に旅行に行くのだという。父の夢でもみたのだろうか?

母の心は平安で満たされている。それが何より感謝だ。

母の闘病記

2014-10-19 23:45:06 | Weblog
母が再入院して2か月がたった。これは今月に入って約3週間、病状はこんなにも変わるものなのか…。




10月1日

毎日母の入院している病院に行っている。この頃母のいっていることがよくわからない。ろれつがまわらないうえに声が小さい。それでも何とか話を合わす。

今日は変なことを言っていた。患者の家族が集まってその人の財産分与でもめていたとか、近所のおばさんが待合室に座って他の人といっしょに孫の悪口を言っていたとか。何を言っているのかさぐりながらとにかく話を合わせた。アルツハイマー?

体は衰弱している。寝たきり状態。人の話もあまり聞いていない。自分の事しかはなさなくなった。だんだん私の知っている母ではなくなっていくようで怖い。こんな時思う、私に兄妹とかいればよかったのに。そんな事思っても仕方ないね。



10月2日

病院で吐いてから病院の食事はとらなくなったのでおかずを持って母のところへ。昨日のように話がちぐはぐ。まあ、いいや。

おかずを食べて歯磨きをして蒸しタオルで顔を拭くのが毎日の日課になっている。

先日ユーオーディアの試験で演奏した曲を聴かせたら喜んでいたので今日は賛美歌をフルートで吹いて録音し、母に聴かせてあげた。賛美歌の曲は「主に任せよ」「人生の海の嵐に」。


歌詞も書いて聴きながら歌詞を見てねと渡したのだが母は目を閉じて聴くスタイルなので歌詞は見てもらえなかったけど賛美歌は、とくに「人生の海の嵐に」の曲はとても気に入ったらしい。明日は何の曲にしようかな。



10月13日


母が笑顔になるとき、孫の話、故郷の話、母の得意料理の話。

今日は母がとてもうれしそうだった。というのも長男がパソコンで母の故郷の大ケヤキや母の若かりし頃のゆかりの地の町並み、上野駅、その頃の電車などの画像をプリントして母にみせてくれたからだった。

懐かしいんだね、孫が可愛いんだね。良かったね、お母さん。




10月16日

昨日、母の病室を大部屋からやっと個室へ変えることができた。やはり以前より落ち着くかな。お金はかかるけど母にとって心地よいほうがいい。

ありがたいことに食欲はある。食事のとき今度の課題曲を聴かせると「いいねぇ」「楽しみだねぇ」と嬉しそうだ。

手の力がなくなってきて食事も歯磨きも私がやるようになった。


この頃うつらうつらしていることが多くなってきたせいか時間が経っていることがわからないんだろう。「もう帰るの?」という。可哀想になるけど仕方ない。帰る時お祈りをしてから帰る。もうお祈りも忘れちゃったかなぁと思っていると、しばらく経ってアーメンと言ってくれた。

今日は昨日より時間を多くとろう。



10月17日

この頃病室で讃美歌を歌っている。母はやはり目を瞑って聴いている。1曲終わるともう一回歌ってという。昨日は4曲。もともと歌が好きだった母、今日は親友のお見舞いもあってか昔を思い出して小学唱歌をうたっていた。YouTubeで唱歌メドレーをながして知っている曲はいっしょに歌ったりした。

そんな中、医師から非常に厳しい状態だと聞かされた。腹水で手も足も浮腫んでいる。そのため点滴をするのが難しくなっていて点滴をやめることになった。なんだか胸が締め付けられる思い。どうか痛みや苦しみがありませんように、主の平安が母にありますように。


そして今日、

10月19日

この頃の母は眠ってばかり。
今日はベッドのかたわらにいると突然、寝ている母がうわごとのように「バカ、バカ」という。悪い夢でも見ているのかと「お母さん、どうしたの?」というと「そこで話しているのきこえてるんだから。みんなわかってるんだから」眼をつむったままという。こちらは???である。なんだか被害妄想。夢からまだ冷めてないのか。

反応もあまりよくない。長男が来た時も声をかけてしばらくしてから長男のことをにんしきしたらしくやっとニコッと笑うのだ。長男が母を喜ばせるために持ってきた写真を少し見るとまたすぐ眼をつむってしまった。痛み止めの薬のせいだろうか。食べている時だけかろうじて起きているような状態。少しでも食事の時を豊かなものにできればと祈りつつご飯を食べさせている。食欲はある。少しでもぽサポさしているとしばらく噛んだ後出してしまう。まるで赤ちゃんがやるみたいに。眠りながらご飯を食べているみたい。

薬を使わなければ意識ははっきりするだろうし、妄想もなくなるだろう。でも薬を使わなければ痛みがある。でも痛みで苦しんでほしくない。これしかないのか・・・。







母の再入院

2014-08-20 01:24:22 | Weblog
母が再入院して一週間たった。その間にターミナルケアを考えて地元の病院に転院した。家と病院の行き来でやっぱり疲れる。練習時間も十分に取れない。 その焦りやいつ呼び出しをうけるかもしれないという不安でいっぱい。

昨日も話しがあるから至急来てくれという。その途端心臓をぎゅーっと掴まれているような気分になった。ドキドキしながら病院に着くと転院の経緯が他の医者に申し送りがきちんとできていなかったらしく母は口下手なので自分の説明で話しが通じているか心配で電話したというものだった。
よく考えたら母の具合が本当に悪いなら本人ではなく病院がかけてくるのにね。ヽ(´o`;



母に残された時間がどれほどなのかわからないが、出来るだけのことをしてあげたいと思う。

時が過ぎるのを忘れるくらい楽しい時

2014-07-13 00:37:44 | Weblog
高校時代の友達と30年ぶりにあった。

楽しくて時間が過ぎるのを忘れるくらいだったよ。

気分だけは高校時代の30年前にすっかりタイムスリップ。。

喋った、喋った、笑った、笑った。タイムスリップ。

30年ぶんの思い。気が着いたら待ち合わせ時間から8時間も経ってしまっていた。

それもまた、大笑い。

しゃべりたりないから今度は泊りがけで女子会やろうねなって話して別れた。

やっぱり気の合う友達っていいな。

押し買い

2014-05-15 13:00:43 | Weblog
先日、とても腹の立つ出来事が!

押し買いって知ってる?

押し買い詐欺、買い取り詐欺というのがあるらしい。全国的に被害者が出ているという。

どんな手口かというと、
突然、訪問し、いらなくなった古着を買い取りたいという。家に上がり込んだら古着のほかに貴金属はないかときいてくる。その貴金属を超安い値段で買い取るの。後で気づいてクーリングオフしたいといっても相手側はもう処分して無いといい、安く買い取られたその品物が帰ってくることはない。

その輩が、今日、母のところにきたのである。玄関をノックする音で母が応対に出た。暫くすると、「うちには売るもんなんで何もありませんよ」と言いながら、母が苦虫噛みつぶしたような顔でもどってきた。聞けばしつこい人で以前にも来たらしい。私が玄関に行くとまだドアの隙間からずっと淀みなくしゃべり続ける女がいる。

そこで、私が少しぶっきらぼうに「何もないですよ!」というと相手はお婆ちゃんではなく私の声に明らかに態度を一変させ何も言わずに引っ込んだのだ。ということは、お年寄り狙い?なんだか腹がたって」もう一言いうと、その女は最後に捨て台詞、「うるせぇっ!」

この言葉に、完全に私は切れてしまった。私も言ってしまった。外でまだわめいているのでドアをあけて「ふざけんな!うるさいのはお前だよ!」そうすると奴も応戦し、「お前だよ!」

そんなボキャブラリーの少ない低レベルな言い合いが続いたと思う。そしてびっくりしたのはその女がとても若くてそこらへんにいるような普通の子だったからだ。それなのにまるで訓練でもしたかのような話し方で粘りに粘ってしつこくつきまとう。私自身、汚い言葉で相手を罵ったことに嫌な気持ちになったが、あんな若い女の子が罪悪感も無しに詐欺の片棒担いでるのかと思うと嫌になった。

あとで県や市のホームページをみたらこの手の詐欺で被害者が増えているという。中には震災のための募金を口実に買い取りを迫るケースもあるらしい。

ひどい話だね。よく悪知恵が働くもんだ。知恵はいいことに使いなさいよ!


その後、市役所の消費者生活センターと警察の生活安全課に電話を入れておいた。

その話を母にしたら、私が怒鳴った時の話になった。母は私が低姿勢な相手に勝手に一人でキレて怒鳴りまくっていたと思っていたらしい。相手の怒鳴り声も言い合いも全部私だと思ってたみたい。そして次男と一緒にひいていたんですって。とんでもない娘の一面を見てしまったと。

見ず知らずの相手に何にもなくてキレまくるなんてことはしません。そりゃないでしょ、お母さん。


皆さんもお気をつけて!